面取りの大根煮込む窓白し    斉藤 早苗

面取りの大根煮込む窓白し    斉藤 早苗 『季のことば』  かつて「台所俳句」と呼ばれるジャンルがあった。女性が外に出てのびのびと活動が出来ない時代、大正初期に虚子が「ホトトギス」の女流俳人らに勧めたものと物の本にある。台所の家事や育児などの身辺雑事を詠む俳句であるのは知っての通り。虚子はまた、広く世の女性に投句を募ったため、名のある女流俳人をずいぶんと輩出した。今の世はと言えば、むしろ女性の俳句人口の方が多いのかもしれないとまで思ってしまうのだ。ちなみに双牛舎に連なる日経俳句会では、会員54人の中で女性は17人(協賛会員を含む)と三割を占めるだけ。世間一般の俳句会と比べてどうだろうか。  この句である。料理をはじめ台所仕事をするのは女性だという意識は、とうの昔に過去のものとなった。このコロナ禍の現在は、自炊かテイクアウト品での食事となる。作者は自炊の大根を炊くのだが、丁寧に面取りをしている。煮崩れを防ぎ、味がよくしみ込むためのひと手間。男ならここまで手間を掛けず輪切りのままかも。「面取り」の一語で女性らしい細やかさが出た。作者名を見る前に女性の句と見当がつく。その大根がぐつぐつ煮えるのを、コンロの前で見守っている情景だろう。ふと台所の窓を見やるとガラスが湯気で曇っていたという。もとの「大根」の白さを「窓白し」に転化させたのがいい。 (葉 21.02.16.)

続きを読む

坊主とは戒めのこと初句会    高井 百子

坊主とは戒めのこと初句会    高井 百子 『この一句』  普通「坊主」といえば僧侶のこと。さらに髪を剃った頭部いわゆる坊主頭あるいは禿を指すこともある。そこから「海坊主」のような言葉が派生し、親しみを込めて「腕白坊主」という使い方もすれば、嘲りを込めて「三日坊主」という言い方もする。しかし、この句の「坊主」は、それらのいずれでもない。禿に毛が無いことからの連想によるらしいが、皆無つまりゼロの意味なのだ。釣りで何も獲れなかった時も「坊主」というらしいので、釣りと俳句で同じ使い方ということになる。  初句会に勇んで行ったものの、作者の句は誰も採ってくれず、零点だった。普通なら、そこで落ち込むのだが、作者の素晴らしさは、その惨憺たる成績をも句材にし、一句仕立てているところ。「戒めのこと」などと言っているが、本心かどうか。「照る日もあれば曇る日も。クヨクヨせず、また次回頑張ろう」というのが本音で、この前向きの姿勢は何物にも代え難い。多分、明るく朗らかな人生を歩んでいるに違いない。坊主と言う成績には同情するものの、その生き方は何とも羨ましい。いや、見習いたい。 (光 21.02.15.)

続きを読む

外国語放送虚し冬の駅      荻野 雅史

外国語放送虚し冬の駅      荻野 雅史 『この一句』 「ローカル線の駅の一風景だと思います。外国人観光客であふれかえっていたのに、いまや影かたちも無い。ただ外国語放送だけが虚しく響いてる。『冬の駅』がその辺をよく表していると思います」(明生)。「インバウンド需要は望むべくもなく、五輪もどうなることかと思わせます」(芳之)。この評言二つで全てを言い尽くしているのだが、「国際観光振興」とか「観光産業活性化」などというものは、つくづく平穏無事な世の中であればこそのものだと思う。 安倍政権の7年半で日本はすっかりダメになってしまったと私は思っているのだが、唯一拾うべきは外国人を呼び込んで、田舎にまでガイジンの息吹を吹き込んだことであろう。個人的には日本の国際化などまっぴら御免と思っているのだが、今やそうも行かないようだ。さすれば、国際化に遅れた日本を国際化する最も有効な手段は日本人と外国人との接触を深めることである。 とにかくここ数年で浅薄ではあるが日本の国際化は急速に進んだ。「ガイジン」が僻地にまで行くようになったからである。75年前、進駐軍が全国くまなくジープを駆って日本を強制的に“国際化”したが、この数年は言うまでもなく観光旅行によるごく自然な触れ合いである。 それがコロナで吹き飛んだ。駅構内や電車内の外国語放送はプログラミングされているから、ガイジンさんの来ようが来まいが流れる。凍てる駅舎にそれがキンキン響いて寒々しさを掻き立てる。 (水 21.02.14.)

続きを読む

五両ほど畳に零れ実千両    玉田 春陽子

五両ほど畳に零れ実千両    玉田 春陽子 『この一句』  この暮、正月用の花を近所の花屋で買ったら、普段の二倍ほどの値段になった。「高いね」と主人に言うと「何しろ千両が入っているからね」との答え。そうかね、と頷いてから、我が家の庭に千両が赤い実をたくさんつけていることを思い出した。“猫のひたい”の庭に五年ほど前から万両が芽を出し、今では赤い実が近所の人に褒められるほどになっている。  万両は小鳥が実を食べ、糞とともに庭に落してくれると芽生えるそうだ。実が付いたものを花瓶に一枝挿せば、生け花の立派な脇役を務めてくれる。掲句の千両は暮から一か月余りを経て、ついに畳の上に五粒ほど零(こぼ)してしまったのだ。それを「五両ほど」とは何たる機知だろうか。この洒落っ気に感嘆し、しばらく句を見つめていたほどであった。  あんまり巧みなので悔しくなり、「ちょっと月並風かな」と悪口を呟いてみた。正岡子規の批判に遭い、滅亡してしまったと言われる月並流の俳句。洗練されたエスプリの句も少なからずあったはずで、決して捨てたものではないと考えている。さてこの句、秀句、好句、佳句には当てはまらないかも知れないが、現代の上等な月並流と評価したい。 (恂 21.02.12.)

続きを読む

エクセルのふつりと消えり鎌鼬  徳永 木葉

エクセルのふつりと消えり鎌鼬  徳永 木葉 『合評会から』(日経俳句会) 三薬 理由を告げぬまま、突然データなどを消してしまうパソコン様。いきなりバッサリという鎌鼬そのものではないか。上手い例えに気が付いた殊勲甲。 青水 むつかしい季語とパソコンの表計算ソフトの取り合わせ。しかも季語ではなくソフトを消してしまう手際の良さ。ウマい。 水牛 パソコンは訳が分からないうちに突然消えたりします。コンチクショウと怒鳴ってもどうにもなりません。まさに鎌鼬の仕業です。 弥生 わけのわからぬトラブルの元は、当世でも鎌鼬。先進の技術との取り合わせが興味深い。 水兎 パソコン画面がフリーズすると、本当に絶望的な気分になりますね。物の怪の仕業に違いありません。 百子 取り合わせの句として面白いですね。確かにパソコンの画面がふうっと消えるのは何か神がかっています。           *       *       * これは「現代社会の最先端を切り取った秀句」といっても過言ではあるまい。選評にあるように、かなりの人間が経験しているパソコンのトラブル。その困惑ぶりを「鎌鼬」という今は忘れられたような面妖な事柄に結び付け、うなずかせた手腕は見事。 (光 21.02.11.)

続きを読む

鎌鼬賑い消えたシャッター街   野田 冷峰

鎌鼬賑い消えたシャッター街   野田 冷峰 『この一句』  商店が売れ行き不振、後継者不在などで閉店し、シャッターを下ろしたままになる。そういう店が続々現れて商店街が寂れてしまう。これを称して「シャッター通り」「シャッター街」。この言葉が言われ始めたのは1980年代末のことで、爾来30年、寂しい町は寂しいままである。  高度成長期からバブル経済の時期、「メイドインジャパン」が世界市場を席巻し、日本国と日本人は大いに自信を持ち、それが行き過ぎて「もう欧米諸国に学ぶべきところは無い」などと思い上がった。国内では土地の値段が際限もなく上がって、それを担保に借りた資金で新たな土地買収にかかるといった狂乱事態になった。一方、モータリゼーションの急激な発達で、人々の行動範囲が一挙に広がった。国鉄駅前周辺の地価の急騰を嫌って、郊外に大規模ショッピングセンターが誕生し、人々は一斉にそちらに車を駆り、老舗商店街の空洞化をもたらした。そして91年のバブル崩壊、長期低迷へと落ち込んで行った。そして「シャッター街」は珍しくもなんともない、全国の中核都市に普遍的な光景となった。 だが問題は、寂れたシャッター街の住人が別に暮らしに困っていないことである。商店経営者はそれぞれバブル期になにがしかの蓄えをこしらえており、それに加えて年金がある。商売はしてないから所得税はゼロ。シャッターを下ろしたままで十分暮らしていけるのだ。かくてシャッター街はいつまでも残り、幽霊街となる。そこを鎌鼬が疾駆する。 (水 21.0…

続きを読む

鎌鼬鬼滅の刃受けしかな     須藤 光迷

鎌鼬鬼滅の刃受けしかな     須藤 光迷 『この一句』 たいへんな鬼滅ブームである。漫画本や大ヒット映画を見たことがない大人でも大方が知っている。アニメに特有の、数ある聖地めぐりも盛んだという。なかでも奈良・柳生の庄にある天之石立神社には、剣聖柳生石舟斎が一刀のもと、真っ二つに断ち割った伝説をもつ巨石があり、ファンに人気の聖地となっているようだ。 難物季題「鎌鼬」のことである。自然現象のひとつ、冬に小さなつむじ風が一瞬真空状態をつくって、人間の皮膚を切るのだと解説されている。越後七不思議にも数えられ、冬の季語に。思い当たることのない切り傷はたしかに面妖だ。昔は鶏小屋を狙ってくるすばしこい鼬の仕業としたのだろうかと想像する。 この句では、覚えのない切り傷は鬼滅の刃を受けたせいだと言う。作者はお孫さんにせがまれ映画を観にいったのかもしれない。そうなら鬼退治に快刀乱麻する主人公らの活躍が目裏に残ったのだろう。難物季題に対して、今もっとも旬の社会現象を持ってきたところに俳句とトピックの融合がある。時事句として成功したと思うのである。鬼滅ブームは世界百三十か国に広がっているともいわれ、今後しばらく色あせない時事句ではないかと一票を投じた次第である。(葉 21.02.09.)

続きを読む

小走りの新聞少年鎌鼬      大沢 反平

小走りの新聞少年鎌鼬      大沢 反平 『季のことば』 鎌鼬(かまいたち)は日経俳句会1月例会の兼題だった。冬の乾燥した風が巻き起こす真空によって、皮膚が切り裂かれる現象だという説がある。 冬場の外遊びが減り、防寒着が普及した現代では、経験する人がほとんどいない難解季語といえる。例会の投句を見ると、昭和の前半に少年期を過ごした人には、幼い頃の体験を詠み込んだ句が結構あった。これに対し、昭和後半から平成育ちには、季語の鎌鼬に身辺の出来事を取り合わせたり、何かを斬るイメージを詠んだものが多かった。 その中で鎌鼬・経験世代の作と思われるこの句に共感し、点を入れた。「小走りの新聞少年」という措辞で、冬の早朝に寒さに耐えながら、小脇に抱えた新聞を配達する姿が浮かぶ。今や死語となった新聞少年だが、昭和30年代までは小遣い稼ぎや家計を助けるため、多くの小中学生が配達を担っていた。その少年を一陣の風が襲い、気が付くと皮膚が裂けている。健気な少年と鎌鼬が違和感なく結びつき、読者の記憶を呼び覚ます。 実は鎌鼬の兼題解説を書いた水牛さんが、その中で新聞少年時代の体験に触れている。この句はそれに触発されたものかも知れないが、子供たちが逞しかった昭和の時代感と季節感を活写していると思う。 (迷 21.02.08.)

続きを読む

たっぷりと寒九の水を小豆煮る  大下 明古

たっぷりと寒九の水を小豆煮る  大下 明古 『季のことば』  今年の1月5日は小寒。この日から寒の入り。1月20日が大寒で、2月3日が寒明け、つまり立春だ。この寒中が1年で最も寒い時期とされる。実際、体感的にも1月の後半から2月上旬の寒さが一番堪える。寒の入りから4日目を「寒四郎」、9日目を「寒九」という。この寒中に汲んだ水は身体に良いといわれ重宝されている。  「小豆」は秋の季語だが、小正月(1月15日)に小豆の入った粥を食べて邪気を払い健康を願う風習があり「小豆粥」は新年の季語となっている。また、関西では鏡開きを1月15日(もしくは20日)に行い、割った餅を汁粉などで食す。そんなこんなで「寒九」のころに小豆を煮るのは、俳句を嗜む者として至極まっとうな行為である。  作者は、関東在住者なので鏡開きは11日に済ませているはず。となると、小豆粥の準備のため、ことことと小豆を煮ているのかもしれない。小豆を煮るには水をたっぷり使う。ふと指折り数えてみると、今日は「寒九」ではないか。水道水ではあるが、まさしく「寒九の水」。いい句が浮かぶときは、こんな時に違いない。切れ字「を」は、「ことこと煮ている」時間を表している。 (双 21.02.07.)

続きを読む

目で笑ふ難しきこと冬籠り    池村実千代

目で笑ふ難しきこと冬籠り    池村実千代 『おかめはちもく』  作者は「自句自解」を寄せて、「いつもマスクをしている日常では「笑顔」という言葉がなくなってしまいそうです。マスクをして笑ってみたけれど、目で笑顔を表現するなんて至難の技ですね。でも楽しいエネルギーを目で表現できるかしらと鏡をのぞいてみました。自粛生活と寒くて外に出たくないある日のひとこまを詠んでみました」と述べている。コロナ禍の冬ごもりの所在無さに、独り鏡に向かって百面相を演じている作者の姿が浮かんできて楽しい。  ただ、合評会(これまた集まっての句会が中止で「メール合評会」となったのだが)で、「三段切れになっているのが残念」という意見が出た。確かにこの句は、「目で笑ふ」「難しきこと」「冬籠り」と上五、中七に「切れ」が入り、ぶつ切れ状態になっている。句意を読み取る分にはこれでも問題ないのだが、口ずさんでみると、どうもこのぶつ切れが気になる。さらに、「難しきこと」が目で笑うことの難しさなのか、なにか「難しい事」が生じて目で笑ってやり過ごそうとしているのかなどと、読者はあらぬ方向へ思いを走らせたりする。  俳句はクイズではないのだから、なるべく分かりやすい叙述にした方がいい。ここもあれこれ考えず、単純に語順を変えて、「目で笑ふことの難し冬籠り」で良いのではないか。 (水 21.02.05.)

続きを読む