通り雨去ってまぶしき若葉かな  久保田 操

通り雨去ってまぶしき若葉かな  久保田 操 『この一句』  ときおり思うのだが、若葉は桜と紅葉に挟まれて少し不遇なのではないか。桜には華やかさがある。花と言えば桜、咲くのも散るのも愛でられる。紅葉の色づきは秋の深まりを感じさせ、しっとりとした情緒がある。そこへいくと若葉は、夏の盛りに向けて、樹木が放つ「いきれ」のようなものをぷんぷん匂わせ、情緒の面では少し損をしているかもしれない。しかし、景観の美だけを問うならば、若葉は桜にも、紅葉にも決して引けをとらないと思う。たとえば、東福寺の通天橋は筆者の好きな場所だが、若葉の季節にあの廊下に佇むと、一面の見事な緑の美しさに息を呑み、ついつい見惚れてしまう。  掲句は、ただでさえ美しい若葉に通り雨を降らせ、雨後のきらきらと光る眩しい情景を詠んだ句である。句そのものはいたってわかりやすく、この句の解釈に紛う人は誰もいないだろう。しかも、語順も語感も完成度が高く、口にしてみて心地よい句に仕上がっている。しかし句会では、こういう句はえてして見落とされがちである。人の気を引く措辞や、ひとひねりしたような措辞がないからである。双歩さんが「俳句は平明でなければならない」という俳人の言葉を引いてこの句を褒められた。まったく同感。美しい句である。 (可 20.06.01.)

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