癌という朧なものと共に生き   須藤 光迷

癌という朧なものと共に生き   須藤 光迷 『この一句』  「癌という朧なもの」の措辞に引き付けられた。文筆・評論家の江国滋さんが遺した「癌め」(富士見書房)を書棚から抜いた。食道癌で入院半年、転移と闘い力尽きた「癌闘病俳句」の545句から「朧の癌」を感じようと思った。手術四回の闘病生活は、未知なる病変、不安と恐怖、怒り、苦痛の凄さであり、朧なるものの正体だ。「敗北宣言」の前書き付きで「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」が辞世の句だった。  この句の作者と病気を話題にした事は無い。ただ日常会話の端々で、免疫力を高めて病気と闘う意気込みを感ずることがあった。淡々とした語り口が記憶にある。  正岡子規は晩年の著作で「禅の悟り」を記している。 「悟りとは如何なる場合も平気で死ぬる事、と思っていたが、それは間違いで、如何なる場合にも平気で生きる事であった」「どんな人生でも平然と静かに生きることこそ、悟りであろうということに気づいた」 脊椎カリエスに倒れた子規の晩年を支えたのは、生きるという強固な意志だった。この句の「共に生き」という決意表明につながる。 (て 20.05.19.)

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蘇る昭和の苦楽草の餅      前島 幻水

蘇る昭和の苦楽草の餅      前島 幻水 『この一句』  大東亜戦争と呼ばれた第二次大戦下の息苦しさ、敗戦後のひもじさを経験した人間には「ほんとにそうですねえ」と共感を抱かせる句である。  草餅はウルチ米を粉にした上新粉を蒸し、茹で上げた蓬の葉を搗き込んで再度蒸して作る。米が配給時代の戦中戦後の都会の家庭では滅多に作れるものではなかった。運良く闇米が手に入って、お母さんが草餅を作ってくれるということになると、家中競ってヨモギの若葉を摘み、唾を何度も飲み込みながら出来上がりを待ちかねたものだった。  私の誕生日は6月1日で、その日のためにと、昭和20年の5月、母がどこからか米と小豆と砂糖を手に入れ、「お誕生日には久しぶりに牡丹餅を作ってあげますよ」と言った。指折り数えて「あと三日」の5月29日に横浜大空襲。我が家は丸焼け。幻の牡丹餅がその後長い間夢に出て来た。  空襲や疎開、空腹、栄養失調等々の苦しみの中で思い描いたのが季節の食べ物。その形、色、香り、味を思い出しては「食べた気」になったものだ。何かのはずみで砂糖の配給があった時などの一家中の喜びは大変なものだった。そうした思い出が一度に湧き上がって来る句である。 (水 20.05.18.)

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糊こはき浴衣六方踏むやうに   大澤 水牛

糊こはき浴衣六方踏むやうに   大澤 水牛 『この一句』  まず「糊こはき」で始まる上五に感心した。「浴衣」という兼題が出された時、筆者もあのバリバリした感じを詠みたいと思ったが、うまい言葉が見つからずに断念した。この句を読んで、なるほど「糊こはき」と言えば良いのかと納得した。こういう言葉はなかなかおいそれとは出てこない。  つぎは「六方踏む」の措辞。六方にもいくつか種類があるようだが、我々がすぐに思い浮かべるのは、歌舞伎の「勧進帳」で弁慶が花道を去る時の「飛び六方」である。あまりにも糊がきつく効いているので、まるで六方を踏むようにしか身動きがとれないということだろう。大袈裟な表現ではあるが、おかげでとてもユーモラスな句になった。宿の浴衣を詠んだととる人もいたが、筆者はこれは、あの洗濯糊なるもので仕上げた浴衣、すなわち昔懐かしい家庭の光景だろうと思った。プロの業者が洗濯する宿の浴衣は、六方を踏むにはソフトで上品すぎる気がする。   旧仮名を使っているのも、この句の魅力のひとつだと思う。この句を新仮名づかいで表記すると「糊こわき浴衣六方踏むように」となる。「こわき」と「こはき」ではずいぶん印象が違う気がするのは、筆者だけだろうか? (可 20.05.17.)

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志村けん朧月夜の再放送     堤 てる夫

志村けん朧月夜の再放送     堤 てる夫 『この一句』  何と理不尽、不条理な、と感じた人も多かったのではないか。志村けんさん死去の報に接したときに、である。「よりによってコロナウイルスに感染して」とは…。新聞や雑誌にはドリフターズ時代からの活躍をたどった追悼記事が掲載され、テレビでは「東村山音頭」や「変なおじさん」などで構成する追悼番組が放送された。 それにしても、である。コロナウイルスが跋扈し「感染拡大防止に不要不急の外出は自粛を」と要請されるほど、社会は静かに、というより暗くなる。そんな雰囲気を吹き飛ばしてくれるもの、強く求められるものは、笑いに他ならない。その笑い、コントやギャグを生むことに長けた類稀なコメディアンが疫病に拉致されてしまった。 朧月夜の日の再放送を見、作者は「ヒゲダンス」などの絶妙な芸に笑うとともに「志村けんさんが可哀想だ」という想いに囚われたのではないか。「志村けんのだいじょうぶだぁ」が再編集され「ユーチューブ」で公開、収益は日本赤十字に寄付されるというのは吉報。世の中を明るく、笑いの渦に…という、志村けんさんの遺志なのだろう。 (光 20.05.15.)

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夕厨浅蜊汐吹く気配あり     中村 迷哲

夕厨浅蜊汐吹く気配あり     中村 迷哲 『この一句』  六、七十年ほど前の記憶が蘇って来る。敗戦後ほどなくの頃。今では「新都心」などと呼ばれ、ビル群の林立する千葉・幕張あたりの海岸は、潮干狩りに絶好の砂浜だった。父母や先生など保護者に連れられて潮干狩りに行くと、バケツに溢れるほどの浅蜊や蛤が取れたものだ。  家に持ち帰って洗面器に開け、塩水を入れて、台所に置き、じっと待つ。一時間ほどだろうか。洗面器の中で落ち着いた貝たちが動き出し、微かな音がする。続いてピュピュと汐を吹く(水を吹く)音が聞こえてくるのだ。「おっ、吹き出したぞ」と四つん這いでそっと近づくと、洗面器の外まで汐を吹き出す元気な奴もいる。  いま、スーパーや魚屋で売っている貝類は砂を完全に吐かせてあるので、そのまま味噌汁などに使える。一方、あの頃は、汐をよく吐かせないと「砂を噛む思い」にさせられる。句の「厨」の字が、あの頃の台所を思い出させてくれた。板張りの薄暗い台所は今思うと意外に広く、ガス台の釜が吹き出すと、木製の厚い蓋が、何度も持ち上げられていた。今のキッチンは、明るく、しかし狭く、床に洗面器を置くような余地はないだろう。 (恂 20.05.14.)

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入学の子の声上がる兎小屋    星川 水兎

入学の子の声上がる兎小屋    星川 水兎 『合評会から』(日経俳句会) 博明 かわいらしいですね。 雀九 式がすんで、引率されている情景がうれしい。 てる夫 小動物の飼育を通じて生き物の命を大切にする教育の一環でしょう。小学校の初日のヒトこま、兎の世話の始まり、物珍しさに溢れています。 迷哲 入学式の後、校内を探検していた子供たちの驚きが見えるようです。           *       *       *  作者の種明かしによると「私の小学校には孔雀がいて、夕方になるとギェーと鳴いて怖かったのですが、それでは句にならないので兎に変えました」。確かに昔の小中学校は小動物を飼うのが普通で、クラスごとに当番が決められ、草刈りしたり、小屋の掃除をした。兎や鶏をはじめ、山羊まで飼っている学校もあった。動物の世話を嫌がる子もそのうちに熱心になり、絶好の情操教育となっていた。近ごろの都会の小中学校ではとても無理だろう。  もし未だに続けている学校があったとして、このコロナ禍による休校ではその世話はどうなっているのか。動物も寂しがっているだろうし、子供たちはもっと心配しているだろう。 (水 20.05.13.)

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「みんなの俳句」来訪者が13万人を超えました

「みんなの俳句」来訪者が13万人を超えました  「俳句振興」を事業目的とするNPO法人双牛舎が2008年(平成20年)1月1日に発信開始したブログ「みんなの俳句」への累計来訪者が、5月11日に13万人を超えました。ご愛読下さる皆様に支えられて満12年たち、大きく育ちました。篤く御礼申し上げます。これといった宣伝もせず、双牛舎に参加する日経俳句会、番町喜楽会、三四郎句会の会員の作品を中心に日替わりに一句ずつ取り上げ、「みんなの俳句委員会」の幹事8人がコメントを付して掲載する地味なブログです。発足当初は一日の来訪者が10数人から20人、数年たってようやく30人台になり、昨年あたりまでは50人になれば幹事一同大喜びといった塩梅でした。それが昨年末から急に人気が出始め、今年に入ってからは1日100人近い来訪者があります。双牛舎傘下三句会の会員以外の方々が大勢読んで下さるようになったものと思われます。  幹事一同、これからも一生懸命「俳句の楽しさ」を唱え続けて参ります。今後もご愛読のほどよろしくお願いいたします。               2020年(令和2年)5月12日  「みんなの俳句」幹事一同

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草餅を蒸す花柄の三角巾     高井 百子

草餅を蒸す花柄の三角巾     高井 百子 『季のことば』  草餅は蓬(よもぎ)を搗き込んだ餅。春たけなわの頃、野原や川岸で蓬の若葉を摘んできて湯がき、餅に混ぜ込む。鮮やかな緑色と若草の香り、苦みが五感を刺激し、春を噛みしめる思いがする。中にあんこを入れたり、黄な粉をまぶして食べる。日本人にとって馴染み深い食べ物であり、仲春の季語となっている。  草餅を作る時は、材料となるもち米か上新粉を蒸す必要がある。掲句はそこに花柄の三角巾を登場させる。蒸し器の底や蓋の内側に布巾代わりに置いたものと見ることもできるが、ここは作業をしている女性の頭を飾っていると考えたい。花柄の三角巾とくれば、お婆さんより若い女性が似合いそうだ。 蓬は生命力が強く、日本中どこにでも自生している。草餅のレシピもネット検索で沢山出てくる。郊外に出かけた家族がきれいな蓬を見つけて摘んで帰り、若いママが張り切って蓬餅づくりに取り組んでいる場面が浮かんでくる。山口青邨に「草餅の濃きも淡きも母つくる」の句がある。三角巾のママが作った草餅も、その味と共に母の記憶として子供たちの心に刻まれるに違いない。 (迷 20.05.12.)

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身の程の桜を選ぶ花見かな    塩田 命水

身の程の桜を選ぶ花見かな    塩田 命水 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 これも時事句ですね。上五、中七の表現の巧みさに脱帽いたしました。コロナ蟄居の副産物でしょうか。 綾子 共感します。全国に有名な桜はありますが、近所の名もない桜で花見ができれば十分です。 満智 「身の程の桜」という表現に引き付けられました。一茶の「めでたさや中位なり…」に通じるものを感じます。           *       *       *  私も「身の程の桜を選ぶ」という言い方に感じ入った。一山を支配するような豪華絢爛なソメイヨシノの大樹は、どうも圧倒されてしまう感じがする。山桜の老樹は古武士の風格で気圧されてしまう。ピンクがかった河津や彼岸はけばけばしく趣味に合わない。花の名所でなくてもいい、梢の高さが三メートルほどで、それなりの枝振りに僅かに紅をさした白っぽい花を咲かせた桜にいたく心惹かれた、というところだろうか。作者の心ばえもしのばれる。 (水 20.05.11.)

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朧月好きな映画をまた観てる   杉山 三薬

朧月好きな映画をまた観てる   杉山 三薬 『この一句』  『オズの魔法使い』、『男はつらいよフーテンの寅』、『JFK』、『時をかける少女』——四月のとある土曜日、地上波やBSで放送された映画だ。いずれも名画ばかり。それぞれのタイトルに誰しもが思い出があるのではないか。  例えば『オズの魔法使い』。筆者は幼い頃、親に連れられて(多分リバイバル上映を)観に行ったものの、ブリキのおじさん(失礼)が怖くて泣き出し、一緒に居た兄弟を困らせた記憶がある。そのくせ、ジュディ・ガーランドという名前は今だにすぐに出てくるのが不思議だが。自分が観た印象深い映画には、タイトルを聞いただけで一瞬にして当時の世界に浸れる魔力がある。  作者もまた似たような気持ちなのだろう。このところの“ステイホーム”要請で、無聊をかこっている身には名画の再放送はとてもありがたい。粗筋は覚えているが、何度観ても細かい描写は結構忘れているもので、観る度に新鮮だ。下戸の作者は晩酌なんかしないから、朧月のかかるころも当然素面。途中で居眠りなんかはしない。好きな映画をまた観て満足。心地良い眠りにつくのであった。 (双 20.05.10.)

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