冬日和書棚に眠る資本論     久保田 操

冬日和書棚に眠る資本論     久保田 操 『この一句』  『資本論』は不思議な本である。書名を知らない人、著者の名前を知らない人はほとんどいない高名な本なのに、完読したという人はほとんどいない。もちろん広い世の中を探せば、完読どころか再読した人も多くいるに違いないが、少なくとも筆者の周りに完読した人は一人もいない。この『資本論』も読まれずに眠っている気がする。  この句で「書棚に眠る」のは、『漱石全集』でも、『失われた時を求めて』でもなく、『資本論』でなければならなかったのだろう。そこに何らかの寓意があるのだろうと想像する。しかし、それが何かはこの句からは読みとれない。ここからは読み手の勝手な妄想である。  1989年、ベルリンの壁が崩壊したころ、『歴史の終わり』という本が現れ結構読まれた。当時、この本を読んで「こんな事を断言していいのかな?」と疑問に思ったのを覚えている。その後の世界は、仮に〈歴史の終わり〉を認めるとしても、もうひとつの〈もっと激しい歴史の始まり〉を目にすることになる。最近は『資本主義の終焉』みたいな本もあるが、あまり信用しないで読んでいる。 一国の宰相が携帯料金値下げに熱心だったり、あそこの情報機器はヤバイから買うなと国家が規制したり、最近の資本主義は国家資本主義の様相を呈して来ていて、〈終焉〉どころか変態して生き延びて行きそうだ。「書棚に眠る資本論」は、「ちゃんと俺を読め!」と言っている気もするが、たぶん読まないだろうな。(可 20.12.06.)

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