山茶花や路地の出口の道標    塩田 命水

山茶花や路地の出口の道標    塩田 命水 『おかめはちもく』  我が家の所在地は東京都区内とはいえ、その昔は農村地域であった。地主(農家)が農道の両側の農地を宅地として売り始めたのは昭和の初期のこと。やがて農道沿いに家が次々に建ち並び、宅地は年を追って道の奥へ、奥へと広がって行く。細い私道が新たな宅地の中へ、そして左右へと、まるで迷路のように伸びて行った。  子供の頃、その辺りの一角に入り込み、家へ戻る道を見失ったことがあった。句を見て、すぐに路地の情景が浮かんで来た。迷ったのは何処だったか。そうだ、あの辺りだ、と見当がついた。小春の一日、散歩もかねて思い出の場所に行ってみてびっくり。けっこう立派なマンションが、どんと建っていたのであった。  帰りがけにハッと気づいた。「路地の出口の道標」とは? 私は路地内で迷った人への道しるべと思い込んでいたが、解釈を誤っていたかも知れない。「山茶花がいま盛りですよ。ご遠慮なく~」という路地の中への親切な誘いとも思えてきた。即ち「路地に出口の道標」か、「路地の出口に道標」なのか。どちらでもOKと思うのだが。 (恂 20.12.20.)

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南瓜煮る阿房列車の過ぎてゆく  星川 水兎

南瓜煮る阿房列車の過ぎてゆく  星川 水兎 『この一句』  俳句を鑑賞するなかで取り合わせの妙というのものがある。へぇー、この季語にこれを小道具に持ってきたかという驚き。うまくはまれば二つの物がぶつかり合い(二物衝撃)、1+1がそれ以上の効果を生むといわれる。 逆にひとつの対象物を詠むのが「一物仕立て」。ある一点に絞ってそのぐるりを表現すれば、焦点がはっきりしているだけに明快な句になる。二物衝撃はと言えば、はまらなければただの難解句となってしまいそう。それでも、なかには空想を刺激し読者を夢幻の世界へいざなうこともある。  上掲の句。南瓜を煮ている作者にとって「阿房列車の過ぎてゆく」とはどういうことなのか。作者に聞いてしまえば、南瓜を煮ながら内田百閒の『阿房列車』を読み進めていただけという。しかしそれを知らぬ読者は「南瓜」と「阿房列車」の関係を知りたくなり、句に吸引力が生まれる。筆者は好奇心にかられてこの句を採った。 同じ句会に「始祖鳥の夢切れ切れに夜寒かな」という句もあった。これについては当欄の11月15日付けで論じられているが、採った人の弁は「ちんぷんかんぷんだが、夜寒に始祖鳥がなんとなく合っていて面白い」というものだった。二物衝撃、難しいようで易しく、易しいようで難しい。 (葉 20.12.18.)

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葱鮪鍋飲まぬ老夫が喰ふばかり  藤野十三妹

葱鮪鍋飲まぬ老夫が喰ふばかり  藤野十三妹 『合評会から』(酔吟会) てる夫 奥さんが食うばかりではなくて、ご主人が食うばかりというのが面白いと思って頂きました。 而云 「喰ふばかり」という措辞はあまり感心しないけど、面白いので頂きました。だいたい、飲まない夫はよく食べます。 双歩 山口斗詩子さんのところのご夫婦を想像しました。 *       *       *  而云さんの言うように飲まない夫は肴をばくばく食べる。それを双歩さんは、故山口詩朗さんを思い浮かべながら昔語りした。この辺りは酔吟会の常連でないとよく分からない楽屋話みたいなものだから、こうしたオープンなブログにはふさわしくないやり取りかもしれないが、臨場感があるのであえて載せた。  亭主はほとんど飲めず、連れ合いが行ける口という夫婦がよくある。さばけた亭主は盃のやり取りはカミサンに任せて、自分はもっぱら喰いながら酔っ払いの他愛もない話を聞いて楽しんでいる。  作者は男をしのぐ酒呑童女である。合評会に上がった斗詩子さんも酒豪。ごテイシュはいずれもよく出来た御仁。パクパク食べてはふむふむとうなずいている。ただ、この句は「老夫が」ではなく、「老夫は」とした方が良いのではないかと思うのだが、そんな細かいことを気に留めるような作者ではないと、後から気がついた。(水 20.12.17.)

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地球儀の太平洋に冬の蝿     廣田 可升

地球儀の太平洋に冬の蝿     廣田 可升 『この一句』  句を見た瞬間、これはいい、と思った。しかしなぜ気に入ったのか、後で改めて考えてみたが、どうもはっきりしない。絶対に選ぼう、と決めた時の気持ちを思い返してみた。蠅の止まった場所が地球儀の太平洋、というのがユーモラスで面白かったのだろうか。おおらかで、いかにも蠅が止まっていそうな場所だと感じたような気もする。  句の場所は書斎か居間と思われる。冬の日が窓から射し込み、地球儀に当たっている。作者によれば地球儀に蠅が止まっているのを見たことがあるが、その個所ははっきりしないという。「ハワイはどうか」という意見が出た。「拵えごと」という厳しい評もあった。しかし「太平洋」が気に入ってしまった私の気持ちは動かし難い。  なぜ太平洋なのか。なぜ気に入ったのか。真剣に考えても、その理由をはっきりと説明することが出来ない。たったの十七音の短詩だが、各作品の奥にはそれぞれに異なる宇宙が広がっている。句を選んだ理由も、句への思い込みも、選んだ人それぞれに異なるらしい。世界最短の詩・俳句の本領はその辺りにあるのではないだろうか。 (恂 20.12.16.)

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枯菊を焚くや残り香果つるまで  水口 弥生

枯菊を焚くや残り香果つるまで  水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 青水 菊を焚くとは、昔から詠まれている。情緒があってとてもいい。 鷹洋 過ぎゆく季節を菊に託してうまく詠んでいる。香果つるまでと名残惜しさを、きっと自分にも託しているのだろう。心の発露として。 守 もうこんな晩秋の風景、身近には見られないなと思いつつ採りました。 水馬 仏壇か、お墓にあった菊を庭で燃やしているのかなと思いました。故人のことを惜しみながら。 阿猿 枯れても花びらが散りにくい菊が、もとのシルエットを残したまま炎に包まれ、断末魔の香りを放って灰になる。荒涼とした美しさを感じます。 十三妹 過ぎし日の想い出でしょうか。今もなお心に残る痛みを思い切ってすっぱりと焼き尽くそう……。そんな句ではないかと。        *       *       *   「うま過ぎる」一読、そう思った。口調が実に良い。正直、格好良すぎて嫉妬を覚えた。素直に褒められず「いかにも俳句をつくりました、という句」などと貶めるような選評を吐いた。大いに不明を恥じた。作者は令和元年度の日経俳句会賞を受賞したほどの実力者だ。常に繊細で美しいことばを紡いで作品を作っている。上手いはずだ。  みなさんの選評を見るにつけ、句を選ぶときはもっと素直な気持ちにならなくては、嫉妬したならしたと正直に言うべきだ。大いに反省させられた一句。(双 20.12.15.)

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親子三人鍋つつき合ふ十日夜   大澤 水牛

親子三人鍋つつき合ふ十日夜   大澤 水牛 『この一句』 この句の季語は何か。元旦から七日まで、正月の七日間がそれぞれ季語であることは承知している。夜ならば十五夜や十三夜などもある。しかし、「十日夜」という季語はあるのか。それとも鋤焼や寄鍋などが季語なので、それらを引っ括った「鍋」を季語と見ればいいのか。掲句を見て、こう思った人も多かったのではないか。  季語は「十日夜」である。「とおかんや」と読みならわしている。陰暦十月十日の夜に行われる、無事に稲を収穫できたことに感謝する行事で、子供達が太い縄や藁鉄砲で地面を叩いて回ったりする。神棚に餅を供えるところもある。収穫を終えた土地を鎮めるこの催しは、信越・関東地方を中心とするもの。近畿などでは「亥の子」がこれに似たものとされる。令和2年の十日夜は11月24日だった。 「新嘗祭が天皇家のお祭りとすれば、十日夜は庶民の新穀感謝祭とも言えましょう。今やハロウイーンなどという馬鹿騒ぎに浮かれ、日本独自の風習が忘れ去られていることに寂しさを感じて…」というのが作者の言葉。生活の洋風化に伴ってついえた行事も多い。それに、一昔前は、鍋を囲むのは三人ではなく五人とか七人だったろう。 (光 20.12.14.)

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持ってけと呼ばれ手伝ふ大根引き  谷川水馬

持ってけと呼ばれ手伝ふ大根引き  谷川水馬 『この一句』  定年退職した夫婦や、子育て中の若い夫婦が、田舎に移住して農業を始める。最初は、勝手がわからないから、近所のベテラン農夫に教えてもらいに行く。農夫は忙しいから教えるどころじゃない。「大根欲しけりゃ、勝手に持ってけ」。移住した方はただもらう訳にも行かず、おずおずと大根引きを手伝い始める。テレビ番組によくある、そんなシーンを想像した。  ところで、この句は動詞の多い句である。「持ってけ」は「持って」と「行け」の複合動詞。「呼ばれ」に「手伝ふ」。最後の「大根引き」は名詞だが、動詞が転じた名詞。普通、一句に複数の動詞は禁物、と言われる。手元の藤田湘子著『新・実作俳句入門』を開くと、十三ある「実作のポイント」の八番目に「一句一動詞」の項が置かれ、「動詞の少ない俳句は、読んで安定感があり、印象も鮮やか」と動詞の複数使用を戒めている。ところが、大先生はその後に、動詞が多いと「句が軽快になりスピード感が出てくるというメリットがある」とも書いていて抜け目がない。まさに、掲句の良さを説明してくれているようである。畑に来た人と農夫のやりとりが、「軽快」かつ「スピード感」をもって表現され、ユーモラスな句に仕上がっている。  たぶん最初の「持ってけ」が効いているのだろう。「持って行け」ではなく「持ってけ」と掛け声のような命令形の表現にしたことで、一句の臨場感がいっきょに醸し出されたのだと思う。 (可 20.12.13.)

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冬めくや脛カサカサと知らせけり  旙山芳之

冬めくや脛カサカサと知らせけり  旙山芳之 『おかめはちもく』 「実感です。家内がかさかさの脛にクリームを塗っているのを思い出しました」(朗)、「乾燥した皮膚が小声でこっそり教えてくれているかのようにも感じられて面白いです」(早苗)、「冬が近づくと脛の脂っけが抜けて痒くなります。現実感があります」(木葉)、「カサカサという乾いた擬音がいかにも初冬。唇や手先はいち早くケアするが普段目に入らない脛は忘れてしまいがち。ウロコのようになった肌に気づいて慌ててクリームなど塗る。日常のなかに季節を感じる感性」(阿猿)。           *       *       *  合評会では次々に共感の声。初冬に「皮膚のかさつき、かゆみ」を感じる人は多い。それを「冬めく」という季語に取り合わせて詠んだところが高点の所以であろう。  江戸の俳諧にしばしば出てくる「雁瘡」(がんがさ)という季語がある。雁が飛来する初冬にスネをはじめ体のあちこちがむやみに痒くなり、時には赤く発疹したり、湿疹のようになったりする。掻き壊してカサブタができたりする場合もあるが、春になって雁が帰るころになると自然に治ってしまう不思議な皮膚病である。今はそれなりの病名がついているのだろうが、まあ命にかかわるようなものではないからあまり問題にされていない。この句もそんな軽いところをうまく詠んでいる。ただ、切れ字の「や」と「けり」が二つあるのが気になる。ちょっと説明調になるが、「冬めくを」としたほうがいいかなと思う。 (水 20…

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すさまじや骨組み残る芝居小屋  野田 冷峰

すさまじや骨組み残る芝居小屋  野田 冷峰 『季のことば』  芝居小屋といえば、筆者は一九六〇年代末の新宿花園神社の「紅テント」を想起する。唐十郎率いる一座のアングラ芝居は全共闘世代の若者に支持され、また社会に爪はじきにされた。同時代の寺山修司の「天井桟敷」劇も思い出す。 今や老境の作者のノスタルジーだろうか。この句の芝居小屋とはなにか。新型コロナ禍の現在、野外の芝居小屋がどこかにあるのか無いのかは知らない。ともあれ骨組みだけの芝居小屋がそこにある。やはりコロナ禍が演劇活動を止めてしまい、予定されていた公演を断念したのかもしれない。  「冷まじ」という季語。今年はことにネガティブな感懐を抱かせる。江戸俳諧時代からの「冷まじ」は秋の涼しさを通り越して寒いという、「秋深し」の類題の意味合いがあり続けたようだ。が、現代では心象的かつ事物的なものに移りつつあるのではないか、というような解釈も合評会で披露された。筆者もそれに納得する。 骨組みだけが取り残された芝居小屋は晩秋のうすら寒さを通り越して、まるで冬の寒さを感じる。それとともに、今年の演劇・興行界の苦悩を暗示していて、まさに「すさまじや」にふさわしい光景だと思う。こうした受け取り方がこの句の本意とは離れているのか、正直いまだに分からない。 (葉 20.12.10.)

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老化です初冬一撃整形医     大平 睦子

老化です初冬一撃整形医     大平 睦子 『この一句』 70代にさしかかると、体のあちこちに不具合が生じる。何か大きな病気ではないかと思って病院に行くと、医師に「まあ老化現象ですね」と言われ、薬を処方されて終わるのが大半だ。掲句は老人なら誰もが経験する出来事を、ユーモアたっぷりに詠んでいる。 ぶつ切りの言葉を並べただけに見えるが、語順が卓抜だ。最初に「老化です」と読ませて何だろうと疑問を抱かせ、「初冬一撃」でヒントを提示し、「整形医」の下五で一気に解き明かす。クイズ問題のような面白みがある。 初冬の季語もピタリはまっている。冷え込んできて、急に腰か肩に痛みを覚えた。慌てて整形外科に駆け込むと、思いがけず「老化です」の診断。「一撃」は体を襲った痛みと、老化を指摘された衝撃の両方を表す措辞ではなかろうか。高齢者の多い句会(日経俳句会)では、「老化と言われ医者と喧嘩したことがある」(鷹洋)など、同様の経験をした人が何人もいて、高点を得た。 作者は長年勤めた会社を、昨夏に60代半ばでリタイアした。見た目も若く、老人(前期高齢者)入りの自覚はなかったであろう。「初冬一撃」からは、無神経な医師の言葉にショックを受けた心情がくっきりと透けて見える。 (迷 20.12.09.)

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