後ろ手に障子しめたる紋次郎   星川 水兎

後ろ手に障子しめたる紋次郎   星川 水兎 『この一句』  紋次郎はもちろん「木枯し紋次郎」。笹沢左保原作・股旅物の主人公である。「あっしには関りのねぇことで」と言いながら、善き人々を助け、風の如く立ち去って行く。句の場面は、危機の迫る屋敷の一室に忍び込んだところか。「シーッ」と口の前に指を立て、後ろ手に障子を閉めながら家族に事情を知らせ、さてそれからの展開は・・・  「熊坂が長刀(なぎなた)にちる蛍哉」(一茶)。牛若丸に討たれてしまう大盗賊・熊坂長範の暴れ振りを詠んでいる。時代物・ドラマ仕立ての句はなかなか面白い。しかし出過ぎれば「またか」と白けて来る。一つの句会で数か月に一度ほどの出会いなら、まあいいか、と思うが、「たまには」のタイミングが難しいところである。  掲句は、本年初見くらいの新鮮さが私にはあって、“外連(けれん)”のドラマをいろいろ想像し、大いに楽しめた。中村敦夫演ずる紋次郎はこの後、旅笠を被り、道中合羽をはおり、楊枝を咥えて、どこへ去って行くのだろうか。そして上条恒彦の歌う「誰かが風の中に」が、どこからともなく聞こえてくるのである。 (恂 20.12.08.)

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泥水に数多の命池普請      水口 弥生

泥水に数多の命池普請      水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 青水 池というと鯉とか亀とか使いたがるが、作者はもろもろの命という言葉でまとめた。これは良い選択だ。 朗 自宅の近くで宅地化で池を埋めていったとき、酸欠で鯉が口をパクパクしていたのを思い出した。 博明 水清きところに魚住まぬ、とは本当なんですね。     *       *       * 今や日本第二の都市として、380万人もがひしめきビルや住宅だらけのヨコハマだが、昭和30年初頭あたりは横浜駅から歩いて行ける所に畑や田圃が広がり、あちこちに小川や灌漑用の池があった。秋もふけると川浚い、池浚いが行われ、子どもたちはそれを「掻い掘り」と言って、大はしゃぎしながら手伝い、鯉や鮒、鰻、鯰、泥鰌、亀、エビガニ、モクゾウガニなどを採った。 池にはそうしためぼしい魚だけではなく水生昆虫もたくさんいる。アメンボやミズスマシ、実際には何の悪さもしないが見るからに恐ろしげな形のタガメなどもいた。タニシや小さな巻貝もいた。近くの土手や木の上にはいつのまにか白鷺やアオサギが来ており、カイボリが一段落して大人も子供も丘に上がると、すわと降り立ち隠れた獲物を漁る。こうして子どもたちは生きとし生けるものの生態を目の当たりにして、自然界の動きを理解するのだった。 (水 20.12.07.)

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冬日和書棚に眠る資本論     久保田 操

冬日和書棚に眠る資本論     久保田 操 『この一句』  『資本論』は不思議な本である。書名を知らない人、著者の名前を知らない人はほとんどいない高名な本なのに、完読したという人はほとんどいない。もちろん広い世の中を探せば、完読どころか再読した人も多くいるに違いないが、少なくとも筆者の周りに完読した人は一人もいない。この『資本論』も読まれずに眠っている気がする。  この句で「書棚に眠る」のは、『漱石全集』でも、『失われた時を求めて』でもなく、『資本論』でなければならなかったのだろう。そこに何らかの寓意があるのだろうと想像する。しかし、それが何かはこの句からは読みとれない。ここからは読み手の勝手な妄想である。  1989年、ベルリンの壁が崩壊したころ、『歴史の終わり』という本が現れ結構読まれた。当時、この本を読んで「こんな事を断言していいのかな?」と疑問に思ったのを覚えている。その後の世界は、仮に〈歴史の終わり〉を認めるとしても、もうひとつの〈もっと激しい歴史の始まり〉を目にすることになる。最近は『資本主義の終焉』みたいな本もあるが、あまり信用しないで読んでいる。 一国の宰相が携帯料金値下げに熱心だったり、あそこの情報機器はヤバイから買うなと国家が規制したり、最近の資本主義は国家資本主義の様相を呈して来ていて、〈終焉〉どころか変態して生き延びて行きそうだ。「書棚に眠る資本論」は、「ちゃんと俺を読め!」と言っている気もするが、たぶん読まないだろうな。(可 20.12.06.)

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池普請妖怪話の二つ三つ    髙橋ヲブラダ

池普請妖怪話の二つ三つ    髙橋ヲブラダ 『この一句』  川や池や沼の水底には何かが潜んでいる感じがする。そこを浚えばきっと得体の知れないものが現れるに違いないと恐れを抱く。それにまつわる怪談の二つや三つ出て来ても不思議ではない。池普請・川普請にはそんな気分がある。  「置行堀」(おいてけぼり)という妖怪伝説がある。江戸時代の怪談「本所七不思議」の一つで、墨田区本所の錦糸堀の話である。よく釣れると評判の堀川に釣糸を垂れて魚籃を一杯にして帰ろうとした夕暮れ、「置いてけー、置いてけー」とくぐもった声がする。恐ろしくなった釣人は魚籃の魚を掘割に放し、ほうほうの体で帰った。それをせせら笑った豪胆な奴が、何ほどの事やあらんと魚籃一杯の魚を背負って帰ったところ、発熱昏倒、目が覚めたら魚籃は空になっていた。  江東区、墨田区は元禄時代(1688─1704)に広がった大江戸の新興住宅地で、隅田川の氾濫原と東京湾岸の潮入りの低湿地を埋め立てつつ、人の住める土地を作っていった場所である。縦横に掘割が通され、堀を浚った土が積み上げられた場所に住宅が建てられた。セメントが無い時代だから、要所の船着場は石を積んだ河岸を作ってあるが、大半は自然傾斜の土手である。土留の杭や柳などが植えられているが大方は葦の茂った掘割。狸や狐、イタチが跋扈し、時には河童だって現れたに違いない。魑魅魍魎と人間が交錯する場所であり、池普請はその思いを新たにする機会であった。 (水 20.12.04.)

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眼で笑ふマスク美人や枯葉掃き  高石 昌魚

眼で笑ふマスク美人や枯葉掃き  高石 昌魚 『季のことば』  風邪がはやる冬に着けるのでマスクは冬の季語とされる。確かにこれまでは、インフルエンザなどはやり風邪を予防し、自ら罹っていたら人にうつさないため、マスクは冬の必需品だった。ところが、近年は花粉症の人が増え、春になってもマスク姿は減らなくなった。そして令和二年、コロナ禍で季節に関係なく四六時中着用するのが当たり前になった。かくて「マスク」は季節感を失ってしまった。例えばこの一年、日経俳句会に出句されたコロナ時事句の中で、高点を取ったマスクの句は次のとおり。   新入生みんなマスクで誰が誰      杉山 三薬   まだ来ないアベノマスクや初夏となる  髙井 百子   自粛明けマスクの剣士夏稽古      荻野 雅史  掲句はどうだろう。この冬に出された句なので、コロナ下のマスクとみるのが妥当なのだが、本来の冬の季語とみても差し支えないと思う。目は口ほどに物を言う、顔のパーツの中で目ほど重要なものはない。マスクをしていてもそれと分かる美しい女性が、枯葉掃きの手を休め、「おはようございます」とでも挨拶したのだろう。しかも笑顔で。 「マスク美人」という言い方には「マスクをしていたら美人」というニュアンスもなくはないが、ともあれ〝美人〟にニッコリされたら、作者ならずともその日は一日、幸せな気分で過ごせるに違いない。 (双 20.12.03.)

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めりはりのなき晩年や柿を剝く  玉田春陽子

めりはりのなき晩年や柿を剝く  玉田春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 可升 「柿を剝く」の下五がいいですねぇ。人生の何気ない日常が垣間見えます。 光迷 自分を振り返り「めりはり」のない晩年だなぁと思うことしきりです。かつて「短日や余生まことに長長し」という句を作った覚えもあり、心から共感して一票を投じました。 斗詩子 いつ起きてもいつ寝ても、何時に食事をしようと自由気儘。心して生活しないとだらだらと過ごしてしまいます。で、毎度「反省反省…」と自分に言い聞かせていますが…。 水牛 (原句の)「メリハリ」はひらがなにしてほしいなぁ。漢字では「減り張り」で、邦楽や歌舞伎の世界から出た古くからの言葉なんですよ。 春陽子(作者) はい。「メリハリ」でなくて「めりはり」にします。     *      *      *  「人生百年時代」などといわれている。長寿自体は結構なことだが、ただ長く生きればいいわけではあるまい。政界や財界の我が身をわきまえぬ老人跋扈ぶりを見ると、その想いは一層強くなる。日本の「失われた20年」あるいは「30年」の原因もそこにあるのではないか。長寿社会の光と影についても考えさせられる句である。 (光 20.12.02.)

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初冬の手櫛にからむ白髪かな   徳永 木葉

初冬の手櫛にからむ白髪かな   徳永 木葉 『合評会から』(酔吟会) てる夫 自分自身は櫛をあまり使わないので、よくわからないのですが、老いの情景を「初冬」にからめてうまく詠んだと思います。 百子 最近は私も抜け毛、白髪が多くなってきました。まさしく私のことだなあと実感して読みました。 双歩 私も手櫛をやるとこんな思いになることがあります。最初にこの句を選んだのは私ですが、その後ばたばたと点数が入り、まさか四点句になるとは思いませんでした(笑)。 *       *       *  なかなか信用してもらえないのだが、筆者は若い頃は行きつけの理髪店のオヤジに「床屋泣かせだよ」と言われるほどのボサボサ髪で、「手櫛」が癖になっていた。40代になるや白髪が増え始めると同時にバラバラ抜け始めた。そんな昔を思い出して、「そういえば初冬になると抜け毛が多くなったもんだなあ」などと頭を叩きながら懐かしみ、この句を採った。作者が解って、その年になってまだ手櫛を掻くとは「化け物だよ」と毒舌を吐いた。 冗談はさておき、この句はなんと言ってもしみじみとした感じが伝わってきて、「初冬」の季語と非常にうまく呼応している。女性の句だと思っていたのだが、老齢男性も思いは同じであろう。 (水 20.12.01.)

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