餌をねだる鯉の大口春浅し 石黒 賢一
餌をねだる鯉の大口春浅し 石黒 賢一
『この一句』
冬の間、水底でじっと眠るように動かなかった鯉が、春になって水温が徐々に高まると、やおら動き出す。プランクトンが繁殖し始め、それを食べる水棲昆虫が増えて来ると、鯉たちの動きは俄然活発になる。
有名な庭園の池だと、春到来と共に観光客や近所の散歩の人たちが多くなり、中には茶店で買った麩やわざわざ自宅から持参のパンの耳などを与える人もいる。鯉はそれを知っているから、人の影や足音を感じるとわーっと寄って来て、ひしめき合い、水面が盛り上がるようになる。鯉同士競り合って大口を開けて伸び上がる。餌を投げ込むやばしゃばしゃと水を跳ね返し大変な騒ぎだ。
ちょうどこの頃は、鴨たちが北国に帰る時期でもある。彼らは長距離飛行に備えて体力をつけるために食欲が旺盛になる。餌が撒かれるのを見たら、鯉どもの頭を踏みつけるようにして群がり寄って来る。この争奪戦は激しく、波が立って軽い麩やパン屑は思わぬ方へ流れる。そこを鯉が素早くキャッチする。鴨と鯉との餌捕り合戦は概ね鯉の勝利に帰するようだ。
この句はそんな大騒ぎには触れず、鯉の様子に的を絞っている。「鯉の口って、ずいぶん大きいんだなあ」というつぶやきが聞こえて来るような、憂き世のことを一時忘れさせてくれるような、楽しい句である。
(水 21.04.09.)