百年の家業を閉ぢて居待月    鈴木 雀九

百年の家業を閉ぢて居待月    鈴木 雀九 『この一句』  中秋の名月には「今日の月」、「月今宵」、「芋名月」などの異名がいくつもある。満ちる前はもちろん、満ちた後にもそれぞれ別の名がある。十五夜の翌日の十六夜は「いざよふ月」。十七夜は「立待月」。その次が「居待月」で、十九夜は「寝待月」。その翌日は「更(ふけ)待月」と続く。さらには一ヶ月後の十三夜は「後の月」として、別バージョンの月見が待っている。ことほど左様に私たちは昔から月への思い入れが強い。  一方、掲句の「百年」というのは区切りの良い響きだ。「百年の家業を閉ぢて」という措辞に、はっとさせられる。一体何があったのだろう。家業は何だったのだろう。どんな人が営んでいたのだろう。省略されて語られていないあれこれに思いを馳せる。畳み掛けるように「居待月」というドラマ性を孕んだ季語が上五中七を受ける。映画で言えばエンディングだ。夜空を背景にエンドロールが始まりそうだ。  作者によると、実際に耳にした話をヒントにしたそうだ。百年続いた家業を畳まざるを得ない、という遣る瀬ない思い。一語一語に事実の重みが宿る。「コロナ廃業か。その月は淋しく見えるのみ」(反平)、「無念さが伝わってきます」(冷峰)、「居待月の寂しさが伝わってきます」(実千代)、などと多くの共感を呼び、九月例会の最高点句となった。 (双 20.10.19.)

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老眼鏡外した跡や龍田姫     今泉 而云

老眼鏡外した跡や龍田姫     今泉 而云 『季のことば』  弱った、困った――またまた句のひねり出しに難産必至の季語が兼題に出た。錦秋の使者「龍田姫」は俳句の上の存在ながら、字義とおりに人間としての人格を持つのだ。だから各氏の投句も擬人法を使ったものが多かった。ちなみにこの兼題の最高点は「芦の湖を姿見にして龍田姫」。ほかにも擬人法と見た句に「百日紅に居残り命ず龍田姫」「濃口はいまだ好かぬと龍田姫」「袖口を藪にからめて龍田姫」「ブロワーに裳裾抑える龍田姫」「日光に輿入れせしや龍田姫」などがあった。いっぽう、「龍田姫」に借りて他のことを詠んだ句はそれほど多くなく、「大山の長き石段龍田姫」「龍田姫余生に一つ恋の夢」「龍田姫小江戸川越串団子」「これはもう恋かもしれぬ龍田姫」などだ。  この句、これは当然擬人法そのもの。奈良朝の昔から生き続けるさすがの龍田姫も、寄る年波に耐えきれずついに老眼鏡をかけるようになったと言っている。作者は身近に“往年の美女”でも見たのだろうか。あれこの人、こめかみに老眼鏡を掛けていた跡があるじゃない。その小さな発見をこの季語に借りて詠んだものと解釈できる。後から読み直すと諧謔味があって難物「龍田姫」に相応しい句だったと思う。採りそこなった句である。 (葉 20.10.18.)

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虫の音のふつと止みまたふつと鳴き 嵐田双歩

虫の音のふつと止みまたふつと鳴き 嵐田双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 白山 今年は夏が暑くて遅くまで続いたのだけれど、普通の年の秋だったらちょうどこんな感じがしますね。蝉の声が弱くなったところに、虫の音が聞こえてくるような、微妙な感じをよく詠んでいます。 幻水 「虫の音」と「鳴き」が重複しているのが少し気になりましたが、「ふつと止みまたふつと鳴き」は生態をよく捉えていると思いました。 的中 いろいろな種類の虫の鳴き声が響く秋ですね。確かに、虫の鳴き声は、響き渡るかと思ったら、しばらくして鳴き声が小さくなります。「ふつと」という表現に、虫の音が急に変化する様がよく表れていますね。           *       *       *  「どうしたんだろ」と思っていると、また鳴き出す。いいところを詠んだものだと感心した。  秋の虫には人間を筆頭としてノラ猫や蟇蛙などいろいろな敵がいる。それらが近づく気配を感じ取れば当然鳴くのを止めてしまう。通り過ぎればまた鳴き出す。しかし、そうした外敵が居そうもない時でも、鳴き声が止むことがある。秋の虫たちの合奏にも楽章ごとの休みがあるようなのだ。賑やかな声がふっと止むと秋の夜の静寂が一層際立ち、しばらくしてまた合奏が始まると、なんとなくほっとした気持になる。 (水 20.10.16.)

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信濃の夜残暑鎮めて良き眠り   後藤 尚弘

信濃の夜残暑鎮めて良き眠り   後藤 尚弘 『合評会から』(三四郎句会) 圭子 長野県の秋の夜はとても涼しくなると聞いていたので、なるほど、と思いました。豊かな自然や涼しい夜が思い浮かびます。 信 信州などの高原の初秋は、都会と違って朝夕が本当に涼しい。クーラーの排気熱なんてものはないでしょう。うらやましい限りですね。 進 そのような所で、この句のように眠ってみたいね。 尚弘 (作者) 信州で生まれ育ったので、残暑には関係なく、いつも涼しい夜を過ごしていました。夜は寒いほどで、窓を開けて星空を眺め、よく眠った少年の頃が懐かしい。           *       *       *  作者の「窓を開けて星空を眺め」というコメントに、「そんな風に眠ることが可能なのか」と大いに驚いた。長野県やその周辺には何度も行っているが、思い起こせばすべて旅館やホテル泊まりだった。「そのような所で、この句のように眠ってみたいね」(進)には全く同感。作者は大学入学以降、ずっと東京か近郊住まいである。老齢期に入った今、同じようなことを考えているのではないだろうか。 (恂 20.10.15.)

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開墾のひとちりぢりに蕎麦の花  廣上 正市

開墾のひとちりぢりに蕎麦の花  廣上 正市 『この一句』 飢饉や災害に備えて栽培されるものを救荒作物といい、蕎麦や稗(ひえ)、粟(あわ)、さつま芋などが知られる。中でも蕎麦は寒冷地でもやせた土地でも育ち、種をまいてから75日で収穫できるため代表的な救荒作物として、奈良時代から栽培されてきた。 東北や北海道では米が採れない時代は、蕎麦や稗が主食となってきた歴史がある。山や原野を切り開く開墾地では、収穫の早い蕎麦がよく植えられた。句に詠まれたのも、先人が蕎麦を食べ、稗をすすりながら土地を開いてきた場所であろう。それが時代の移り変わりで農業が立ち行かなくなり、住民がひとり二人と村を離れ、守り継ぐ人がいなくなった。「ひとちりぢりに」という平仮名の中七が、時の流れを感じさせ、誰もいなくなった開墾地が浮かんでくる。 その無人の開墾地に、昔植えられた蕎麦が白い花を付けている。わずか17文字の句だが、明治から現代に至る壮大な開拓ドラマを見る思いがする。作者は北海道で生まれ育った。「はまなすや指呼の国後島茫とあり」など故郷を詠んだ句も多い。開墾地の栄枯盛衰を実際に目にしてきたであろう作者だから詠めた佳句といえる。 (迷 20.10.14.)

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青空も山も転がす芋の露    玉田 春陽子

青空も山も転がす芋の露    玉田 春陽子 『合評会から』(酔吟会) 睦子 露の玉に映る秋の景色が超広角レンズのように見えて、玉は揺らめき・・「転がす」が上手いです。 水馬 露に映った空も山も、芋の葉がそよげば揺れ動くという景。 可升 一読、蛇笏句「芋の露連山影を正しうす」を想起しました。この句の露は、山のみならず青空も映して、しかも玉となって風に揺れ、転がっている。蛇笏句とは異なるユニークさがあると思いました。 冷峰 芋の葉についた一滴に雲や山まで写っている。大きな句ですね。           *       *       *  作者によると自宅近くの都立町田高校の傍に里芋畑を発見、散歩がてら朝露を見に出かけた。「空はしっかり映り込んでいましたが、残念ながら山は映ってませんでした。そこはそれ俳句の世界ということで・・」と言う。  蕉門十哲の一人宝井其角が「切られたるゆめはまことかのみのあと」という句を詠んだ。向井去来が半ば呆れ半ば感心して、師の芭蕉に「其角という男はほんとに作者(こしらえ事の巧者)ですね、ノミに喰われたくらいのことを誰がこうも大げさに言いますかね」と言ったら、芭蕉は「そうだねえ、さしづめ現代版藤原定家卿とでも言ったらいいかもね。一寸したことを大きくふくらますのが上手いね」と答えたという逸話がある。春陽子今や其角の域に迫るか。 (水 20.10.13.)

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点滴の音なく速し鰯雲      須藤 光迷

点滴の音なく速し鰯雲      須藤 光迷 『合評会から』 鷹洋 点滴と鰯雲を重ね合わせた視点が尋常ではない。どちらも音なく流れてゆく。過ぎ行く時間を愛おしむ一句。 操 病室から仰ぐ鰯雲。過ぎる静寂の時間。 水馬 同じ模様の繰り返しの鰯雲が、時間を持て余すベッドの中の作者の状態を表しているように思う。           *       *       *  作者によれば十年くらい前に癌が見つかり、血液検査と点滴を繰り返した時の体験らしい。三十分くらいの点滴の間、身動きできないので俳句を考えたりしたとのこと。  この句の「速し」は点滴にかかる。誰も「鰯雲」が速いとは思わない。では「音なく」はどうだろうか。「音なく速し」と一連の措辞になっているので、本来的にはこれも点滴にかかるのだろう。しかし、筆者も含めてほとんどの評者が、「音なく」は鰯雲にもかかるイメージとして捉えている。と言うよりも、ベッドに横たわる作者、病室の雰囲気、仰ぎ見る点滴、窓外の鰯雲、すべてが「音なく」存在すると読みとれる。「点滴」の動と「鰯雲」の静を取り合わせたことで、十七字の〈静寂の時間〉が成立している。余韻の深い句である。 (可 20.10.12.)

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落雁のほろろと溶けて竹の春   向井 ゆり

落雁のほろろと溶けて竹の春   向井 ゆり 『季のことば』  竹は春に子供(タケノコ)が産まれ育ち、それに養分を取られてしまうためか生気を無くし、古い下葉が茶色くなって落ちる。そして夏場、筍は一人前の若竹に育ち青々と茂り、親竹の方も元気を取り戻して、秋も半ばになると新しい枝葉を茂らせる。他の草木と正反対である。万物が凋落して行く中で勢いを増す。これは面白いと、昔の俳人たちは「竹の春」という秋の季語を拵えて盛んに詠むようになった。  「竹の春」の頃おいは、暑くもなく寒くもない、まことに心地良い季節である。同じ頃の季語に「爽やか」とか「秋高し」「天高し」といった季語がある。そうした秋晴れの気持の良さをストレートに述べる季語に対して、「竹の春」は、竹という他の樹木とは異なった性質の植物の様子を言って、静かでのんびりとした秋のもう一つの顔を表している。  この句は「竹の春」という季語の感じを、落雁という古風な菓子と取り合わせて上手に詠んでいる。落雁は米や小豆の粉と砂糖を混ぜて練り合わせたものを型で抜いて、焼き上げた干菓子。口に含むとほろりと溶けて、口中に甘く香ばしい香りが広がる。確かに竹の春にふさわしい。 (水 20.10.11.)

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居待月じっと見上げる鬼瓦    中嶋 阿猿

居待月じっと見上げる鬼瓦    中嶋 阿猿 『季のことば』  居待月(ゐまちづき)は旧暦八月十八日の夜の月のこと。十五夜を過ぎると月の出は徐々に遅くなり、細って行く。昔の人は名残を惜しみ、「立待ち、居待ち、寝待ち、更待ちと、月を待つ心の有様を人の仕草で表した」(水牛歳時記)。月を待つのは人であり、その様子や心情を詠んだ句が多いが、この句は鬼瓦を登場させる。  居待月をじっと見上げているのは誰だろうと思って句を読むと、予想もしない鬼瓦が出て来る。その意外性が句の眼目といえる。さらに月を見上げている鬼瓦を想像すると、今度はしみじみとした感慨が湧いてくる。屋根に座して宙をにらむ鬼瓦が、居待月にぴたりはまっている。  鬼瓦は屋根の端に雨水仕舞いのために置かれる装飾瓦で、魔除けとして鬼の顔を彫り込んだものが室町以降に普及したといわれる。城や寺院でよく見かけるが、デフォルメされた鬼の表情は様々で、どこか愛嬌もある。作者の自句自解によれば、この秋に滋賀を旅した時に宿から眺めた月と、近江八幡の「かわらミュージアム」で見た鬼瓦から着想したという。 鬼瓦と月の意表を突く組合せに、迷わず点を入れた。「じっと」の表現からは、屋根に縛り付けられた身で月を見上げる無念の思いも滲んでくるようだ。奥行きの深い句である。 (迷 20.10.09.)

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露けしや命日を足す住所録   星川 水兎

露けしや命日を足す住所録   星川 水兎 『合評会から』(酔吟会) 木葉 年賀状準備の季節も近づき住所録整理。亡くなった人の命日を書き入れる。「露けし」の季節にピッタリの一句だと感じます。 三薬 住所録の故人に線を引くのはよくある事だが、命日を書き込むとは。きめ細かな人間関係を大事にしてる人ですね。 静舟 亡くなると住所録から削除するのは普通だが、命日を足すという発想に感激しました。 鷹洋 一人また一人と去ってゆく昨今の気持を的確に表現してます。 而云 亡くなった人はこれからも住所録に存在する。 春陽子 歳をとり知人の命日を記す度につくずく寂しさを感じます。        *       *       *   ちょっと気になる点があって採れなかった。親兄弟の命日は記憶し、カレンダーに記入したりするが、果たして友人、知人、同僚などの命日を住所録に書き足すだろうか、という疑問だ。ただ作者の弁を聞いて考えが変わった。  亡くなった人をスマホの住所録から削除するに忍びず、カレンダー機能に命日を入れて、毎年リマインダーしてもらっているのだという。紙の住所録しか念頭にない筆者には思いも付かない方法だ。三薬さんの言うとおり、人事の機微を絶妙に捉えている、きめ細やかな気持の持ち主だったのだ。 (双 20.10.08.)

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