鮎来るや千曲は重機工事中    堤 てる夫

鮎来るや千曲は重機工事中    堤 てる夫 『この一句』  鮎の遡上は作者の住む長野県上田市周辺では、ことに季節を感じる景物なのだろう。作者は鮎を食べるのはあまり好きではないと聞いたことがあるが、それとこの句は別物。記憶にまだ鮮明に残っている通り、昨秋の千曲川べりは豪雨氾濫で大きな被害を受けた。堤防が決壊し多くの民家や田畑、果樹の水没はもちろん、上田から別所温泉に通じる私鉄の鉄橋まで崩落した。  それでも今年の鮎が千曲の急流に上って来た。しかし川の周辺一帯は堤防の工事やら鉄橋の架け替えなどの真っ最中。ブルドーザーやクレーンなど重機がうなりをあげているのだろう。そんな騒がしいなか、鮎が無事遡上を果たして、十分に川藻を食み産卵の目的を果たせればと願うのは万人の気持ちである。  この句は、岩がゴロゴロしている氾濫川にも間違いなく鮎が上ってきた喜びを「鮎来るや」の一言で、復活への万感の思いを表している。鮭と同様、鮎も生殖を終えれば一生を終える哀しみがあるが、それも自然の一つの摂理とするのは世の習いである。その一方では重機で日常生活を元に戻す工事が粛粛と進んでいる。自然と人の営みの対比を巧まず詠んで、平易な句ながら隙間がない。 (葉 20.05.31.)

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遊具みなテープで縛る子供の日  中村 迷哲

遊具みなテープで縛る子供の日  中村 迷哲 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 今年の時事句としても記念碑的な一句。 命水 行き場がなくなって子供も自粛を強いられている。 白山 本当に子供は可愛そうです。 てる夫 コロナ禍の句の典型なので頂きました。 木葉 子どもの日なのに公園で遊べない。「テープで縛る」と、「縛る」が生活を拘束している現実を言い表して的確です。 可升 縛られた遊具だけをモノとして描写し、変に説明しないところがいい。 星川 テープでぐるぐる巻きにされた遊具は、物寂しい光景でした。      *     *     *  子供が遊んではいけない児童公園。誰も来くるなという観光地。事実は小説より奇なりというが、誰がこんな事態を想像し得ただろうか。新型コロナによる悲しい実態だ。とりわけ、子供たちには辛い仕打ちが続いた。2月末、安倍首相がいきなり全国の小中学校の臨時休校を要請して以降、子供たちの行き場がなくなった。もちろん部活は中止、図書館も閉館。動物園やテーマパークどころか、近くの公園すら行けなくなる始末。公園の遊具は使用禁止の看板とともに、ロープやテープでぐるぐる巻きにされてしまった。  掲句は、この悲劇を実に巧みな言葉遣いで詠んでいる。今年の「子供の日」の秀句として、いつまでも記憶に止めておきたい一句だ。 (双 20.05.29.)

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春雨の傘の取り持つ出会かな   田中 白山

春雨の傘の取り持つ出会かな   田中 白山 『この一句』  「なんとまあ、瑞々しい」というのが第一印象でした。そして春雨の出会いの記憶を句にできる羨ましさが段々募ってきました。句会では、だれも票を入れませんでした。嫉妬心かもしれません。しかし作者がわかって、「八十路の青春」はなんとも素晴らしいと申し上げたい。  最近、昔の出来事などを思うことが多くなりました。五年生の第二学期に編入した都内の小学校で、気になる女の子がいました。出来る子で、姓名をちゃんと思い出せます。高校時代には手紙をやりとりした同級生が居ました。高校卒業でお付き合いは途切れてしまいましたが、名字が変わったことを知っています。  わが青春を語ることは恥ずかしいかぎりですが、大学時代は四年間、学費稼ぎの家庭教師に明けくれ、クラブ活動の仲間と寄った高田馬場のスタンドバーで、お姉さんに言い寄られそうになったことがあるくらい。五味川純平の「人間の条件」を貪り読んで、仲代達矢・新珠三千代の主役にほれ込んだりしましたが、自分がロマンの主役になることはありませんでした。  ですから八十歳代半ばの年齢で、素敵なロマンを胸に秘めている作者はやはり羨ましいあ。 (て 20.05.28.)

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妻の乗る脚立を支へ立夏かな   玉田春陽子

妻の乗る脚立を支へ立夏かな   玉田春陽子 「合評会から」 鷹洋 夏のグリーン・カーテン張りは最早妻の仕事。退職後の男は見上げるだけで、本当に頼りにならない。自嘲的でペーソスあり。 双歩 いったい、この奥さんは何をしているのでしょうか?高い所の物を取るだけなら、夫がやればいいのですから。さらに立夏とどう関係しているのでしょうか?謎多き句です。 ゆり 夏を迎える作業をされているのでしょう。力仕事だと逆のはずなので、カーテンや簾を掛け替えるとかそんな情景を思い浮かべました。 而云 立夏の陽光に妻の活躍。婦唱夫随はいつものことながら。        *         *        *  脚立の上に妻が上り、夫が下で脚立を支える。婦唱夫随の風景が実にはっきりと浮び上がって来るではないか。奥さんが物置から脚立を持ち出してきたのを見て、ご主人は「そうか、この時期が来たか」と結婚当初のことを思い出す。新妻が「日よけ、どうしましょう」と言い出したのだ。「日よけ?」。あの時、夫はきょとんとするのみであった。  以来、夫は毎年、下で脚立を支えるだけ。下っ腹が出て来た昨今、脚立における下克上の夢など、とっくに消え去っている。「この日覆、まだ二三年、大丈夫ね」。夫は「うん、うん、そうだね」と応ずるのみだ。陽射しまばゆい立夏の朝。「晩酌は家内の好きな赤ワインで行くか」などと夫は考えている。 (恂 20.05.27.)

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オンラインのほのかなる時差春愁  大下明古

オンラインのほのかなる時差春愁  大下明古 『季のことば』  汗ばむほどの季節になってきた。読者はこの句の「春愁」という季語がいささか時宜を得ないのではと思われるかもしれないが、五月の番町喜楽会の作品である。春には「春愁」秋には「秋思」があり、それぞれ物思いの感情を表している。夏と冬は、と言えばしっくりする同意の季語がないように思う。体の適応に追われる猛暑、厳寒下では、物思いどころじゃないということだろう。  作者はコロナ禍のいま、友人とオンライン俳句に興じていると聞いた。LINE、ZOOM、SKYPEなどの何かでやりとりしているのだろうか。たしかに相手との受け答えには微妙なズレがある。一秒の何十分の一かもしれないが、対面の句座とはちょっと違う。その違和感を「ほのかなる時差」と詠んで、「春愁(はるうれひ)」だと言うのだ。きわめて当世的なIT事象をとらえて、季語を詠み入れたものだと思う。「時差」というほどの大げさなズレではないが、作者の鋭敏な感性が読み取れる。  作者はオンライン俳句を通じて、俳号「明古」を付けるようになったとも言っている。本名を長く守って俳号とは無縁だった作者が、心境に変化を来たしたのもコロナ禍の副産物だろうか。 (葉 20.05.26.)

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せせらぎへ卯の花こぼる城下町  前島 幻水

せせらぎへ卯の花こぼる城下町   前島 幻水 『合評会から』 迷哲 津和野あたりをイメージしました。「こぼる」が絶妙で静かに散る卯の花が見えてきます。 水兎 地方の旧街道沿いの小流れに、静かに卯の花が散っている。長く残って欲しい風景です。           *       *       *  こういう句を読むとすぐに、これはどこを詠んだのだろうと思ってしまう。せせらぎのある城下町。小さな川であればどこでも良さそうだが、「せせらぎ」は浅瀬の川音を想起させる言葉で、川音が聞こえるような静かな場所でないといけない。迷哲さんは津和野をイメージし、水兎さんは旧街道沿いの城下町をイメージしている。いずれにせよ、少し草深い小さな城下町を想像させる。  この句はやはり「こぼる」を使ったところがお手柄だという気がする。意味からすれば「落ちる」でも良いのだろうが、それでは句として収まりが悪い。「こぼる」は、ふわっとこぼれる静かな落ち方で、語感がとても柔らかである。また、「せせらぎ」の動と、「こぼる」の静の組合せが、この句を趣きのあるものにしている。 (可 20.05.25.) 

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ふわふわの赤い兵児帯初浴衣   星川 水兎

ふわふわの赤い兵児帯初浴衣   星川 水兎 『季のことば』  初浴衣とは幼い子供が初めて着る浴衣のこと。夏の季語である浴衣の傍題として、藍浴衣や宿浴衣などと並ぶ。子供が四、五歳になり、しっかり外歩きもできるようになると、浴衣を作る。子供に似あう柄を選び、昔は母や祖母が縫ってくれたものだ。子供は成長が速いので、数年は着られるように大きめに作り、肩揚げ、腰揚げをして調整する。 この句は初めて浴衣を着た女の子の赤い帯に目を向ける。兵児帯(へこおび)は元々薩摩の若い男性(兵児)が締めていた縮緬地の柔らかい帯。体に負担がなく締めやすいため、明治以降に子供の浴衣帯としても広まったという。女の子の兵児帯は赤い縮緬に絞りを入れたものが多く、背中で蝶結びやリボン結びにする。 「ふわふわの」という擬態語が効果的で、背中で揺れる帯と共に、初浴衣の子供の喜びや可愛らしさも浮かんでくる。作者自身の体験であろうか。選句表には「裾下げは母の喜び浴衣の子」(木葉)の句もあった。初浴衣を仕立ててもらう喜び、揚げを下ろして成長を実感する喜び、浴衣には親子の細やかな情愛が縫い込められている。 (迷 20.05.24.)

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出会より別れの多き老の春    田中 白山

出会より別れの多き老の春    田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) 木葉 老境に入ればその通りと思う寂しい句ですが、コロナ禍に自宅閑居のこの節、そんな感慨にふけるのもやむを得ませんね。 春陽子 この一句に思わず納得。私も喜寿を過ぎ、この頃は、友の訃報の多さを実感しております。下五の「老の春」は何とも寂しいが、すばらしい句だと思います。 双歩 至極当たり前の事を真面目な顔して言われると、頷かざるをえません。仰有るとおりです。 斗詩子 やっと厳しい冬を越して春を迎えた頃、訃報の便りが届くことが増えてきました。我が身の老いをしみじみ思わされる句。           *       *       *  この句を見て、あまりにも当たり前の事を述べて、面白くもなんともないなあと思って捨てた。しかし、それはあさはかであった。メール句会の選句選評を見ると、人気上々である。そこで、もう一度ゆっくり反芻してみて、「なるほどなあ」と思った。「老の春」がずっしりと来るのだ。「出会より別れの多き」という至極ありきたりだと思っていたフレーズが、重くのしかかって来たのだ。 (水 20.05.22.)

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川風にただ吹かれをる立夏かな  向井 ゆり

川風にただ吹かれをる立夏かな  向井 ゆり 『この一句』  川沿いの道か、堤の上か、はたまた橋の上か。あたかも立夏の日、時刻は夕方のような感じである。散歩か、買い物なのか。作者は家を出てしばらく歩いた辺りで川風を感じて立ち止まっているのだろう。ただそんな程度のことを詠んでいるのだけなのに「いいなぁ」と思わせる句である。  このタイプの俳句を私は「脱力の句」と名づけている。周囲の具体的な状況や作者の特別な様子などは何も見えて来ないのに、何かを感じさせる句のことだ。気取っただけなら失敗作に終わりがちだが、この句は相当いい線を行っているぞ、などと考えていたら、一人の選者の句評が目に入ってきた。  「さらりとした風情の底にひそむフィア」(十三妹)。「フィア」とは「恐怖」のことか、と腕を組んだ。この句もまた新型コロナウィルスが背景にあるのかも知れない。川風に吹かれて、ふと立ち止まる。この心地よい風の中にもウィルスが潜んでいるのか、この後、我々はどんな成り行きを迎えるのだう・・・。俳句の解釈をこのように捻じ曲げてしまうウィルスは、何とも恐ろしい奴らである。 (恂 20.05.21.)

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あたらしき命さづかる穀雨かな  廣田 可升

あたらしき命さづかる穀雨かな  廣田 可升 『この一句』  この句には「緊急事態宣言下女児誕生」の前書きがある。  この時期のお産は、院内感染など何かと気苦労が多く、家族はさぞ心配したと思う。無事出産し、母子ともに健康だったようで、この句からは作者の安堵と喜びがひしひしと伝わってくる。多分お孫さんのことだろうが、「本当に良かった」、「おめでとう」と心より祝福する声が集まった。  季語「穀雨」は二十四節気の一つで、百穀を潤す春の雨のこと。新生児誕生の喜びを表現するのに、まことに良い季語を選んだものだと感心した。句会は5月初めで兼題も「立夏」だったので、季節が少し後戻りするが、季節の変わり目には往々にしてよくあることだ。令和2年の穀雨は4月19日から立夏の前日5月4日までだったが、とにかく春から夏への橋渡しの季節であり、新しい命の誕生を詠むにふさわしい。  筆者は前書きに惹かれて採ったのだが、前書きは「女児誕生」だけでよいとの声もあった。ただ、何度も読み返しているうちに、前書きがなくてもしみじみとした佳句だと思えてきた。「前書きがなくても一句として独立解釈でき、その上で前書きによって、なるほどと思わせるのが理想だろう」とは、ある俳人の言。何はともあれ、実にめでたく幸せのお裾分けをいただいた気持ちになる。 (双 20.05.20.)

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