桜さくら今日もどこかで人が死ぬ  嵐田双歩

桜さくら今日もどこかで人が死ぬ  嵐田双歩 『この一句』  合評会でこの句に対する選評を聞いていて、「桜」あるいは「花」に対するイメージは実にさまざまだなと思った。「桜の樹の下には死体が埋まっている」という小説を思い出した人がいた。戦前の軍隊や特攻隊の「散る桜」をイメージする人もいた。また、西行の「ねがはくは花の下にて春死なん」の歌も忘れることができない。  それぞれニュアンスは異なるが、日本人の死生観の中心に、「桜」あるいは「花」のイメージが纏わりついていることは間違いなさそうだ。いっぽうで、「桜」に華やかで浮かれた気分を感じるという人もあり、この方にとっては「桜」を「人の死」と取合わせることには違和感があるようだった。花見の宴会など、現代はこのイメージの方が主流かもしれない。  この句は季語の「桜」に「今日もどこかで人が死ぬ」という至極当たり前の措辞を取合わせただけの句である。俳句は具体的なモノやコトを詠むことを善しとするのに、ここで詠まれている死は、誰かの具体的な死ではなく、抽象的で一般的な死である。こういう句はひとつ間違えば達観や観念論に傾斜してしまう恐れがある。しかし、この句は外連味なくさらっと詠まれたことで、読み手に「あゝ、そうだなあ」と共感させる、しみじみとした味わいのある句になっている。「桜さくら」と表記を変えてダブらせたことも、とても効果的である。 (可 21.04.19.)

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休耕田紫雲英に染まり甦る    久保田 操

休耕田紫雲英に染まり甦る    久保田 操 『この一句』 田畑は長年耕作し続けると、病害虫がはびこり出し、収穫量が落ちて来ることがある。そこで耕土の疲れを癒やすのと、病害虫の卵や細菌、エサになるようなものを失くすために半年なり一年休ませる。大概は田畑の上で枯れた雑草や藁を焼く。こうして病害虫を殺すと同時に、燃えカスの灰が表面を覆い肥料となる。その後に紫雲英(ゲンゲ)や馬肥(ウマゴヤシ)など田畑に有益な作用をもたらす根粒菌を持つ草のタネを蒔いて放置する。昔はこれを休耕田(畑)と言った。 ところが近ごろの農村地帯の事情は昔と大いに異なり、耕作の担い手が無くなったり、国の減反政策に応じてといった休耕田が多い。都市近郊の農村地帯では“田畑として活用しているふり”をして紫雲英や草花をはやして宅地並み課税を免れている休耕田もある。トヨアシハラミヅホノクニの堕落である。  しかし、本当の休耕田であろうと、税金逃れの休耕畑であろうと、そこに咲いている紫雲英に罪は無い。春になれば緑の葉を茂らせ、赤紫の可憐な花を一斉に咲かせる。雑草が生い茂り手入らずの荒れ果てた田畑が生き返ったようだ。中には粋な地主もいて、そこに山羊を放したり、誰もが入って遊べるように開放している休耕田もある。親子連れがそうした紫雲英の田畑でピクニックしている情景は楽しく、まさにこの句のような雰囲気である。 (水 21.04.18.)

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ライオンの檻を自由に雀の子   田中 白山

ライオンの檻を自由に雀の子   田中 白山 『この一句』  読めばすぐに場面が浮かび、ほのぼのとした気分になる句である。作者は句作にあたっては極力自分の眼で確かめるという現場主義で知られる。おそらく動物園で実際に目にした光景であろう。ライオンが寝そべっている檻に、好奇心旺盛な子雀が入り込み、恐れげもなく歩き回っている。「食べられやしないか」と、ちょっとスリルを感じる場面なだけに、雀の子の冒険心や愛らしさが一層印象づけられる。  福音館から出ている「こすずめのぼうけん」という絵本がある。イギリスの児童文学者の作品を石井桃子さんが翻訳したもので、一人で飛べるようになった子雀が遠くまで行き、泊まるところもなく様々な体験をして巣に帰るまでの物語だ。試練に立ち向かう子雀と、信じて待つ母雀の姿が感動を呼ぶ。洋の東西を問わず、雀の子は冒険好きで目を離すと思いがけない所まで飛んでゆくのだろう。  掲句はそんな雀の子の行動を、ドラマチックな物語仕立てで詠んでいる。最初に「ライオンの檻」という大きくて怖いものを提示し、次に「自由に」で何だろうと思わせ、最後に小さくて可愛い「雀の子」のアップになって完結する。わずか十七文字だが、「こすずめのぼうけん」に劣らない起伏に富んだ冒険物語ではなかろうか。 (迷 21.04.16.)

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一行を行きつもどりつ春眠し   池内 的中

一行を行きつもどりつ春眠し   池内 的中 『合評会から』 命水 春は良い季節ですね。読書に没頭しているとどこまで読んだか分からなくなることがあります。 水牛 コロナ籠もりを奇貨として、読書に身を入れようと、ちょっと堅苦しい内容なので積んで置いたままの本を紐解いた。ところがやはり選んだ本が良くなかったか眠気を催し、いつまでたっても進まない。とても面白い。 *       *       *  春の眠さはいかんともしがたい。生理学的には明快に説明できる現象なのだろう。専門家の説明によると、春は睡眠中の副交感神経が朝になっても活発な交感神経に切り替わりにくいからだという。「春眠暁を覚えず」はこの間の事情を詩に詠んで日本人にあまねく親しまれている。掲句は朝の眠たさを詠んだものではない。「春眠」の季語の本意は寝起きに限らず春の二六時中の眠気をいう。日中、春の眠気の中で本を読むとちっとも前に進まないことがある。心ここにあらずというわけではないが、読書に集中しようと思っても眠気が邪魔する。同じ行から先に進めず目が右往左往。みんなよくある体験を上手に詠めば、合評会評はおのずと異口同音にならざるを得ない。 (葉 21.04.15.)

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紫雲英咲く彦根は城と湖の町   須藤 光迷

紫雲英咲く彦根は城と湖の町   須藤 光迷 『合評会から』(酔吟会) 青水 関東者からするとずるいと云いたくなる。うまいもんだねえ。 春陽子 季語が効いた、旅に誘う素晴らしい一句。コロナが納まったら、彦根吟行に行きませんか? 水牛 「おっしゃる通りですね」と言うより他ない句ですが、紫雲英の咲く頃の彦根はいいですね。いかにもうららかな感じが伝わってきます。 *       *       *  最近はあまり聞かないが、「俳句をひねる」という常套句がある。苦心して俳句をひねり出すと言う意味だろうが、ストレートに表現するのではなく、読み手の関心を誘うような措辞や表現を使う、というようなニュアンスもあるような気がする。 この句には、そういう意味でひねったところがなく、季語の「紫雲英」に「彦根は城と湖の町」という当たり前のことをぶつけ、彦根の春の素晴らしさを平明に詠んだ句である。最初に読んだ時、筆者はその平明さからこの句を素通りしたのだが、再読して、その平明さゆえになんとも気分の良い句に仕上っていることに気づかされた。この句を「ひねって」しまうと、おそらくその良さが消えてしまいそうだ。ひねらずに止めるのは、結構むずかしい技のような気がする。 (可 21.04.14.)

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朝日さし花よりひかる椿の葉   後藤 尚弘

朝日さし花よりひかる椿の葉   後藤 尚弘 『季のことば』  椿ほど花期の長い花木は少ないのではないか。植物辞典などによれば「山茶花に遅れて咲き」などとあるが、我が家(東京・中野)の近辺で見かける薮椿の類は、山茶花に負けずに早く咲き出し、二月末、山茶花が散っても咲き続け、さらに三月の末になっても、落ちてまた、落ちてはまた、赤い花をしぶとく咲かせている。  そして椿の特徴にもう一つ、葉のすばらしい光沢がある。椿餅に用いられる葉は上下に二枚用いるようだが、歳時記によれば「光沢を見せるために上下とも表を外側にする」のだという。掲句は赤い花よりも葉の光沢を「花より光る」とし、句に詠み込んだ。春光の増すこの頃は、椿の花の少なくなり、葉の存在感の増す時期でもある。  ところでこの句、「朝日さし」「花よりひかる」と動詞を二つ用いた。「一句に動詞二つ」は禁止事項とまでは言えないが、俳句にはやはり動詞一つがよさそうだ。「上五」は「朝日影」に代えてみたらどうだろう。「朝日影花よりひかる椿の葉」。口調はよくなったと思う。なお「朝日影」の「影」は「光」を意味している。 (恂 21.04.13.)

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灯を消せば俄かに近く蛙聞く   水口 弥生

灯を消せば俄かに近く蛙聞く   水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 反平 部屋が暗くなったとたん、耳の神経が鋭くなって、それまで気付かなかった音が聞こえてくる。感覚の鋭い句。 方円 暗くなると、音に人間の神経が集中するのか。蛙は実は近くで鳴いていたというのがいい。 三代 確かに暗くなると音がくっきり聞こえます。蛙の合唱が枕辺に響いてきたのでしょうか。 雅史 田んぼの近くに泊まった時、蛙の合唱を聞きながら眠りについたことを思い出しました。 操 灯りを消したその瞬間、間近に聞こえくる蛙の声。その闇間が心地よい。             *       *       *  何と言っても「俄かに近く」の実感性である。暗くなり視覚が閉ざされると聴覚や嗅覚が鋭敏になる。部屋の灯りを消したら、それまで意識しなかった蛙の声が急に耳に入ってきた。ともすれば「俄かに聞こゆ」とか「俄かに響く」などと言いそうだが、作者は「俄かに近く」とその時の実感を詠んだ。暗闇から蛙の声が湧き上がってくるような卓抜な表現だ。多くの人が自らの体験を重ね合わせて共感し、点を入れた。作者によれば江ノ電の線路際で暮らした頃の体験を詠んだものという。「夜になると蛙の声をはじめ諸々の音が聞こえ、暗闇がもたらす豊かな時間があったことを思い出します」という自句自解を読むと、詩情豊かな句の世界がさらに広がってくる。 (迷 21.04.12.)

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鳩時計五分遅れて鳴るうらら   廣田 可升

鳩時計五分遅れて鳴るうらら   廣田 可升 『この一句』(酔吟会)    鳩時計、ほとんど見ることがなくなった昔懐かしい時計だ。ぽっぽっぽっと鳴きながら鳩が顔を出して定時を告げる。デジタル全盛の今は骨董品的な扱いに甘んじている。鳩時計専門店もあるようだが、一般の時計店に行ってもお飾りほどの存在でしかない。当然アナログだから電波時計のような寸秒も狂わない正確さはないが、目にしただけでなんだか癒されるのは間違いない。そもそも鳩時計という小道具自体が俳句と言っていい。春の麗らかさを詠むのに鳩時計を持ってきた作者は手練れの人である。  作者の家には鳩時計があって、居間のアクセサリーになっているのではないかと想像する。しかしこの鳩時計は機械仕掛けの悲しさ、ものの一カ月もしない間に遅れが出てくる。ものぐさではない作者は律義に時間調節をするのだが、やっぱり遅れる。テレビを見ていて正午のニュースでも始まったのだろうか。鳩時計を見上げると五分遅れている。まあいいや、正確な時間はスマホでもパソコンで見られる。いまは放っておこうという雰囲気がほのかに見えるようだ。五分遅れているのを頭の中に入れておけばいいだけだというのが、「うらら」なのだ。「鳴るうらら」とした下五は効果的である。「うららかや五分遅れる鳩時計」という詠み方もできそうだが、圧倒的に掲句の方がいい。 (葉 21.04.11.)  

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餌をねだる鯉の大口春浅し   石黒 賢一

餌をねだる鯉の大口春浅し   石黒 賢一 『この一句』  冬の間、水底でじっと眠るように動かなかった鯉が、春になって水温が徐々に高まると、やおら動き出す。プランクトンが繁殖し始め、それを食べる水棲昆虫が増えて来ると、鯉たちの動きは俄然活発になる。  有名な庭園の池だと、春到来と共に観光客や近所の散歩の人たちが多くなり、中には茶店で買った麩やわざわざ自宅から持参のパンの耳などを与える人もいる。鯉はそれを知っているから、人の影や足音を感じるとわーっと寄って来て、ひしめき合い、水面が盛り上がるようになる。鯉同士競り合って大口を開けて伸び上がる。餌を投げ込むやばしゃばしゃと水を跳ね返し大変な騒ぎだ。  ちょうどこの頃は、鴨たちが北国に帰る時期でもある。彼らは長距離飛行に備えて体力をつけるために食欲が旺盛になる。餌が撒かれるのを見たら、鯉どもの頭を踏みつけるようにして群がり寄って来る。この争奪戦は激しく、波が立って軽い麩やパン屑は思わぬ方へ流れる。そこを鯉が素早くキャッチする。鴨と鯉との餌捕り合戦は概ね鯉の勝利に帰するようだ。  この句はそんな大騒ぎには触れず、鯉の様子に的を絞っている。「鯉の口って、ずいぶん大きいんだなあ」というつぶやきが聞こえて来るような、憂き世のことを一時忘れさせてくれるような、楽しい句である。 (水 21.04.09.)

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多摩の野に風吹き渡り春浅し   篠田 義彦

多摩の野に風吹き渡り春浅し   篠田 義彦 『季のことば』  「春浅し」は「早春」と同じ時期、立春から二週間ばかりの時期を言う。吹く風はまだ冷たく、時には雪が降ったり氷が張ったりする「春は名のみ」の頃合いである。温度計ではまだまだ冬と言った方がいいくらいの寒い日々だが、とにかく「春」になった、やれやれという気分である。地面には下萌えの緑が見え、木々の芽も膨らんできて、梅が咲き始めた。若々しい生命の息吹が伝わってきて、気分もおのずから前向きになっている。「春浅し」という季語は、そうした趣のものである。  「多摩」とは古代の多摩郡から出た地名で、今日の三多摩はじめ中野区、杉並区、世田谷区、神奈川県相模原市、川崎市多摩区を含む広大な地域である。標高5、6百メートルから千メートル級の山もあれば丘陵地帯もあるが、麓には多摩川とその支流が作った平らで肥沃な広大な土地が広がる。 作者は町田市の住人だから、まさに「多摩の野」の一角。そこを吹き抜ける早春の風はとても厳しい。エアコン完備のぬくぬくとした屋内から出た身体をシャンとさせるに十分過ぎるほどである。この句は、そうした気分をさり気なく平明に詠んでいる。 (水 21.4.8.)

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