夜濯ぎや教師の母の背のまるし 高井 百子
夜濯ぎや教師の母の背のまるし 高井 百子
『この一句』
「夜濯ぎ」という現代では珍しい季語が兼題に出た。どう料理しようかと頭を悩ませたのは、筆者を含め大方の反応だったろう。電気洗濯機、しかも乾燥までやってくれる全自動機が当たり前の世の中である。洗濯物を放り込んでスイッチひとつ押せば手間要らず。昭和三十年代初頭の〝三種の神器〟普及に至るまで、それ以前の主婦の苦労など忘却のかなたにある。現代の夜の洗濯全般を詠んでよしとは、「水牛季語研究」の解説であったかと思うが、やはりイメージというものは拭いがたい。盥と洗濯板あるいは桶を使った、昔の夜濯ぎの情景を思い出させる投句が多かったのは当然だろう。
作者の母上は教師であったという。五、六十年前の作者年少のころ、学校勤務を終えた母親が家事に取り掛かれるのは宵闇の時間だ。そして洗濯におよぶのは夕食の跡片付けが済んだ深更かもしれない。盥や桶に向かう母親の背中は、一日の疲れに丸まっていたよ、と詠んでいる。昔の家庭生活、職業婦人の労苦が十七音の物語となって、「背のまるし」のなかに追憶の念が込められている一句である。
(葉 20.07.14.)