幼子がブランコせがむ遅日かな   篠田 朗

幼子がブランコせがむ遅日かな   篠田 朗 『季のことば』  こんど日経俳句会に入会した人の初めての作品である。長い会社務めから解放され、趣味の世界へ足を踏み入れてみようかという作者だ。日ごろ孫の世話が大変だと言って入会を躊躇していたが、やっと俳句に浸れる状況になったらしい。  「遅日」という季語。なににでも合わせられるようで、これが遅日だとぴったりくる句を作るのはかなり難しい。時候、天文、地理、日常生活、行事などあらゆる事象を「遅日」に掛けあわせて作句が可能と思え、それだけにありきたりになりやすい。動物や植物と掛けても同様である。そこに作者は「ぶらんこ」を持ってきた。これも春の季語だとは思ったか思わなかったか。それはこのさい問題ではないだろう。ちなみに歳時記に載る「鞦韆」という重厚な漢語と「ぶらんこ」「ふらここ」の間には、同意の季語ながらなにやら別物のような気分がする。あまりにも三つの言葉の開きが大きい。  季語はあくまで「遅日」。「ぶらんこ」は添え物であって、この句は暮れなずむ春の日の夕刻間近を主題として詠んだものだと分かる。孫の面倒をみる作者がせがまれて公園の遊具に向かう。しょうがないなあ、日暮れも近いけど行ってやらねばならないなという作者の心情と生活の一部が覗けた初作品となった。 (葉 21.04.30.)

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羊水を漂ふ如き朝寝かな     須藤 光迷

羊水を漂ふ如き朝寝かな     須藤 光迷 『この一句』  句を見て「なるほどなぁ」と深く頷いた。会心の眠りを十分に言い表しており、これぞ春眠!と言いたいほどであった。春眠の心地よさ、深さ、そして母親の羊水から宇宙的な命の誕生の歴史までを感じさせて「まさに秀逸」と評価しつつ、私は掲句を選んだのであった。ところが以上のような感想を句会で述べたところ、エライことになった。  「そんなこと、男性だけが抱く、とんでもない幻想です。男のロマンかも知れませんが、お腹の中で生命を育てるという行為は女性にとって現実のこと。母親は赤ちゃんと一体で、出産は必死の作業なのです。羊水の中にいた事なんて誰も覚えていませんよ」。句会のリーダー役でもある女性の言葉に、私はまさに仰天、男の無知を実感するに至った。  俳句というものの解釈や評価に男女の違いはない、と私はぼんやり思い込んでいた。誕生時の盥(たらい)の縁に反射する陽光を覚えている、という三島由紀夫の小説と掲句を同レベルに置いてのコメントも、真面目なものだった。しかし出産を体験している女性の言葉に反論の余地はない。俳句歴六十余年目に訪れた大ショック、と告白する。 (恂 21.04.29.)

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偲ぶ雨枝も重かろ八重桜     工藤 静舟

偲ぶ雨枝も重かろ八重桜     工藤 静舟 『この一句』  「偲ぶ」は「過ぎ去ったこと、離れている人のことなどを密かに思い慕う(広辞苑)」こと。例えば、「偲ぶ会」には故人と親しかった人が集う。掲句も亡くなった親しい人を想っているのだろう。雨の日に、満開の八重桜を眺めていたら雫の重みで花がうなだれていた。あんないいヤツが先に逝ってしまうなんて……。ついつい、友を偲んでいる自分に気づく。論語に「朋友切切偲偲」という一文があって、友達とはいつも心を込めて励まし合う、という意味らしい。「偲」の字を遣った作者の思いが読者に響く。  同じ句会には、「こでまりを愛した人を偲ぶ朝」(池村実千代)という句もあった。この句の作者は最近、最愛の伴侶を亡くしたと聞く。こでまりの花が好きだったのだろう。こでまりは、花言葉の「優雅」「上品」にふさわしい気品のある花だ。きっと、お洒落で素敵なご主人だったに違いない。「こでまりを愛した人」と婉曲的な言い回しだが、「こでまりや愛した人を偲ぶ朝」と「や」で切ってみると、作者の心情がストレートに伝わる。 「偲ぶ」に込められた思いは、それぞれ違うもののそれぞれ深い。 (双 21.04.28.)

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羊の毛刈るバリカンの一気呵成  塩田 命水

羊の毛刈るバリカンの一気呵成  塩田 命水 『季のことば』  あまり馴染みのない春の季語に「羊の毛刈る」がある。育羊の盛んな地方の俳人くらいしか季語に採らないのではなかろうか。なにしろこの光景は、テレビでも春の風物詩としてごくまれに映されるくらいだから。日本では飼育頭数も一時に比べ相当減っているらしい。 作者は海上自衛隊の元幹部だった。この句は、若い頃航海でニュージーランドに行った時に見たシーンだと言う。 羊の国内最大産地である北海道育ちの評者は、その刈り取り光景を思い出した。育羊農家は春になると冬の間に伸びた羊毛を一頭一頭刈る。刈り取られた羊はヘアレスドッグのように情けない姿になる。横道に逸れるが、〝毛無し犬〟のルーツをたどると、古い三つの犬種に行きつくそうだ。三つといえば、サラブレッドも元は三頭の馬がルーツで、三という数字の一致は自然界の玄妙さを物語るようでなにやら面白い。  閑話休題。羊毛を刈るときを羊の立場に立って見れば、屈強の男に押さえ付けられ、電気バリカンのちょっと大きいのであっという間に全身の毛を奪われてしまう。すっぽんぽんという表現があるが、まさにその通りだ。この句は「一気呵成」の慣用句があの光景を過不足なく表現していて成功したと思う。ジンギスカン鍋に最適なサフォーク種の肉の旨さまでちらついて、一票を入れた次第である。(葉 21.04.27.)

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自粛時短柳に風の心持ち     大平 睦子

自粛時短柳に風の心持ち     大平 睦子 『この一句』  「自粛」「時短」とジで始まる言葉が二つ並び、ハハーンと思って進めば「柳に風」なる意外な文句の登場。さらにそこへ「心持ち」という微妙な表現が付け加わった。言葉としては「コロナ」も「ワクチン」も姿を現さない。だがこれは昨年、疫病に憑り付かれ、二進も三進もいかない日本の鬱屈した状況を的確に掬い上げている。  それにしても、外出自粛にもレストランなどの営業時間短縮にもいささかうんざりという市民の気分を「柳に風」とは実に巧く表現したものだ。気に懸かったのは、その後に続く「心持ち」が作者の気持ちなのか世間の気分なのか、どちらにも解釈できること。ここは後者と理解し、世の中を風刺する時事句と受け取った。  それにしても、またまたの緊急事態宣言。今度は酒類の提供もダメだと。大声を出して喋るとコロナ蔓延につながるかららしい。この事態が、この先どれくらい続くのか。不通のコロナ接触確認アプリ、後手後手のワクチン調達、厚労省や政府、自治体などの仕事ぶりにはうんざりである。だが、改善の気配はない。「糠に釘」なのだ。 (光 21.04.26.)

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春眠のパソコン画面謎の文字   谷川 水馬

春眠のパソコン画面謎の文字   谷川 水馬 『この一句』  一読して思わずニヤリとし、「ある、ある」と自らの体験を思い出して一票を入れた。パソコン作業をしていて睡魔に襲われると、一時意識が飛び、キーボードに置かれた指がキーを押し続けることがある。ハッと目覚めて画面を見れば、そこにはアルファベットや記号の意味不明な羅列が並んでいる。数秒で目覚めればいいが、寝落ち時間が長いと、謎の文字は数ページに渡って延々と続くことになる。掲句はそんな春の日の出来事をユーモアたっぷりに詠み、長閑な気持ちにしてくれる。 日本で売られているパソコンのキーボードは、アルファベットと仮名が併記されたJISの日本語配列が大半だ。アルファベットも仮名も配列に規則性はなく、むしろ打ちづらい並びとさえいえる。タイプライター時代からの歴史的経緯があって、この不便な配列になったらしい。使用頻度などをもとに、富士通の親指シフトなど、より入力しやすい配列も考案されたが定着していない。  作者は文章を扱う仕事柄、パソコンには熟達している。キーボードもワープロ時代から様々なタイプを使いこなしているに違いない。その作者も眠気だけは如何ともしがたい。ましてコロナで在宅勤務が続いている今日この頃である。会社とは違いリラックスして画面に向かっている時に、春眠が兆す。画面に謎の文字が浮かぶのも、むべなるかなである。 (迷 21.04.25.)

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テキストに欠伸一つ永き日や   久保 道子

テキストに欠伸一つ永き日や   久保 道子 『おかめはちもく』  なにかの自習テキストとにらめっこしているのであろう。もしかしたら“コロナ籠もり”を契機に、長年やりたい、学びたいと思いながら取りかかれなかった課題に挑戦したのかもしれない。  しかし、事志と異なって、テキストを読み始めるとすぐに眠気に襲われる。渋茶を飲んだり、そこいらをぐるぐる回ったり、ラジオ体操のようなものをやってみたりするのだが、さてまた机に向かうと眠くなる。まさに春の日である。  誰もが経験していることをすっと詠んでいるところがなかなか良い。しかし、問題は5・6・5という「字足らず」である。漢語で「欠伸」と書いて「ケンシン」と読み、日本でも古い書物にそう読ませる例があることはあるが、まさか現代俳句でそんな音読を用いたわけではなかろう。  世界最短の詩と言われる俳句は、「せめてもう一字でも二字でも使えれば」と詠み手を悔しがらせる短さである。だから、「破調」と言われるのを覚悟の上で「字余り」句を作ったりする。それなのに、この句は字足らずのままで「もったいない」と言われかねない。とにかく、「字余り句」は場合によっては許されるが、「字足らず」はいけない。それに、これは「意気込んでテキストに向かったが眠気を催してしまう有様です」という諧謔の句である。諧謔句は特に定型を守り、リズム良く詠んでこそ面白さが伝わる。 前後入れ替えて「永き日やテキスト前に大欠伸」とでもすれば、とにかく形が整うのではないか。 (水 21.04…

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近き人逝きて余生や暮の春    斉山 満智

近き人逝きて余生や暮の春    斉山 満智 『この一句』  「近き人」とはまことに簡潔な表現である。親兄弟ではなく、単なる仲のいい人でもない。従兄弟(従姉妹)あたりまで含めた、長い付き合いを持つ人。特に何でも話せる、信頼の置ける人だった、と推測出来よう。世の中に二人といないような人が亡くなってしまったのである。心の中に大きな穴がぽっかりと開いたという状況なのだろう。  そんな自分の心を見つめて「近き人逝きて余生や」とは、これまた何とも言いようのない簡潔さである。「これからの歳月は、私にはもう余生の日々なのだ」。亡き人は同い年か、いや、年の差は関係ないかな・・・。しかし、と考え込んだ。深い悲しみとか、嘆きなどとは、やや異なる次元の何かが、「暮の春」の中に漂っているようにも思える。  「近き人とは?」と作者に尋ねてみるか、とも思ったが、やめることにした。俳句という詩は、わずか十五音で全てを表わし、読む側もその中から全てを汲み取らなければならない。想像の幅を思い切って広げて見ることにした。もしかしたら作者の傾倒する作家が亡くなって・・・。そんな「近き人」だったら、いくらか気が楽になるのだが。 (恂 21.04.22.)

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婆さんの連弾の技春の風    池村 実千代

婆さんの連弾の技春の風    池村 実千代 『合評会から』(日経俳句会) 而云 「婆さん」は突飛だが、面白い。孫のピアノに連弾で加わったか。春の風が曲調を想像させる。 雅史 春風のように爽やかな演奏だったんでしょうね。とても素敵です。 水兎 素晴らしいですね。何を弾かれたのでしょうか?「老女」ではなく、意外さを感じさせるお二人が、春の風にのって弾くピアノ。人生百年時代ですね。 水馬 状況を色々と考えさせてくれる句ですね。また、連弾は一人ではできない難易度の高い曲も演奏できるそうですね。いづれにしても春らしいすがすがしい雰囲気がいいと思います。 *       *       * この句について作者の弁がある。「四月のピアノ発表会で友人と連弾します。曲目はパッヘルベルのカノン。ユーチューブでプロの演奏をきき私達のは小学生レベルだわと笑いながら練習を重ねる日々。相手の音をしっかりとつかみ心穏やかに楽しくピアノに向かいます。あうんの呼吸の技を駆使して。コロナの自粛生活のお蔭で得た一番の宝物かもしれません」。これがこの句についてのすべてを語っている。オバアチャマ二人の連弾。自分たちはもとより、子どもたち、孫たちにも有無を言わせず「上手い」と言わせてはばからない。春風が実に心地良い。 (水 21.04.21.)

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新しき靴おろす朝草若葉   中嶋 阿猿

新しき靴おろす朝草若葉   中嶋 阿猿 『この一句』  通学あるいは出勤前の情景と受け取ることもできるが、「草若葉」という季語を置いたところからすると、これは早朝のジョギングに出で立つところではなかろうか。下ろしたてのスニーカーを履いて「いざ」という気分である。きつすぎず緩すぎず、靴紐をしっかり締めて、立ち上がり、足踏みしめてみる。そして、颯爽と草若葉の道を走り出す。早春のちょっと肌寒い空気が殊の外心地良い。  ウオーキングでもジョギングでも、履き慣れた靴はなかなか捨てられない。しかし、毎日酷使しているのだから、しばらくたてば当然すり減って来る。極端に踵の減ったジョギングシューズを履き続けるのは運動中のバランスを崩したりして身体に良くないと言われる。それでも履き慣れたシューズは心地よく、なかなか捨てられない。それをある日、新品に取り替えたのだ。 別に大したことではないのだが、当人にとっては「変えたぞ」ということで、気分一新の趣を実感する機会になる。そうした気持がよく表れた佳句である。「草若葉」の季語がまさにぴったりである。 (水 21.04.20.)

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