強東風や一息ついて杖の人    星川 水兎

強東風や一息ついて杖の人    星川 水兎 『合評会から』(番町喜楽会) 満智 よく見かける風景。がんばれの気持ちが伝わります。 てる夫 向かい風となってよほど歩きにくかったのでしょう。老人の散歩、時間はあるのですから、ゆっくり行きましょう。 可升 杖を使ったことがないので、実感としてはわかりません。けれども、おそらくこう云うことになるのだろうなと思わせる、説得力のある句だと思います。 *       *       * 歳時記を繰ると春風もいろいろで、「東風」「貝寄風」「涅槃西風」「春一番」「春疾風」などが出てくる。それぞれに表現する時期や場面が微妙に異なるのだろう。 春一番は気象用語の感が強いのに比べ、東風という雅な響きは伝統俳句的である。東風でも強東風となれば、か細い老人は歩くのに難儀する。この句の情景はたしかにお馴染みではあるが、作者の優しい視線が見えて気持ちが良い。東風にあおられちょっと立ち止まった杖の老人に、手助けしましょうかという気分もうかがえる。 日頃の句会活動で作者の行き届いた気配りを知る評者には、作者を知ってはじめて「さもあらん」と思った次第である。「一息ついて」の中七が臨場感をもたらせる。 (葉 21.02.28.)

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皆中を外す矢羽根に東風強し   池内 的中

皆中を外す矢羽根に東風強し   池内 的中 『この一句』 「皆中」は弓道の用語。皆(みな)中(あた)るという意味で「かいちゅう」と読む。矢を射ることを「射(しゃ)」といい、例えば、競技会などで八本放って的にすべて当たれば「八射皆中」などと使う。逆に全部外すことを「残念」と言う。などと偉そうに解説している筆者は実は弓道を知らない。弓道をやっている娘から聞き齧った、単なる受け売りである。  弓道歴が長い作者は、仕事の合間を縫って近所の道場で腕を磨いているらしい。「的中」という俳号は弓道からいただいた。聞けば、合気道もやっているという。俳句も作るし、革細工の腕前は趣味の域を超えているとか。まさに文武両道である。そんな作者でも「皆中」するのは難しいという。まれに「皆中」できた時はさぞかし嬉しいだろうし、その日の酒の味は格別だろう。ところが、もう少しで快挙達成だったのを春の風、つまり東風に邪魔されたのだ。「風さえなければ皆中したのに」と残念がっている的中さんが浮かぶ。  この句を採った明古さんは『東風の強さが感じられますが、「に」を改めるほうがより広がりのある句になるのでは』と言う。確かに、「矢羽根に」を「矢羽根や」と切ったほうが句が締まるが、この句の眼目は何といっても専門用語「皆中」にある。 (双 21.02.26.)

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守り人の消えし灯台野水仙    中村 迷哲

守り人の消えし灯台野水仙    中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 光迷 日本から灯台守の姿が消えたのは15年前とか。無人化・省力化、さらにリモートという時代の流れを感じ、考えさせられました。 木葉 「喜びも悲しみも幾年月」という昭和の名画と主題歌が蘇ります。灯台守はいまやなく無人の灯台に。伊豆下田の白亜の灯台を背景に白い野水仙の群落があるのみ。 幻水 伊豆下田の灯台にはもう守り人はいないと思うが、今は一面に野水仙が満開だろう。 *       *       *  句意はきわめて明確。「あの白い大きな灯台から、灯を守る人がいなくなって幾歳月…。だが、春が来れば水仙は以前と変わらず綺麗な花を咲かせている」…。人間と自然、歳月と郷愁である。ちなみに日本で最後の有人灯台は五島列島の女島灯台で、灯台守が姿を消したのは2006年12月のことだった。  雨の日も風の日も嵐の夜も灯を守り続ける灯台守の仕事は、つらく骨の折れることに違いないと思う。だが、社会の安全のために灯は消せない。縁の下の力持ちそのものではないか。コロナ社会で灯台守に相当する仕事となると、看護師や保育士、また宅配弁当の配達人など。口だけの人はいらない。 (光 21.02.25.)

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昨日とは違う香のする東風の空  斉山 満智

昨日とは違う香のする東風の空  斉山 満智 『この一句』  春の兆しを感じるタイミングは様々であろう。ある人は朝、水道の洗顔水で冷たさが心なしか緩んできたと感じたとき。ある人は、春一番が吹いたとテレビで報告する気象予報士の一言で。作者は東風が吹いている空に窓を開けて見上げたら、昨日までの匂いと違うのを感じ取ったと詠んでいる。  季節の変わり目を昨日と今日で截然と分けられるものでは当然ない。「昨日とは違う香」の措辞はまちがいなく修辞と思うのだが、自分が感じ取った春が近いとの微妙な感覚を、俳句に表現するのには必要な修辞だったと思う。女帝持統天皇の「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」の一首を引き合いに出して比べるほどもなく、何事もテンポの早い現代では「昨日と今日の差」を詠むことこそむしろ普通に思える。  この句は「東風」の季語を詠みこむにあたって、空の匂いを持ってきた。これまた女性ならではの細やかな感覚であると思う。東風が運んできたほんの微かな匂いは何であろうか。梅の香でもいいし、子どもたちが公園で遊ぶ元気な声を「香」と取ってもいいのではないだろうか。 (葉 21.02.24.)

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結婚のメリット問う子猫の恋    須藤 光迷

結婚のメリット問う子猫の恋    須藤 光迷 『季のことば』  「猫の恋」は発情期を迎えた早春の猫の行動をさす季語で、恋猫、うかれ猫、春の猫、猫の妻、孕み猫など、いずれも春の猫の狂態を表している。例句を見ると「恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく」(加藤楸邨)など、相手を求めて昼夜さまよい歩く生態を詠んだものが多い。  これに対し、掲句は「結婚のメリット問う子」という一種の謎かけを提示し、猫の恋を配する。理性的に損得を計り、結婚に意味づけを求める人間と、本能のまま狂おしく異性を求める猫を対比させることによって、結婚を取り巻く現代の状況を浮き彫りにする。 少子化・晩婚化の進展で日本の婚姻率はピーク時の半分以下に落ち込んでいる。厚労省の統計によれば、生涯未婚率は女性で14.0%、男性は23.3%に達する。価値観の多様化が「結婚しない」という生き方を選ばせ、格差社会の拡大が「結婚できない」とう現実を生んでいるように思える。  作者の家庭であろうか、適齢期の子供に「誰かいい人いないの?」と聞いたところ、逆に「結婚して何かいいことがあった?」と聞き返している場面が想像される。作者(あるいは奥さん)が、この問いにどう答えたか、気になってくる。 (迷 21.02.23.)

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日脚伸ぶ間違いさがしあと二つ   嵐田 双歩

日脚伸ぶ間違いさがしあと二つ   嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会) ヲブラダ 新聞の間違い探しクイズに挑戦するのだが、毎回難問で、ものすごく時間がかかり、結局、回答サイトを見てしまう。 てる夫 新年の暇つぶしに挑戦したが、なかなか手ごわい。「あと二つ」まで攻めたとは、たいしたもんだ。 迷哲 「あと二つ」に時間経過が意識され、季語とよく合っています。コロナ籠りの正月とも読めます。 光迷 間違い探しは数独とともにステイホームの絶好の小道具に。 定利 巣籠り中、間違いさがしに没頭。何でも句にする。すごいです。 方円 心にゆとりのある生活をしているようで、いい感じです。 静舟 あと二つ! 少しだけれどそれだけ日が長くなったのでしょう。 ゆり 段々と夕暮れまでの時間が長くなってくるのは嬉しいです。 *       *       *  いい大人が「間違いさがし」にうつつを抜かしているとは一体どうしたことだと、呆れられたり馬鹿にされたり。しかし、“コロナの冬籠もり”ともなれば別である。またこうしたゲームや遊びというものは、一旦はまってしまうとなかなか抜けられない。家族中で没頭して、「あらもうこんな時間」と慌てたりする。コロナ禍の鬱陶しさをいっとき忘れる、平和な情景が浮かんできて楽しい。 (水 21.02.22.)

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窓猫の丸き背中や恋終わる    谷川 水馬

窓猫の丸き背中や恋終わる    谷川 水馬 『この一句』  一読、いや一見にして恋の終った牡猫の姿が浮かんで来た。窓際に背を丸めた猫がいる。暖かそうな春の陽が猫に当たっているらしい。そうか、お前はそうやって傷心を癒しているのか、という作者の気持ちも十分に察しられよう。ところが句を何度か見直しているうちに、変わった句だ、作者は何かを企んでいるのかな、という思いが膨らんできた。  「窓猫」という語は辞書に載っていない。季語では「竈(かまど)猫」や「こたつ猫」もあるのだが、「窓猫」は作者の独創のように思える。さらに「窓猫」と「恋終る」は上五と下五に分裂しているので、「これで季語になるのか」と異を唱える人がいるのではないだろうか。また「窓猫」がガラス戸の内側、外側のどちらにいるのかも不明である。  とは言え、私にはこの句がなかなか魅力的で、兼題「猫の恋」の三十余句の中から一番に選ぶことになった。理由については、背を丸めた「窓猫」の姿に本当の「猫の恋」を感じたから、と言えばいいだろう。さらに加えれば、このところ背中の丸いご同輩たちの姿が気になっていることもある。私ももちろん、その中の一人なのだが・・・。 (恂 21.02.21.)

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相槌の途切れぬ電話春障子    塩田 命水

相槌の途切れぬ電話春障子    塩田 命水 『この一句』  最初に読んだ時、この句の作者は男性に違いない、電話をしているのは彼の奥さんに違いない、話している相手も女性に違いない。もっぱら相手の女性が話をし、こちらの奥さんは相槌を打つばかりの長電話。そういう情景を疑わずに読んだ。筆者の頭の中には、間違いなく「女性の長電話」という固定観念があった。が、ふと思った。この感性は、「女性が入ると会議が長くなる」と言ったあの人の感性に近いのではないか?少し怯んだ。  ところが、句会で高得点を取ったこの句の支持者には女性が多かった。皆さん、おおむね女性が長電話を楽しんでいる様子を思い浮かべ、ユーモラスな句だと評価している。なかには、斗詩子さんのように、ズバリこれは「私のこと」だと喜ぶ人もいる。どうやら「女性の長電話」は女性自身も認める特質らしい。と言うか、言葉は同じでも、語る人の価値観や思いが、それを差別表現にしたり、不快なものにしたりする気がする。筆者の感性は、あの人とは断じて違う、と思いたい。  季語の「春障子」は、暖かな陽射しの入る居間を感じさせる。そのことが、この句をほのぼのとした佳句に仕立てている。作者は、「長電話だなあ」と思いながらも、「まあ、いつものこと」と微笑んで、奥さんの相槌を聞いているに違いない。 (可 21.02.19.)

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梅東風やアマビエに似た子が一人 今泉 而云

梅東風やアマビエに似た子が一人 今泉 而云 『季のことば』  立春を過ぎて、西高東低の冬型気圧配置がゆるむと、これまでの北西風と違って柔でやや暖かい東風が吹いて来る。これが春を告げる風として平安時代から歌人文人に親しまれ、江戸時代には俳句の季語にもなった。「朝東風」「夕東風」などのほか、この風が吹くと鰆が盛んに取れだすから「鰆東風」、のどかな雲雀のさえずりとともに吹くから「雲雀東風」などとも詠まれる。  「梅東風」は言うまでもなく梅を咲かせる東風であり、菅原道真の「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」の歌と共にしっかり定着した。  この句は南斜面に広がったのどかな梅園での一コマであろうか。一人歩きできるようになった子が、お兄ちゃんお姉ちゃんの後を追って行ったはいいが、置いて行かれてしまい、ぼんやり佇んでいる情景が浮かぶ。  アマビエは熊本地方に伝わる民間伝承の海の妖怪。と言っても恐ろしくはない。人魚のような姿で可愛らしい。その絵姿を身近に置けば疾病退散のご利益があるというので、コロナ禍の昨今にわかに人気が出て、シールや人形が次々に売られるようになり、ついには文楽人形浄瑠璃にもなったという。私も実は「門口にあまびえシール春立つ日」などと詠んだ。令和3年コロナ禍の梅見の句としてとても面白い。 (水 21.02.18.)

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裸木のてっぺんに鳥動かざる   岩田 三代

裸木のてっぺんに鳥動かざる   岩田 三代 『この一句』  寒中、庭木を目がけて飛来する野鳥の姿が目立つ。ある朝、オナガの群れが舞い込んできた。10羽ほどバラバラに飛び回り、そそくさと飛び去った。体長37㎝、長い尾羽、水色の鮮やかな姿に見とれた。一年を通して見かけるのはヒヨドリ、いつもつがいで行動する。単独で餌を探していても必ず近くに連れがいる。軒先近くまで来るほど厚かましく、飛び立つときも騒がしい。 掲句の「裸木の鳥」はこの季節、よく見かけるシーン。高所に止まって急降下、地上の虫を捕食するモズであろうか。体中の羽毛を膨らませ身じろぎもせず、枝に止まっている。地上に動くものが居る季節ではないので、何を狙っているのか。幹に潜む虫を探す風でもない。ひたすら寒風に耐えている。しばらく目を離しているうちにどこかへ飛んで行った。巣のある林に戻ったのだろうか。 「動かざる」という措辞に余韻を感じる。しかし作者がどんな思いを込めたか。それが何であるか、俄かにイメージ出来ない。ふと修行中の学僧の姿が浮かんだ。風雨にさらされながら、姿勢を正して読経を続ける。はてさて野鳥に意思があるだろうか。 (て 21.02.17.)

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