部屋干しの下でうたた寝半夏雨  嵐田 双歩

部屋干しの下でうたた寝半夏雨  嵐田 双歩 『合評会から』(酔吟会) 而云 独り者の頃、こういうこともあった。 睦子 自分のことを見られたような気がしてしまいますが、とても面白い。 水兎 雨やコロナで外にも出られず、家の中は洗濯物がぶらぶら。ユーモラスな場面が秀逸です。           *       *       *  半夏生、今年は七月一日で関東地方は大雨だった。半夏雨が降ると、その年は雨が多く、台風シーズンも大荒れとの言い伝えがある。ともかく梅雨の最中だから降るのは当たり前、部屋干しもやむを得ない。あれこれ工夫して部屋中に吊り下げ終えたら、疲れがどっと出て思わず昼寝という図であろう。しかし頭の上に洗濯物がぶら下がって、なんとも鬱陶しい。その感じがよく出ている。  それはそうと、作者は職を退いて以降、家の洗濯担当を引き受けたのだという。だからお天気には一層関心を抱くようになったとか。「風があって乾燥した日は気分も最高。だけど今年は部屋干しが多くなって・・」とぼやいている。  それにしても洗濯係を引き受けたとはエライもんだなあ。うちのカミサンにはこのブログ見せられないなあ。 (水 20.07.31.)

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切通し念仏僧追ふ夏の蝶    藤野 十三妹

切通し念仏僧追ふ夏の蝶    藤野 十三妹 『季のことば』  「切通し」というから鎌倉七口のどこかである。鎌倉切通は山を切り開いた道だが、今は近代的な道路となっているものもいくつかあって、この句に相応しいのは当然両面から岩の壁が迫る往古の切通だろう。五山をはじめ僧侶の姿が鎌倉に多いのは自明だ。僧が昼なお薄暗い切通を念仏を唱えながら歩いている。五山はすべて臨済宗で念仏を唱えないから、他宗の僧であろうか。僧衣にしみついたかすかな抹香の匂いに引かれてか、蝶が一つついて来る。後になり先になり、いずれにしても絵になる光景である。  蝶は春から秋まで、時には冬にも見られるが単に「蝶」と言えば春の季語になる。  作者は「夏の蝶」を詠んだ。春は紋白蝶に代表されるように嫋やかで可憐な姿。いっぽう夏蝶は揚羽や黒揚羽のように大振りで派手。この句は墨染めの衣に黒揚羽がまといつきながら、ほの暗い切通を行く俳味ある景を切り取ったのだと思う。作者はふだん迫力のある強い言葉を好んで使う人だがこれはまことに大人しい。いい意味で最近は人変わりしたのではと感じるのである。 (葉 20.07.30.)

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自粛明けマスクの剣士夏稽古   荻野 雅史

自粛明けマスクの剣士夏稽古   荻野 雅史 『この一句』  コロナ緊急事態宣言が解除となり、稽古自粛が続いていた道場が再開された。待ちかねていた剣士たちが集まったが、感染防止のためマスクを付けての稽古となる。防具を付け、さらにマスク着用の夏稽古だが、掲句からは意外に暑苦しさを感じない。  句会でも「ようやく自粛明けとなり、颯爽と少年剣士が練習に向かう姿がわかる(二堂)」、「マスクをかけての稽古、異常な環境下で稽古に励む爽やかで颯爽とした姿が浮かぶ(操)」と、爽やかな剣士像をイメージした人が多く、高点を得た。  五七五の言葉がそれぞれに爽やかさにつながっている。「自粛明け」には数カ月に及ぶ我慢から解放された喜びがにじむ。「マスクの剣士」は白覆面の時代劇の主人公を連想させる。そして「夏稽古」からは明るい光の中、稽古に取り組むひたむきな姿が見える。  作者は「剣道の稽古が4か月ぶりに再開され、汗を流した喜びと清清しさを詠んだ」というが、事実を並べた素直な表現から、その気持ちがストレートに伝わる。ちなみに使ったマスクは剣道連盟推奨の、顎を締め付けない覆面タイプという。色は紺色で「竹刀を振る剣士たちは夜盗集団のようだった」という落ちが付いた。 (迷 20.07.29.)

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涸れミミズ昨日と同じフェンス脇  斉藤早苗

涸れミミズ昨日と同じフェンス脇  斉藤早苗 『季のことば』  蚯蚓(ミミズ)は夏場活動的になり、よく人目につくようになるので夏の季語になったようだ。大雨が降り続いた後、急な日照りに見舞われると、路上に沢山のミミズが干からびていることがある。時にはほんの十数メートルに百匹以上転がっていることもある。  20年ほど前、朝夕の犬の散歩でこの「ミミズの集団自殺」によく出遭い、「干からびて蚯蚓疑問符描きをり」と詠んだことを思い出した。とにかく丸まったり長く伸びたり疑問符の形をしたりして干からびているのだ。  普段は土中に棲み、土を呑み込んで中の栄養分を吸収して大きくなり、子孫を増やす暮らしをしているから、蚯蚓は元来は湿気を好む。しかし、肺も鰓も無い皮膚呼吸だから、長雨で水浸しになると窒息してしまう。苦しくなって地上に這い出す。少し乾いた土中に潜り込めればいいが、そこに行くまでに体力が尽き、お日様に当たり過ぎたヤツはあえなく干物になってしまう。というのが「涸れミミズ」出現の経緯だ。  路上の涸れミミズは一顧だにされない。次の雨で流されるか、風化して粉になって飛散するまで、疑問符を描いて横たわっている。この句は「昨日と同じフェンス脇」と、無技巧の技巧と言おうか、見たままを詠んでとても面白い。 (水 20.07.28.)

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この頃は客人もなし蛍草     高井 百子

この頃は客人もなし蛍草     高井 百子 『季のことば』  蛍草(ほたるぐさ)は、道端や庭の隅で青い可憐な花をつける露草(つゆくさ)の別名である。露草は古名を「つきくさ」といい、朝咲いた花が昼には凋み、朝露のように儚いことから露草と呼ばれるようになったとされる。その可憐さ、儚さを愛で、古くから和歌や俳句に詠まれてきた。開花期は6月から9月で7月が盛期だが、秋の季語となっている。  掲句の作者は螢草の咲く庭を眺めながら、誰も訪ねて来ない「この頃」に思いを巡らせている。素直に読めば、コロナ禍による外出自粛で、客がほとんど来なくなった「新常態」を嘆いている句であろう。さらに深読みをして、リタイア後に来客が減った老年の境遇を「この頃」に重ね合わせているのではないかと考えた。  名乗り出た作者によると、コロナの「この頃」を詠んだものという。作者が5年前に移り住んだ上田市の自宅は、独鈷山の借景と広い庭があり、ゆったりとした間取りの一軒家だ。家族はもちろん、友人、知人の訪れは頻繁で、句会の吟行でお世話になったこともある。千客万来の賑わいが急に失われた淋しさが「この頃は客人もなし」の上五中七に滲む。季語の蛍草のひっそりとした佇まいが響き合い、しみじみとした感懐を覚える佳句である。 (迷 20.07.27.)

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酒蔵の深井戸浚ふ上総かな    徳永 木葉

酒蔵の深井戸浚ふ上総かな    徳永 木葉 『この一句』  句会の兼題に「晒(さらし)井(い)」(井戸替(かえ)、井戸浚(さらえ))が出てきた時、「古いね」と呟いた。井戸の底にたまった木の葉やゴミなどを浚い、水をきれいにすることである。東京区内でも第二次大戦の前後の頃は、ほとんどの家庭が井戸を頼りの生活だったから、馴染のある作業だった。しかしいま、その実態を知る人がどれだけいるのだろうか。  私の幼い頃、大雨などで生活水が濁れば“井戸屋さん”に来てもらい、水をきれいにしていた。しかし近所の地主とか資産家の井戸替となると、一般家庭とは比較にならぬスケールである。井戸屋のほか、元気のいい人たちが集まり、男の意気の見せどころとなる。近所の子供たちは飴玉などを貰い、お祭りに行った時のように喜々としていた。  しかしいま、日本の水道普及率は98%以上。井戸替などあるとは思えないのだが・・・。掲句を見て「なるほど」と納得した。「酒蔵」であり「上総の深井戸」なのだ。いかにも晒井の雰囲気である。とは言え夏井いつきさんの著書名を借りれば「晒井」の「絶滅寸前」状態は変わらない。出題者は失われゆく季語を惜しんだのだ、と私は思っている。 (恂 20.07.26.)

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夏空に火球の光宇宙知る    髙橋ヲブラダ

夏空に火球の光宇宙知る    髙橋ヲブラダ 『合評会から』(日経俳句会) 博明 「宇宙知る」がいいですね。普段何気なく見ている空ですが、妙な物体を見ると、突如として宇宙のことを考えてしまいます。 木葉 宇宙の神秘ははかりしれないが、「宇宙知る」の「知る」は余計な感じがする。「宇宙かな」で十分と思いましたが。 水馬 隕石だったようですね。「宇宙知る」が大げさで唐突で好きな句です。 睦子 ニュースでは習志野で隕石の破片を発見とありましたね。 ゆり 落ちて来た石が宇宙由来だったとのニュース。理系女(リケジョ)の娘から解説されました。           *       *       *  作者はよほど宇宙の神秘に取り憑かれているようで、暇さえあれば空を見上げているらしい。「実は火球を目撃したことがあります」と言う。1996年1月7日16時21分、根津を散歩していた時だそうだ。火球(隕石が分解した瞬間)が見えて間もなく大きな音が鳴り、何かなと思い、空に残った煙(隕石雲という珍しい現象)を追い掛けたというのだから凄い。  火球だ隕石だと聞くと、たちまち24年前の興奮が呼び覚まされ、こうして一句生まれる。私もこれからせいぜい空を見上げることにしよう。 (水 20.07.24.)

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テレワーク終へてTシャツ半ズボン 前島幻水

テレワーク終へてTシャツ半ズボン 前島幻水 『季のことば』  「半ズボン」を採っていない歳時記もあるが、まぎれもなく夏の季語。戦後しばらくは半ズボンの大人が少なくなかった記憶がある。いま半ズボン姿といえば、私立小学校の児童を思い浮かべる。強いて大人の半ズボン姿を探せば、リゾート地のゴルフ場にちらほら見られるほどか。ズボンを短くするのは、冷房施設のなかった戦後に欠かせない省夏方法だったのだ。現代ではバミューダショーツのような短いズボン(古い世代のせいかパンツと呼べない)が若者の定番になっているようだ。  コロナ禍により出勤せず、自宅でオンラインの仕事をする昨今である。テレワークと称しZOOMほか様々なIT技術を使い、時には対面での仕事となる。対手が上司ならTシャツでというわけにはいかない。雲の上の上役ともなればスーツにワイシャツが求められもしよう。緊張の対面が終わってやれやれと、Tシャツ半ズボンに着替える情景を愉快に詠んだ、極めて今日的な俳句だ。  余談ながらスーツの下はパジャマのズボンと〝告白〟した人もいる。季語「半ズボン」の復権は、温暖化の激化とコロナ禍生活がいつまで続くかにかかっている。 (葉 20.07.23.)

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エコバッグ土用の丑を持ち帰る  杉山 三薬

エコバッグ土用の丑を持ち帰る  杉山 三薬 『季のことば』  季語は「土用」で、「元来は春夏秋冬それぞれの終わりの18日間を言うが、今日ではもっぱら夏の土用だけが話題にされている」(水牛歳時記)。立秋前の新暦7月19日ごろからで、一年で最も暑い時期にあたる。土用の丑の日に鰻を食べる風習があるが、江戸時代の天才学者・平賀源内が広めたという説が伝わる。夏の売り上げ減に悩む鰻屋に頼まれ、「本日丑の日」の看板を掲げさせ、鰻を食べると元気になると説くと飛ぶように売れたというもので、土用鰻という季語もある。  例年なら丑の日前後は鰻屋に行列ができるが、掲句はコロナ禍で様相が違う店先を詠む。老舗も客足が減り、テイクアウトを始めた店も多い。作者も店内を避け、持ち帰りを選んでいる。しかも7月からのレジ袋有料化に対応し、エコバッグの用意も怠りない。今の世相を二重に詠み込んだ巧みな時事句といえる。  今年の丑の日は暦の巡り合わせで、7月21日と8月2日の2回ある。鰻屋はもちろんスーパーも、冷え込んだ消費を喚起しようと宣伝に努めている。稚魚のシラス漁獲がやや回復し、値段も昨年より安くなっているという。読者の皆さんは、どんな土用の丑を食されるのであろうか? (迷 20.07.22.)

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海も山も駄目か今年の夏休み   井上庄一郎

海も山も駄目か今年の夏休み   井上庄一郎 『この一句』  「今年の夏は、海も山も駄目か」と嘆いている作者は、卒寿を越えてますます元気に作句を続けている。大好きな山歩きは控えていると聞くが、矍鑠として句会にも出席し、「自分のことを言われたみたい」などと軽妙な句評を述べたりもしている。掲句はそんな作者がふっと口をついて出た呟きを、そのまま句にしたような作品だ。  日常の呟きがそのまま俳句になったといえば、正岡子規の「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」が有名だ。前書に「母上の詞自ら句になりて」とあり、子規の母、八重さんが「彼岸の入りに寒いのは毎年のことよ」とでも言ったのかもしれない。無技巧の技巧とでもいうのだろうか。ふと口から出た台詞がたまたま575に収まった句は、変にこねくり回さない分、読者に素直に届く。  コロナ禍での本格的な夏を迎え、句会では掲句も含め「祭りなき夏の暦の白さかな(博明)」や「夏休み空白のまま近づきて(ゆり)」などの投句があった。初めて経験する異常事態に価値観や生活が一変する中で、令和2年の短い夏休みが始まる。 (双 20.07.21.)

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