メールにも飽きて初夏を長電話  藤野 十三妹

メールにも飽きて初夏を長電話  藤野 十三妹 『この一句』  作者は、外出自粛中で自宅に居る。友人とはメールであれこれやり取りをして過ごしているものの、どうにもまどろっこしい。電話の方が手っ取り早い、とばかりに早速、友達の携帯にかけたのだろう。おしゃべりは始まってしまえば止まらないのは、世の常。初夏の気候は暑からず寒からずで長話には最適だ。話がループし始めても当人たちは無頓着で、とことんしゃべり尽くして、ああスッキリ。自粛生活のストレスを少しは解消できたのではないだろうか。  ステイホームが長くなり、「誰かと会って話がしたい」、「他愛ないおしゃべりのありがたさを知った」などの声を聞く。今や世界中の人が概ね自宅に蟄居している。直接会うことが難しいので、オンラインでの会合も流行っているようだ。試しに筆者もオンライン飲み会に参加してみたが、分割された画面に写る仲間が元気そうだという情報が、コマ落としのような映像と、頼りない音声越しに確認できた。コロナでもなければあり得ない事態だ。双牛舎傘下の句会も、このところメール句会が続く。メールや電話による隔靴掻痒感は早く終わりにして欲しい、と切に思う。 (双 20.06.07.)

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夜勤明けナース二年目初夏の風  旙山 芳之

夜勤明けナース二年目初夏の風  旙山 芳之 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 初夏の風に疲れを癒している若き看護師さんの姿が眩しく輝く。 冷峰 コロナウイルスで医師や看護師の命がけの仕事に敬意を表します。 木葉 本当に頭が下がります。中七まで一気に読むのがちょっと苦しいが。 昌魚 二年目のナースと初夏の響き合いがいいですね。 定利 二年目が旨い。 庄一郎 仕事にもなれて、ほっとして家路につくナースの姿が目に泛びます。 而云 初夏の風を浴びる姿に「頑張れ」と声を掛けたくなる。 百子 仕事をやり切ったという感じなのですね。夜勤明け。夢中で仕事に取り組む二年目の看護師さん。お疲れ様。 雀九 朝、日勤ナースに申し送りを済ませ、院外に出た時の初夏の風はまことにふさわしい。           *       *       *  作者の二番目のお嬢さんを詠んだものだという。勤務先のそばに一人暮らしで、今は忙しくて滅多に実家に帰って来ない。それで「元気な姿を時々夢に見ます。親バカです」と言うが、親バカの甘ったるさなど全く無い、爽やかで気持の良い句。句会では圧倒的多数の支持を得て最高点を獲得した。 (水 20.06.05.)

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振り向けばだあれも居ない初夏の街 横井定利

振り向けばだあれも居ない初夏の街 横井定利 『この一句』  非常事態宣言の出た街を、コロナ俳句として詠んだのは一目瞭然である。いまや新聞の俳壇も歌壇も、もちろん詩歌専門誌もコロナ禍の吟詠が真っ盛り。自粛生活の中、仕事でやむなく外に出ざるを得ない人々のほかは、自宅に籠もるのが多数派といった状況だ。ただ、自粛が倒産の崖っぷちとなる居酒屋、飲食店などは、万全のウイルス対策を講じたうえ店を開けるのを非難できないと筆者は考える。“自粛警察”とかいう嫌な風潮は排したい。  それはさておき、この句である。コロナ関連の難しいカタカナ用語や、自粛、巣ごもり、蟄居などの語も使わずに社会の不気味さを表した。俳句では上五に「なになにすれば」と条件を付けるのはよろしくないと教えられてきた。が、この「振り向けば」は句の構成から必要条件だと思う。作者は通院だろうか、夏が来た街中を歩いており後ろの静かさに、ふと振り返ってみたが当然誰もいない。近未来映画のような雰囲気が句の全体をおおっている。ことに効果を出しているのが「だあれも」と「あ」を加えたところだ。不気味さをすこしだけ減殺しているようにみえる。 (葉 20.06.04.)

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空豆の夏場所消えてしまひけり  大澤 水牛

空豆の夏場所消えてしまひけり  大澤 水牛 『この一句』  伝統を守る大相撲の世界は食材の仕入れでも、明治、大正の流通を受け継いでいるという。例えば両国国技館の名物、焼鳥である。千葉など近県の特定の農家から運ばれてきた大量の鶏肉は、館内の調理場でさばき、焼き上げ、桝席に運ばれてくる。そして夏場所(五月場所)とくれば、何を差し置いても空豆を挙げねばならない。  季節感たっぷり、味も絶品の空豆である。ある大相撲ファンは「夏場所の桟敷席で空豆を肴に一杯」を生涯の目標に掲げているほどなのだ。掲句はその夏場所を「空豆の~」と表現した。句を見たとたん、筆者は「上手く詠むもんだねぇ」と感嘆したが、句の後半によって現実に引き戻された。夏場所は消えてしまったのである。  中止の理由は説明するまでもない。さらに七月の名古屋場所も中止し、名古屋場所は東京・国技館に変更の予定だが、相撲協会は「無観客を目指す」という。一方、力士たちは体と体が触れ合うどころか、ぶつかり合い、もみ合いながら鍛え込まねばならない。彼らは復活を目指し、どのような道をたどって行くのだろうか。句の下五「しまひけり」には、これからの大相撲への思いが漂っている。 (恂 20.06.03.)

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川の香を運ぶ大鮎宅配便     池内 的中

川の香を運ぶ大鮎宅配便     池内 的中 『この一句』  番町喜楽会の5月例会に出された句である。「川の香を運ぶ」の措辞に惹かれて点を入れた。鮎は春先に川を遡上、苔を食べて成長し夏に旬を迎える年魚。スイカやキュウリのような独特の香りがあり、香魚とも呼ばれる。食べた餌の種類によって香りに違いが出るとされ、育った川の環境(香り)を身に蔵しているといえる。  掲句は産地から取り寄せた鮎を詠んだのであろう。コロナ籠りの自宅に広がる天然の香り。鮎の育った清流が想起され、滅入りがちな気分も吹き飛ぶようだ。  ここまで書いて、ふと鮎釣りの解禁は6月1日ではないかと思い至った。しかも初夏の鮎は小ぶりで、大鮎の表現も気になる。  調べてみると、近年流通している鮎の7割は養殖物で、5月初めから20センチ級のサイズが出荷されている。養殖物は香りがしないのが普通だが、餌の工夫や湧水の利用など養殖技術が進み、産地によっては天然物と変わらない香りがあり、味も劣らないという。鮎の旬には少し早いが、養殖魚と宅配便を活用し、籠り家に初夏を呼び込んだ作者に拍手したい。 (迷 20.06.02.)

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通り雨去ってまぶしき若葉かな  久保田 操

通り雨去ってまぶしき若葉かな  久保田 操 『この一句』  ときおり思うのだが、若葉は桜と紅葉に挟まれて少し不遇なのではないか。桜には華やかさがある。花と言えば桜、咲くのも散るのも愛でられる。紅葉の色づきは秋の深まりを感じさせ、しっとりとした情緒がある。そこへいくと若葉は、夏の盛りに向けて、樹木が放つ「いきれ」のようなものをぷんぷん匂わせ、情緒の面では少し損をしているかもしれない。しかし、景観の美だけを問うならば、若葉は桜にも、紅葉にも決して引けをとらないと思う。たとえば、東福寺の通天橋は筆者の好きな場所だが、若葉の季節にあの廊下に佇むと、一面の見事な緑の美しさに息を呑み、ついつい見惚れてしまう。  掲句は、ただでさえ美しい若葉に通り雨を降らせ、雨後のきらきらと光る眩しい情景を詠んだ句である。句そのものはいたってわかりやすく、この句の解釈に紛う人は誰もいないだろう。しかも、語順も語感も完成度が高く、口にしてみて心地よい句に仕上がっている。しかし句会では、こういう句はえてして見落とされがちである。人の気を引く措辞や、ひとひねりしたような措辞がないからである。双歩さんが「俳句は平明でなければならない」という俳人の言葉を引いてこの句を褒められた。まったく同感。美しい句である。 (可 20.06.01.)

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