夜回りに女の声のまざりけり   鈴木 雀九

夜回りに女の声のまざりけり   鈴木 雀九 『この一句』  「火の用心」を唱えながら拍子木を打って、何人かのグループで町内を巡回する夜回り。かつてどこの町内でもやっていた冬の行事だが、今でもやっているところがあるのだろうか。 その夜回りの声がすると思ったら、なかに女性の声がまじっている。「あれ!女の声だ」と思う。ただ、それだけのことを詠んだ句である。一読して男性の句だとわかる。  昔の夜回りは男ばかりだった。女性が動員されるのは、茶菓の用意など詰所での役割が主で、女性が外回りをすることは滅多になかった。それが、当節では女性も夜回りに出る。何も不思議な話ではない。でも、この作者は「あれ!女の声だ」と少し驚いたのである。おそらく女性特有の少し甲高い声だったのだろう。いったい、どんな女性だろう?声は聞こえても、作者にもその姿は見えない。あれこれ想像、あるいは妄想しただろうか。いずれにせよ、女性の声が聞こえるのはちょっといい気分。それが読み手にも伝わって来る。  筆者は合評会で、この句の下に「万太郎」と書いてあれば、「やっぱり、万太郎の句はいいな」と言ってしまいそうな句だと評した。思わず口を突いてしまったのだが、言い過ぎたとは思わない。「女の声のまざりけり」の措辞は、くどくど説明することなく、切字の「けり」が効果的に使われている。なんとも言えぬ艶があり、読後に余韻のある句である。 (可 20.12.31.)

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師走来る嗚呼嗚呼嗚呼と鴉鳴く  久保田 操

師走来る嗚呼嗚呼嗚呼と鴉鳴く  久保田 操 『この一句』  12月に入ると新聞などに十大ニュースが掲載される。社会部長が選ぶ十大ニュースというのもある。年の終りに一年を振り返るのは人の常で、家族で「わが家の十大ニュース」を考えてみるのも面白い。ただ今年について言えば、あらゆる国、機関、家庭のトップニュースは「コロナ禍で暮らし一変」であろう。  掲句はこの一年の感慨を「嗚呼嗚呼嗚呼」という鴉の鳴き声で象徴させる。中国武漢での発症に始まり、クルーズ船騒動、緊急事態宣言、マスク不足、GoToトラベル、第二波・第三波の襲来と、走馬灯のようにニュースが浮かんでくる。政府の後手後手の対応もあり、コロナ籠りを強いられたまま年が暮れようとしている。まさに嘆き、怒り、諦めの一年である。  「嗚呼嗚呼嗚呼」の表現からは、そんな万人共通の思いが読み取れ、句会でも高点を得た。もちろん作者・読者の感慨はコロナに限らないかも知れない。しかしコロナの年だからこそ、鴉の鳴き声がいつも以上に心に刺さってくる。 作者の弁によれば「一年に対する嘆きの思い。私の頭の上で鳴いて語りかけた鴉なので、実景を詠んだ」という。「カーカー」という鳴き声を「嗚呼嗚呼」という漢字に置き換え、しかもそれを三回繰り返すセンスは、ジャーリスト精神そのものではなかろうか。 (迷 20.12.30.)

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回転にひねりを入れて柿落葉   玉田春陽子

回転にひねりを入れて柿落葉   玉田春陽子 『季のことば』  柿の葉は意外に大きなものだ。手のひらサイズが普通で、柿の種類によっては草鞋大のものもある。散る時期になった葉の色と模様が素晴らしい。手に取るとまるで錦のような模様に見える。葉の形状は平らのようで複雑である。全体的に裏から表へと僅かに反り返っているが、それぞれに特定の凹凸があって一様ではない。  そんな葉がふと枝を離れる。風のない時はまさに「ひらひら」だが、曲面の形状によって、その葉なりの動きがあるようだ。地面に近くなると僅かな空気にも乱れがおこるのだろうか。一瞬、それまでと違う動きを見せて着地する。句はそれを「回転にひねりを入れて」と表現した。「上手く詠むもんだなぁ」と感心する。  まず思い浮かぶのが、体操競技の最後の着地だろう。選手の体がゴム毬のように弾み、くるくると回りながら、ひねりを入れたりして着地する。柿の落葉は空気圧と僅かな風に身を任せ、一葉がどの一葉とも違う動きをするのだ。直木賞作家・山本文緒さんの近作「自転しながら公転する」のタイトルそのものでもある。 (恂 20.12.29.)

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売り言葉買ってぶらぶら冬桜   中嶋 阿猿

売り言葉買ってぶらぶら冬桜   中嶋 阿猿 『この一句』  「売り言葉を買った以上は対決しなきゃいけないのに、ぶらぶらしていて度胸もない。可哀そうなおじさんだと、同情から採りました」とは三薬さんの選評。一方、鷹洋さんは、「買った以上、闘わなければならないのに、何だかはぐらかされたので採らなかった」という。  「売り言葉に買い言葉」の後は、激しくやり合うバトルが始まるのが通り相場。身近な例では、夫婦喧嘩だ。ささいな口喧嘩がエスカレートして、のっぴきならない所まで行き着く。誰しも思い当たる節はあるのではないか。しかし、この句の場合は「買ってぶらぶら」と何事も起こっていないようだ。そのはぐらかしを面白いと思うかどうかで評価が分かれた。  筆者は展開の妙が気にいって採ったが、「買って」と「ぶらぶら」の間に省略があるのではないかという気がしてきた。職場か家庭で売り言葉を買ってしまい、つい口喧嘩になった。ささくれ立った気分のまま公園か神社辺りをぶらついていたら、思いがけず冬桜に出会い、なんとなく荒んだ気持ちが和んできた。冬桜はソメイヨシノと違って派手さはないが、ものみな枯れる寒い季節にそこだけぽっと灯を点したような風情があって、見つけると何だか得したような気分になる。そう考えると冬桜の季語が生きてくる一句で、句会で高点を得たのも頷ける。 (双 20.12.28.)

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小春日や銀座稲荷にいなり寿司  星川 水兎

小春日や銀座稲荷にいなり寿司  星川 水兎 『季のことば』  「銀座稲荷」とは? 聞いたような、聞いたことがないような・・・。東京・銀座のどこかで見た気もするが、その名が「銀座稲荷」であったかどうか、はなはだ自信がない。このような場合、辞書や百科事典の類は頼りにならず、何はさて置きパソコンのネットを開く。出て来た何項目かの一つを読んで驚いた。「稲荷神社」を名乗るものが銀座には九つはあるという。  しかもこの小さな神社は会社や商店のビル内や屋上にも鎮座し、「その数は不明」「数え切れない」などの記述もあった。稲荷神とはそもそも稲を象徴する農耕神。「稲荷大明神」「お稲荷様」などと呼ばれ、「食物の神」「狐の神」のほか「油揚げ」「稲荷寿司」なども意味する。京都の伏見稲荷大社を総本宮とするが、屋敷神、企業の守り神として全国に散在している。  小春日の一日。作者は仕事ついでの銀ブラ中、ビルの傍らの小さな銀座稲荷を見つけたのだろう。「おや」と立ち止り、手を合わせた時、小皿の上に置かれた稲荷寿司が目に入ったのだ。「お稲荷さんにお稲荷さんを」。供えた人に洒落というほどの気持ちはなく、稲荷寿司を買えば何時も、銀座稲荷へ一つ供えているのかも知れない。季語の小春日に相応しい情景である。 (恂 20.12.27.)

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一村の墓所を抱きて山眠る    今泉 而云

一村の墓所を抱きて山眠る    今泉 而云 『季のことば』  「山眠る」は「山笑ふ」「山装ふ」と並ぶ大きな季語だ。古今詠まれた句の数もおびただしいし、それゆえ類句も数えきれない。山肌に集落の墓どころを抱いている風景は昔からお馴染みでもある。おおよそ墓石の群れは日当たりよい南を向いており、集落を見下ろしている。住人は常に先祖に見守られていると思っているのだろう。奥多摩の村や山梨大月の中央道沿いなどでもしばしば見ることができる。山の木々が葉を落として見通しがよくなったころ、墓石群は以前よりはっきりと姿を現す。  この句は、先祖累代の墓々が盛夏の生命力あふれる様相から、「山眠る」の優し気な、また一面寂しげな様相に変わった山間の光景を活写している。「一村」とは言っているが、以前の村ではないだろう。子どものいる青壮年の一家はもはやいないのかもしれない。筆者は、村の人口が激減してしまった老人ばかりの限界集落と見た。だから昔の生活のにおいがする山裾の集落とは違う今現在の句であると受け取った。類句が沢山あるような気がすると言う出席者もおり、作者自身も当日の最高点の栄誉を受けながらこんなに点が入るとは思わなかったと述べた。がしかし、イメージを今に移せば感懐深い当世の句となると思うのである。 (葉 20.12.25.)

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手をあはす御仏の足冬の蠅   玉田 春陽子

手をあはす御仏の足冬の蠅   玉田 春陽子 『この一句』  合評会で、「手をあはす」のは誰か、が議論になった。「蠅が前足をこすり合わせるのが、御仏が手を合わせているように見えるという意味でしょうか」(満智)と、比喩の表現ととる解釈があった。また、御仏そのものが手を合わしているのだと、合掌する仏像をイメージする人もいた。仏像の手のかたちは、施無畏印や来迎印など印を結ぶものが多く、合掌している像は案外少ないのだが、勢至菩薩像や童子像など合掌されている像もたしかにある。  筆者はこの句を読んですぐに奈良の長谷寺の十一面観世音立像を想起し、参拝者である作者が手を合わしていると解釈した。この観音さまは三丈三尺六寸(約十メートル)の巨大な像で、特別拝観の期間には堂内の観音さまのすぐ近くまで入ることが出来る。入ってみると、目の前にあるのはまさに「御仏の足」で、そこで合掌するとまさに足に向かって拝むかたちになる。堂内はとても荘厳な雰囲気で、見上げればはるか遠くに観音さまのお顔がある。  作者によれば、手を合わせているのはやはり作者ご自身だが、手を合わせている対象は地蔵菩薩だったとのこと。「冬の蠅」のとまっている場所としては、暗い堂内の観音さまの足元よりも、日当たりの良い地蔵さまの足元の方が相応しいだろう。「地蔵の足」ではなく、「御仏の足」と詠んだことがこの句を豊かなものにしている。小さく、か弱い生き物が、「御仏の足」に安心してやすらぐ様子が見える。 (可 20.12.24.)

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川底に色よき朽葉山眠る     金田 青水

川底に色よき朽葉山眠る     金田 青水 『合評会から』(番町喜楽会) 水牛 綺麗な谷川の清澄な気分が感じられます。初冬の良く晴れた午後の感じがする、おとなしくていい句です。 木葉 奥入瀬かどこかの渓流で、真っ赤な落ち葉が澄んだ水の底にある光景を思い浮かべます。 冷峰 川底の「朽葉」に哀愁を感じます。枯葉ではなく「朽葉」としたところがいいですね。 二堂 綺麗な山の静けさがよく出ています。            *       *       *  「山眠る」は、俳句を詠む人なら一度は使ってみたい魅力的な季語である。中国宋時代の詩からとられているが、春夏秋に対応した笑ふ、滴る、粧ふの表現がやや技巧的であるのに対し、山眠るは不自然さがない。木々が葉を散り尽くし、ひっそりと静まり返った山は、確かに眠っているように見える。雪にでも覆われていれば、いっそう静寂感が深まる。  掲句はその山を描写するのに川を持ってきている。まずその着想に魅かれた。秋の山を華やかに装った赤や黄の葉は散り落ち、川底を埋めている。「色よき」の表現で、水中の葉がなお秋の名残をとどめていることを印象づける。雪が降り、山が眠りを深めれば、色よき葉も文字通りの朽葉となって行く。山容の移り変わりに色の変化を重ねることで、眠る山の寂寥感をさらに深めている。 (迷 20.12.23.)

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莢枯れて大豆は甘し北颪     高井 百子

莢枯れて大豆は甘し北颪     高井 百子 『合評会から』 光迷 場所はどこでしょうか?「北颪」だから、丹沢でしょうか、上州でしょうか?畑仕事のことがよく分かっている人の上手な句ですね。 可升 こういう句は作ろうと思っても作れません。大豆の事、北颪の事を本当に知らないと作れない句です。俳句としても、とても調べが良い句です。 水馬(メール選評) 昔、生家で作っていた大豆の収穫を思い出しました。写生がきいていると思いました。 *       *       *  大豆日本一の産地十勝の生まれの筆者だから、この句境は我が意を得たりである。葉や茎がカラカラに枯れて、もうだめになったんじゃないかと思うくらいになった後に、大豆の収穫が始まる。夏の青い枝豆が黄色く弾け出し、それが美味い豆腐や湯葉に変身するのだ。 「北颪」が吹く頃のあの風景を知るのは、上州生まれ信州在住の作者ならではと思う。たしかに大豆という作物のありようを身近に知る人が作った一句とうかがわせて疑念をはさまない。大豆のほんのかすかな甘みは豆乳にあり、作者は日々愛飲しているのかもと想像するのである。 (葉 20.12.22.)

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眠る山五百羅漢をふところに   田中 白山

眠る山五百羅漢をふところに   田中 白山 『この一句』  まず、冬晴れの下の静かな山の姿が瞼に浮かんだ。稜線を下ってズームインして行くと、森の中から五百羅漢が姿を現した。寺領である。それにしても「五百羅漢をふところに」というのは、いい措辞であり、いい取り合わせである。「ふところ」というひらがな表記もいい。「懐」という漢字よりは柔らかく、ふくらみもあるから。  「山眠る」という季語は、北宋の画家、郭煕の「冬山惨淡として眠るが如し」から生まれたもの。その前に「春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠として滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く」という一節がある。四季それぞれの山の姿を「笑う」「粧う」などと表現する捉え方に、自然と人間の共生に通じるものが感じられる。 ところで、句の作者はどこにいるのか。五百羅漢に会えるのは、東京都内ならば目黒の羅漢寺、近郊となれば川越の喜多院や小田原の玉宝寺などである。京都には伊藤若冲の下絵を元にした石像があると聞くが…。小春日和に、怒ったり笑ったり、立ち、座り、また寝転んだりという様々な表情、仕草の羅漢を想像すると、心が温かくなる。 (光 20.12.21.)

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