初孫は女の子とや福寿草 谷川 水馬
初孫は女の子とや福寿草 谷川 水馬
『この一句』
孫を詠んだ名句を寡聞にして知らない。名のある俳人にも孫の句はあるが、人口に膾炙するような作品はなさそうだ。一方、子供を詠った名句は多い。「万緑の中や吾子の歯生え初むる」(中村草田男)や「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」(中村汀女)など数え上げればいくらでも思い浮かぶ。
その違いは何だろう。筆者が思うに、育てる責任の軽重ではないだろうか。孫も一つ屋根の下で一緒に暮らしている、あるいは何らかの理由で親代わりに孫を育てている、というようなケース以外は、孫とは離れて暮らしているのが一般的だろう。自分の血が繋がった幼子は、なにしろ可愛い。たまにしか会えない場合はなおさらだ。もうデレデレである。しかし、孫が泣き出せば親にバトンタッチ。お襁褓なのか空腹なのか、ジジババの出番はない。子育てはそうはいかない。夜中に我が子が泣き出せば、どんなに疲れていても起き出して面倒をみなければならない。玩具やおやつの与え方一つをとっても、親と祖父母では異なる。猫かわいがりすれば済む孫と、日々育児に向き合わなければならない吾子との違い。それが句に滲むから孫の句は客観的にみて「甘い」のだろう。
ところが、掲句は孫の句にしては珍しくべたついた感じがない。福寿草の季語がよく働いているが、何といっても「とや」が効いている。つまり「初孫は女の子らしいよ」と、他人事なのだ。なるほど、自分の孫を詠んでないからデレデレいてないのだ。
(双 21.03.10.)