夜濯ぎや上は銀座の美人ママ   田中 白山

夜濯ぎや上は銀座の美人ママ   田中 白山 『季のことば』  夜濯(よすすぎ)とは夜にする洗濯のこと。江戸の庶民は持っている着物の数が少ないため、汗をかく夏は肌着類を夜風が立ってから洗い、翌朝には乾いたものを着た。夜の洗濯は昭和の初めまで夏場に盛んに行われてきたので夏の季語となっている。(水牛歳時記などによる) 洗濯機が普及した現代は、夜濯の必要性も季節性も薄れてしまっている。句会ではこの兼題に対し、夜に洗濯した経験やその事情を詠んだ句が多く出された。掲句はその夜濯に銀座のママを登場させ、目を引いた。 若い男の住むアパートの上の階には、銀座のママとおぼしき美人が住んでいる。夜中に聞こえる洗濯機の音から、ママの暮らしぶりを想像する。そんなニヤリとする場面を思い描いて票をいれたが、他に選んだ人はいなかった。考えてみれば、銀座のママが洗濯機の音が響くような安アパートに住んでいるはずがない。状況が作為的すぎて、創作句と見られたのであろう。 作者に聞くと50年以上前の若き日の実体験をもとにした句という。確かに昭和三十年代であれば、銀座のママが同じアパートに住んでいても不思議ではない。追憶句とすれば、美人であったかどうかも含め時の経過による脚色がありそうだ。 (迷 20.07.20.)

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ひきがへる夜の歩道の真ん中に   旙山 芳之

ひきがへる夜の歩道の真ん中に   旙山 芳之 『季のことば』  蟇(ヒキガエル)はずんぐりむっくりして、黒褐色の背中はいぼいぼ、腹側はぬめっとした感じの乳白色の皮膚に灰色の雲型の斑紋がある。何とも気持が悪いとご婦人方には嫌われ、悪童にはいじめられるが、実におとなしく、悪さを全くしない。それどころかうるさい蚊や蠅や蛾をせっせと捕ってくれる貴重な生き物である。  水温み始める頃、冬眠から醒め枯葉や穴の中から這い出して田圃や池沼で雌雄合体し、寒天状の長い紐のような卵塊を生むと、また土の中に潜って春眠をむさぼる。そして4月末から5月になると再登場、今度は寒くなるまで地上で活動する。活動と言っても動きは鈍く、昼間は物影に潜み、夕闇迫る頃に出て来て食糧になる昆虫を捕る。それも暗闇にじっとうずくまって口を開け、虫が寄って来ると舌で吸い取ったり、呑み込んだりする何とも悠長なやり方だ。  あまり人を恐れず、夜間の歩道にどでんとしている。街灯に集まる虫をねらって歩道に出て来るらしい。この句はその様子を見たまま詠んで、ユーモラスな感じを与える。筆者も全く同じ情景に出くわすこと再三。最寄駅から我が家への「せせらぎ緑道」という歩道に毎夜現れる。「お前踏んづけられちゃうよ」と声掛けるのだが、無論聞く耳持たぬ。無念無想、いかにもガマ仙人といった風情だ。 (水 20.07.19.)

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夜濯や今日落としたき汚れあり  斉山 満智

夜濯や今日落としたき汚れあり  斉山 満智 『合評会から』 命水 いったい何があったのでしょうか。上司に叱られたのか、客先でいやな思いをしたのか? 光迷 何かいやなことがあったのか、体のことなのか、と考えさせられます。 春陽子 物理的なシミだけでなく、「汚れ」の内容を読み手に考えさせるという事でしょうか。           *       *       *  筆者も一票を投じた句である。この句は「しつこい汚れが着いてとても明日まで放置できない。今夜中に洗濯してしまおう」と解釈することが出来る。と言うか、文字面を素直に追いかければ、そう解釈するのが自然である。  ところが、この句を評価した人は、筆者も含めて、誰もそのようには読んでいない。心の中に引っかかる何かがあるのだろうと、この句を採り上げた全員がそう解釈している。この日の句会に作者は欠席されていたので、句意をお聞きすることが出来なかったが、おそらく、一句にこめた作者の思いは正確に読み手に伝わっているだろう。  修辞の方法としてこういうのは何というのだろう、「暗示」だろうか、「寓意」だろうか。しかし、この句にはそんな作用へ誘導するような、作為的な措辞は見当たらない。それでいて、読み手を「こういう経験あるよなあ」という共感に引き込む。言葉の不思議を感じさせる句である。 (可 20.07.17.)

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短夜や夢の続きを惜しむ夢    高石 昌魚

短夜や夢の続きを惜しむ夢    高石 昌魚 『季のことば』  夏至を中心に夜が最も短くなる頃の季語として、「短夜」とその裏返しの言い方である「明易し」(あけやすし)があり、俳諧の時代から盛んに詠まれ続けてきた。遡れば、万葉、古今の和歌にも沢山歌われている。  ただ、夏至の頃の本州付近は梅雨の最中であり、夜が明けても日が差さず暗いままだから、短夜や明易しの感じがもう一つぴんと来ない。短夜をしみじみ感じるのは7月中旬の梅雨明け頃ではないか。  それはともかく、この時期は猛暑に向かう頃でもあり、寝苦しく、眠りが浅くなってよく夢を見るようになる。この句は、それをとても面白く詠んでいる。おそらく楽しい夢だったのだろう。しかし、夢は大概いいところでぷつんと切れてしまう。それで、その続きを見たいなあとつぶやいている夢を見ているというのだ。「うん、あるある」と共感する向きも多かろう。  しかし、夢というものは「かくあらまほし」という願望の為せる業なのだろうから、大願成就、大団円を見届けることはあり得ないのではないか。「見果てぬ夢」という言葉があるように、常に「夢の続きを惜しむ夢」を見続けることになるのであろう。 (水 20.07.16.)

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夜濯やむつきの暖簾くぐりけり  塩田 命水

夜濯やむつきの暖簾くぐりけり  塩田 命水 『おかめはちもく』  襁褓(むつき)はおむつのこと。御襁褓(おむつき)の「き」が取れて「おむつ」になったとか。今や紙おむつ全盛で、布のおむつを使う家庭は少ないと思うが、昭和の親は概ね布おむつを多用した。  今やお孫さんがいる作者も子育てのころは、布のおむつに世話になったことだろう。句にリアリティがある。汚れた布おむつはその都度洗わず、専用のたらいなどに浸けておき、まとめて洗うことが多い。溜まったおむつを夜濯し、部屋中に干している景が浮かぶ。その様を「むつきの暖簾くぐりけり」と詠んだ表現が素晴らしい。生活感の中にペーソスが混じり、夜濯の季語によく合っている。  ただ残念ながらこの句には「や」と「けり」の強い切字が二つある。句会で水牛さんが評したように「や」と「けり」という二つの大きな切字で句がばらばらになってしまった。掲句の場合、この傷を消すのは簡単で、「夜濯のむつきの暖簾くぐりけり」、と「や」を「の」にすれば解決する。作者もこのことは充分承知で、多分うっかりだと思う。筆者にも似た経験はある。有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり(草田男)」は、例外中の例外であって、「や」「かな」、「や」「けり」の重複には気をつけなければ、と自戒を込めて肝に銘じた。 (双 20.07.15.)

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夜濯ぎや教師の母の背のまるし  高井 百子

夜濯ぎや教師の母の背のまるし  高井 百子 『この一句』  「夜濯ぎ」という現代では珍しい季語が兼題に出た。どう料理しようかと頭を悩ませたのは、筆者を含め大方の反応だったろう。電気洗濯機、しかも乾燥までやってくれる全自動機が当たり前の世の中である。洗濯物を放り込んでスイッチひとつ押せば手間要らず。昭和三十年代初頭の〝三種の神器〟普及に至るまで、それ以前の主婦の苦労など忘却のかなたにある。現代の夜の洗濯全般を詠んでよしとは、「水牛季語研究」の解説であったかと思うが、やはりイメージというものは拭いがたい。盥と洗濯板あるいは桶を使った、昔の夜濯ぎの情景を思い出させる投句が多かったのは当然だろう。  作者の母上は教師であったという。五、六十年前の作者年少のころ、学校勤務を終えた母親が家事に取り掛かれるのは宵闇の時間だ。そして洗濯におよぶのは夕食の跡片付けが済んだ深更かもしれない。盥や桶に向かう母親の背中は、一日の疲れに丸まっていたよ、と詠んでいる。昔の家庭生活、職業婦人の労苦が十七音の物語となって、「背のまるし」のなかに追憶の念が込められている一句である。 (葉 20.07.14.)

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黒南風や居間の電灯つけしまま  田中 白山

黒南風や居間の電灯つけしまま  田中 白山 『季のことば』  「黒南風」とは元は西日本の漁師言葉で、湿気を含んだ黒雲を運んで来る南風。大雨を降らせたり、時には船を引っ繰り返してしまうほどの暴風になることもある。一般の会話にはあまり出て来ない言葉だが、その響きと字面が異様な感じを与え、それに引き付けられた俳人たちが梅雨期の季語として取り入れた。  これに対して「白南風(しろはえ)」という季語がある。これは梅雨明けの明るく爽やかな南風を言う。対を為す季語はいくつもあるが、これほど見た目も印象も鮮やかな対比を示す組み合わせは珍しい。両方とも何とか物にしたいと取り組む俳人も多い。  この句は「電灯つけしまま」と、身の回りのちょっとした変化で梅雨期の陰鬱さを描き出したのがとてもいい。点け放しの電灯によって、あたりの暗さがより一層際立つ。  ところで、こうしたさりげない詠み方は実はなかなか難しい。俳句に慣れ親しむにつれ、ついつい強い印象を与える文字や言葉をこねくり回したくなる。それを抑えて、「見たまま」に戻ることが大切であることを教えてくれている。 (水 20.07.13.)

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毛虫焼く来ては駄目よと祖母の言ひ 向井ゆり

毛虫焼く来ては駄目よと祖母の言ひ 向井ゆり 『この一句』  生き物を殺めることは、蚊やゴキブリの害虫であっても、なにがしかの心の痛みを覚えるものだ。まして生きて動いている毛虫に炎を向け、焼き殺すことは、罪を犯すような疚しさを感じざるを得ない。「果樹を守るためにやむを得ない」などと心中で言い訳をして、信長の叡山焼き討ちがごとき己の所業を正当化することになる。  句会で点を集めたのは「前世とか来世の話毛虫焼く」(水馬)、「輪廻して毛虫だったらまあいいか」(可升)など、人と毛虫の宿世に思いを巡らせた句だ。ともに俳諧味溢れる佳句だが、評者は優しい祖母を登場させた掲句に、より心惹かれた。  毒のある毛虫に近づけないため、孫に呼びかけていると読むこともできるが、ここは祖母が「この木に来ては駄目でしょう」と毛虫に語りかけていると解したい。来ては駄目と言いながら、毛虫を焼き落とす矛盾した行動。そこに自然と生き物を傷つけ、殺して生をつないでいる人間の宿業がある。毎年の作業ながら、優しさを失わず毛虫に呼びかける。万感の思いのこもった「来ては駄目」ではなかろうか。 (迷 20.07.12.)

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黒南風や磯の祠に一升瓶     嵐田 双歩

黒南風や磯の祠に一升瓶     嵐田 双歩 『この一句』  黒南風(くろはえ)は梅雨の時期に吹く南風のこと。太平洋沿岸の漁師はこの頃、厚く広がる梅雨雲を睨み、一人一人が大漁を祈っているのだろう。カツオやブリ、イサキ、アジ、さらに巨大なマグロやカジキの類・・・。彼らの獲物が黒潮に乗って南から次々にやってくる。黒南風の頃はまさに稼ぎの季節なのだ。  問題は潮の流れと天候である。絶好の条件に出会えれば、それこそ一攫千金。すべては海の神様、空の神様頼みである。そこで漁師たちは大漁と安全を祈って地域の神社や海辺の祠(ほこら)などに祈りとともに酒を捧げる。私はかつて伊豆の島の祠を覗き、この句とぴったり重なるほどの光景に出会っていた。  漁師らは「一合瓶なんざ酒のうちに入らない」とばかりに、どんと一升瓶を置き「頼むぜ、神様」と分厚い両の掌を合せるのだ。この句を見た途端、何十年も前に見た祠の様子がありありと甦って来た。置かれていたのは確かに一升瓶なのだが、日本酒ではない。島特産、焼酎の一升瓶が数本。黒南風の時期に何ともよく似合う、薄暗がりの情景であった。 (恂 20.07.10.)

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盃置けばはや短夜の白み初め   大澤 水牛

盃置けばはや短夜の白み初め   大澤 水牛 『この一句』  何とも羨ましい、溜め息が出そうな一句である。明け方までミステリー小説を読み耽っていたのか、句評などの書き物をしていたのか、詳しくは問うまい。盃を置き、ふと気付いて外を見れば、空は白み始めていた、というのだ。鳥の声が聞こえたかもしれない。「あぁ、もう朝か」とゆっくり周りを見渡す男の姿が浮かんでくる。  羨ましく感じる第一の理由は、体力である。かつて昭和の末期、バブル経済の時代に夜を徹して遊んでいた覚えはある。しかし、あれから30年。そのようなエネルギーは失せた。第二の理由は、根気である。何事にせよ、一心不乱に夜を徹してという気力はなくなった。小生の場合、陶芸を趣味とするが、目が霞むのはともかく、集中力が途切れてしまう。  新型コロナウイルスの登場で、暮らし方が大きく変わった。外出自粛、「三密」回避によって、居酒屋に立ち寄ることもほとんどなくなった。その結果、家飲みとなり、ついつい酒量は増えがちなのだと聞く。だからと言って、「休肝日を」とは言わない。それは24時間365日、真面目に働いている心臓に対して失礼だから。 (光 20.07.09.)

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