抱き上げてこれが梅よと若き母  山口斗詩子

抱き上げてこれが梅よと若き母  山口斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) 的中 先日、近くの航空公園に蝋梅を見に行ったとき、たくさんの子ども連れがいました。抱き上げている親はいませんでしたが、理解できるかどうかわからない幼い子に梅を教えている様子、情景に親子の愛情を感じます。 命水 初めての子を持つ母ならではの微笑ましい光景です。父親ならおそらくしないような……。 斗詩子(作者) 健康維持のため、雨の日以外は近所の公園への散歩をほぼ毎日四、五千歩を続けています。梅の花がほころんできたな、春が近づいているなと思っていたら、幼い子を抱き上げ「これが梅の花よ」と教えている母親がいました。その子はほのかな梅の香も忘れないに違いないと、ほのぼのとした気持ちになりました。              *       *       *  白梅にせよ紅梅にせよ、咲き始めの頃は賑やかさはなく、枝の陰に隠れるようだったりして、見逃してしまいがちだ。俳人は開花を心待ちにし、寒さの中を探梅に出掛けたりする。この一句では、すでに枝の上に花が並んでいるのだろう。抱き上げられたのは保育園児あたりか。優しい母に見守られ、健やかに育って欲しい。 (光 21.03.21.)

続きを読む

春立つや崩落鉄橋繋がりぬ    高井 百子

春立つや崩落鉄橋繋がりぬ    高井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 可升 水害で崩落した鉄橋復活のニュース。地元はさぞ盛り上がっていることでしょう。季語は「立春」しかないですね。 春陽子 下五の「繋がりぬ」が春と繋がった感じもします。いずれにしろ鉄橋の復旧、よかったですね。 水兎 本当によかったですね。素直に嬉しくなります。コロナが収まったら……と虎視眈眈。 白山 繋がって良かったですね。相当時間がかかりましたね。 迷哲 台風による崩落から一年半。春到来とともに全線復旧、おめでとうございます。 光迷 あの赤い鉄橋が繋がりましたか。たった一駅の間と言っても、代替輸送ではやっぱり不便ですし。賑わいの戻ることを期待します。 *       *       * 一年半前の台風で押し流された上田電鉄の千曲川鉄橋がようやく復旧した。自宅の庭先にこの電車が走るのをいつも見ている作者としては、待ちに待った復旧である。その喜びが素直に伝わって来る。「春立つ」の季語が実によく合っている。作者夫妻の誘いを受けて、句友は何度か現地を訪れており、この電車にも鉄橋にもおなじみだ。この句を見て、皆わが事のように喜んだ。 (水 21.03.19.)

続きを読む

並ぶ列知る人ありて桜餅     鈴木 雀九

並ぶ列知る人ありて桜餅     鈴木 雀九 『合評会から』(日経俳句会) 阿猿 餅や団子ごときに人は並ぶ。最近はソーシャルディスタンスをとりながら。暖かくなってきたから並ぶのも苦にならない。何気ない光景も春に向かう時間の中にある。 芳之 「ここの桜餅は、おいしいですよね」という声が聞こえてきます。 十三妹 なにごとにもすべて並ぶのは大嫌いですが、この句はとてもホッとした安らぎを与えてくれました。「桜餅」が絶妙です。 双歩 何を「知って」いるのか?行列ができる店か、行列に並ぶ人か。人のようだが、いろいろと想像を巡らせられる。        *       *       *   一読、和菓子屋さんの行列の中に知人を見かけて、声をかけたものの何となくお互い照れつつ「桜餅は好物で、ここのは人気ですね」とか何とか挨拶している光景が浮かぶ。もう一つ、知る人ぞ知る桜餅の人気店を誰かに教えてもらったのかも知れない。もっともその場合は、「並ぶ列」ではなく「並ぶ店」となるだろうから、やはりこの解釈には無理がある。いずれにしても、「桜餅」の語感の優しさと柔らかさがこの句の人気のポイントだろう。  ところで、桜餅には小麦粉(関東)と道明寺粉(関西)の二種類あるが、江戸の真ん中でクリニックを開業している作者は小麦粉派だろう。筆者は道明寺粉派だ。 (双 21.03.18.)

続きを読む

春一番歩幅広げて黄信号     和泉田 守

春一番歩幅広げて黄信号     和泉田 守 『季のことば』  春一番(はるいちばん)とは、立春の後、最初に吹く南寄りの強い風のこと。春の到来を告げる気象用語として定着しているが、元々は漁師の言葉という。気象庁のサイトなどによると、安政6年(1859)に長崎県壱岐・郷ノ浦の漁師53人が、地元で「春一」または「春一番」と呼ばれる春の強い突風で遭難死し、この事故を機に広まったとされる。民俗学者の宮本常一が壱岐を訪れて言葉を採集、俳句歳時記(平凡社)で紹介して季語として定着したようだ。傍題に春二番、春三番があり、同類の季語として春疾風も知られる。  気象庁は昭和26年(1951)から春一番を観測しているが、立春から春分までの間に、日本海の低気圧に向かってに吹く風速8メートル以上の強い南風と定義している。今年は観測史上最も早く、立春の翌日の2月4日に観測された。作者はその春一番に、買い物か散歩の途中で出会ったのであろう。強い南風に押されるように歩幅が広がる。春の息吹に心を弾ませ、黄信号を大股で渡る姿が浮かんでくる。  結語の黄信号がとても効果的で、季語の春一番と響き合って、福寿草や菜の花など春を彩る黄色い花を連想させる。春を迎えた喜びが真っすぐに伝わってくる句である。 (迷 21.03.17.)

続きを読む

雛の顔家族誰にも似てをらず   斉山 満智

雛の顔家族誰にも似てをらず   斉山 満智 『合評会から』(番町喜楽会) 木葉 雛の顔が家族の誰にも似ていないという意味のほか、家族同士は誰一人似た顔がいないという解釈もできそう。平安貴族顔は現実にそういないのは当たり前で、ちょっと苦しいが後者と取った。雛の顔を見つめつつ、そうだなあと肯いている作者だろうか。 白山 読んで思わずクスッと笑ってしまいました。 満智(作者) 幼い日に飾られていた雛人形を思い起こし、当時感じたままを詠んだものです。男雛と女雛のみのシンプルな親王飾りでしたが、幼いながらも人形の高貴で上品な美しさに感銘を受け、同時に、家族の誰にも似てないなあと思った記憶があります。             *       *       *  「言われてみれば、その通り」で、率直な感想を忌憚なく句に纏めた手際に感心しました。新聞などでタレントやスポーツ選手などをモデルにした変わり雛が話題になることはあります。しかし、家や店先に飾るものとなると、そもそも誰の顔、姿なんでしょうか。七福神には各人にいわれがあるのですが…。来年、紙雛を作り、家族の顔にしてみませんか。男雛、女雛だけでなく、五人囃子などもいるから、役を割り振って。 (光21.03.16.)

続きを読む

籠り居や雛と分け合ふ菓子あられ  前島幻水

籠り居や雛と分け合ふ菓子あられ  前島幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 虚実はどーでもいい。情景がきっちり、過不足なく描かれていて、しかも説得力のある詩情が流れている。 斗志子 例年だったら雛祭には近所の子も交え賑やかなのに。今年は雛に語りかけつつ菓子をぼそぼそ一人で食べている。寂しさがぐっとくる。 二堂 ちょっと寂しい雛祭ですね。コロナ禍で仕方ないですね。          *      *     *  同じコロナ禍にある雛祭だが去年と今年に違いはある。去年の三月はコロナの流行が顕著になり始めた頃、今年は非常事態宣言下の三月三日。一年を経て巣籠り生活に慣れたとはいえ、新たな敵・変異種の出現があり緊張感は増している。孫たちを招いて雛祭のひと時を楽しむのは憚れ、それでも祖父母はお決まりのように雛を取り出し部屋を飾りたてる。老夫婦二人だけの雛祭は言葉少なく寂しい。ばら寿司や蛤の吸い物は作ったのだろうか。雛壇にはあられや菓子があるが分け与える孫はいない。雛が孫の代わりだと思いつつ、非常事態下の今年は二人で食べるしかない。 (葉 21.03.15.)

続きを読む

受付に手彫りの雛や婦長作   玉田 春陽子

受付に手彫りの雛や婦長作   玉田 春陽子 『この一句』  筆者を含めて、この句に点を入れた人はみな下五の「婦長作」に惹かれて採っている。「婦長作」というきっぱりとした措辞が、うまく一句を締めている。手彫りの自作雛を病院に持って来て受付にそっと飾るこの婦長さんが、部下や患者から愛されている人であろうことが句の雰囲気から読みとれる。想像をたくましくすれば、手彫りの雛の映像すら浮かんで来そうである。  ところで、看護婦を看護師と呼ぶようになって久しいのに、婦長さんはいまだに婦長さんなのだろうか、とふと思った。幸いにしてと言うか、この場合は残念ながらと言うべきか、あまり病院のお世話になっていないので実態を知らない。ネットで調べてみると、2002年に「保健婦助産婦看護婦法」が「保健師助産師看護師法」となり、その時から「看護婦長(婦長)」は「看護師長(師長)」となったようだ。時を経て「看護師」という呼び名は定着しつつあるが、「師長」という呼び名は筆者などには耳慣れない。  たとえば、この句の下五が「師長作」だったら高得点句になったかというと、おそらくそうはならなかった気がする。やはり「婦長作」だから点数が入ったのだろうと思う。男女同権はもとより推進されるべきだが、こういうところはやはり慣れるのに時間がかかるような気がする。蛇足ながら、この「みんなの俳句」のコメント執筆者が全員男性なのが最近すこぶる気になっている。求む!女性執筆者。 (可 21.03.14.)

続きを読む

土雛の点が三つの目鼻かな    廣田 可升

土雛の点が三つの目鼻かな    廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会) 金田 完成度の高い俳句です。季語もリズムも措辞も575に収まり、しかも読み手を穏やかなところへと運んでくれる。 山口 時々見かける粘土の手作り雛が私は好きだ。ちょこんと顔に三つの穴。作り手によって色々味があり愛嬌がある。 澤井 素朴な土雛の姿がよくわかります。        *       *       *   3月初めの句会の兼題は、季節に相応しく「雛祭」。投句作品の内容は、雛祭と家族のこと、あるいは雛祭に寄せる心情などを詠んだもののほか、雛人形そのものの表情や形状などを詠った句が多かった。その中でも江戸時代の享保年間に広まったという「享保雛」、山口市の漆塗りの「大内人形」、そして掲句の「土雛」が目を引いた。  衣装を纏った高価な人形とは対極の土を捏ねただけの手作り雛。しかも目鼻は丸い箸の先か何かで穿った小さな穴だけ。原始的な分、アニミズムの雰囲気が漂い、「人形(ひとがた)」や「形代(かたしろ)」も想起される。掲句に出会い、雛祭の起源に思いを馳せるのだった。 (双 21.03.12.)

続きを読む

雛の間をそっと覗きて妻一人   野田 冷峰

雛の間をそっと覗きて妻一人   野田 冷峰 『この一句』  子供たちは成人し、それぞれがすでに新家庭を築いている。夫が広い家の中の一室をそっと覗く。妻が正座し、飾り終えた雛段をじっと見上げていた。子供たちの家族はこの時期になると、孫を連れで「ウチの雛様」に会いにくることもあるが、今年は誰も来ない。コロナ騒ぎが納まるはずの来年はどうだろう・・・。そんな場面だ、と私は解釈した。  作者の名が分かってオヤと思った。作者の奥さんは先年、亡くなられていた。腕利きの事件記者であった作者は愛妻家として知られてきた。句会に入った後は奥さんを詠んだ句を多く作り「また彼の愛妻ものが出て来たな」などと句仲間をニヤリとさせていた。奥さんはしかし、もう居ない。すると回顧の作か、奥さんの幻の姿を詠んだのだろうか。  女性の雛人形への思いは、男が理解出来ないほど深いものらしい。句中の女性は、二月の半ばから雛飾りを始めていたのだろう。飾りながら、娘の初節句の頃、幼稚園の頃、そして結婚し「お雛様は置いていく」と言って、新家庭を作った頃のことも甦って来る。作者の脳裏には、お雛様をじっと見上げている女性の姿が浮かんでいるに違いない。 (恂 21.03.11.)

続きを読む

初孫は女の子とや福寿草     谷川 水馬

初孫は女の子とや福寿草     谷川 水馬 『この一句』  孫を詠んだ名句を寡聞にして知らない。名のある俳人にも孫の句はあるが、人口に膾炙するような作品はなさそうだ。一方、子供を詠った名句は多い。「万緑の中や吾子の歯生え初むる」(中村草田男)や「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」(中村汀女)など数え上げればいくらでも思い浮かぶ。  その違いは何だろう。筆者が思うに、育てる責任の軽重ではないだろうか。孫も一つ屋根の下で一緒に暮らしている、あるいは何らかの理由で親代わりに孫を育てている、というようなケース以外は、孫とは離れて暮らしているのが一般的だろう。自分の血が繋がった幼子は、なにしろ可愛い。たまにしか会えない場合はなおさらだ。もうデレデレである。しかし、孫が泣き出せば親にバトンタッチ。お襁褓なのか空腹なのか、ジジババの出番はない。子育てはそうはいかない。夜中に我が子が泣き出せば、どんなに疲れていても起き出して面倒をみなければならない。玩具やおやつの与え方一つをとっても、親と祖父母では異なる。猫かわいがりすれば済む孫と、日々育児に向き合わなければならない吾子との違い。それが句に滲むから孫の句は客観的にみて「甘い」のだろう。  ところが、掲句は孫の句にしては珍しくべたついた感じがない。福寿草の季語がよく働いているが、何といっても「とや」が効いている。つまり「初孫は女の子らしいよ」と、他人事なのだ。なるほど、自分の孫を詠んでないからデレデレいてないのだ。 (双 21.03.10.)

続きを読む