虫好きの子らみんな来よ春の野へ  金田青水

虫好きの子らみんな来よ春の野へ  金田青水 『この一句』  この句は明らかに二十四節気の啓蟄が背景にある。「蟄」は虫などが土中に隠れ閉じこもること、「啓」は開く。つまり啓蟄は、冬ごもりをしていた虫が春になって這い出ることだ。実際、散歩をしていると実に様々な虫が飛んだり這ったりしているのに出くわす。それらを狙って鳥も活発に囀るようになる。春は生きとし生けるものすべてが活動を始める季節。  この春は、コロナの猛威であちこちの学校が休校となった。筆者の近所の子も入学式や始業式だけは登校していたが、次の日からは所在なさげに通りでキャッチボールをするなど暇を持て余していた。掲句は、退屈しているに違いないそんな子供たちに呼びかけている。こんな時は、自然に触れる絶好の機会、春の野はいろんな虫が観察できるよ、虫が好きな子なら尚更、宝の山だよ、と。  作者は、無類の散歩好きで知られる。新たなルートを探して、遠方まで出かけることもあると聞く。散歩という一人吟行で詠んだ句をいくつも句帳に認め、時に仲間に披露することも。そういう日常の中で、生まれた句だ。いわば地に足が着いた一句で、時事句と見せて色褪せない作品だ。 (双 20.04.19.)

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春の雲見飽きぬ空は動物園    竹居 照芳

春の雲見飽きぬ空は動物園    竹居 照芳 『合評会から』(三四郎句会・メール句会) 而云 雲の形や動きを詠んで、 鯨が行く、象が行く、という句は見たことがあるが、この句は「動物園」と大きく捉えて、独自性を発揮している。 久敬 春の雲の描く様子が動物園みたいというのは、スケールが大きく感動的です。 照芳(作者)  春の雲は動きが速く、いろいろな動物を連想させます。動物園に行かずとも楽しいものですよ。           *       *       *  春の雲は「ぼんやりと霞んでいる」などと説明している歳時記もあるが、そうなのだろうか。私の頭に浮ぶ春の雲は綿のようふわふわと浮んで、少しずつ形を変えながら流れていく。そうでなければ春の雲じゃないよ、と言いたくなってくるほどなのだ。  だから句を見たとたん心の中で、「そうだよね」と相槌を打った。だれが何と言おうと、春の雲は空をゆっくりと流れていく動物たちなのだ。それをまとめて「動物園」とは。まさに我が意を得た句なのだが、後に「作者は現在、入院中です」という情報を聞いて、ハッとした。句は病室の窓から眺めた春の空、春の雲なのだ。後に「作者はそろそろ退院の頃」という情報もあって、少々安心した。 (恂 20.04.17.)

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暖かき朝は歩幅の少し伸び    澤井 二堂

暖かき朝は歩幅の少し伸び    澤井 二堂 『合評会から』(日経俳句会) 三代 暖かくなって冬の間縮こまっていた体が解放されていく感じがよく出ている。 冷峰 少し気温が上がるとこうなる。実感としてよく分かります。 守 時々ウオーキングしています。この通りだなと共感します。 反平 身体全体が伸びやかになってきたのだ。そうでなくとも歳をとればとるほど、大股で歩くべし。 定利 何でも無い句だが、今の世の中気持ちのいい句。 芳之 昼でも夜でもなく「朝」なのがいいです。        *       *       *  縮こまっていた身体が緩やかになって、朝散歩の第一歩も昨日までと比べて大股になったような感じがする。それを素直に詠んでいて好感を抱く。暖かな朝だから歩幅が少し伸びたと、いささか説明っぽい叙述ではあるが、「春暖」の気分を具体的に表して気持が良い。 (水 20.04.16.)

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蟄居する都の空や花万朶     廣田 可升

蟄居する都の空や花万朶     廣田 可升 『合評会から』(番町喜楽会・四月メール句会) 青水 今年詠まれたコロナ禍時事句の最高峰でしょう。そんな完成度です。「蟄居」「都の空」、決め手は「花万朶」お手本のようで八つ当たりしたくなる。 水馬 コロナで蟄居せざるを得ないが、桜は今が見ごろ。切ない気持ちを綺麗に詠んだ。           *       *       *  俳句をたしなむ世の人たちの多くは、いまコロナウイルス禍による自宅閑居を余儀なくされている。これから新聞や俳句誌の俳壇には、ウイルス禍を詠んだ佳句秀句が次々登場してくるはずである。三・一一大震災の時、東北の惨状と人情の暖かさを詠んだ秀句に毎日のように心を動かされたものだ。  科あれば蟄居閉門を仰せつかる江戸武家社会ではないが、現下の状況では引きこもりも致しかたない。都内マンション住まいの作者の気分をひとしなみ共感できる。無聊をかこちつつベランダから空を見上げれば、花見日和。花は今盛りと万朶の枝を誇っているが、花の下に出て愛でることは叶わない。その心情を「蟄居」と「花万朶」の対比で詠み込んだ当節句だ。 (葉 20.04.15..)

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遅き日や窓辺の富士のシルエット 工藤 静舟

遅き日や窓辺の富士のシルエット 工藤 静舟 『季のことば』  春の夕暮れ、窓辺に寄って影絵のような富士を眺めている。ただそれだけをさりげなく詠んだもので、それがどうしたこうしたなどと余計なことを一切言わない。しかし、なんとも悠々たる感じがする。まさに春日遅々として暮れかねるという、季語の気分をじっくり味わうにふさわしい句だ。  「遅き日」(遅日、暮れ遅し)は「日永」と兄弟姉妹のような季語。「日永」が「日が長くなったなあ」という、のどかな春の日を喜ぶ風情に重きが置かれているのに対して、「遅日」は暮れるのが遅いという日暮れ方の気分に力点が置かれている。兄弟似通った所が多いが、微妙に異なるところもある。そんなことから「日永」と「遅日」はわざわざ別立ての季語になっている。  窓辺にもたれて黒く沈んで行く富士を眺めるのはやはり、「日永」ではなく「遅き日」ということになる。時間で言えば、三月末から四月中旬あたりならば午後五時半頃か。忙しい主婦は別として、夕飯前のちょっと中途半端な時間帯でもある。こんな時には影絵の富士に触発されて、しばしば昔の思い出にふけったりもする。 (水 20.04.14.)

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菜の花やなべて思ひ出ほろ苦く  今泉 而云

菜の花やなべて思ひ出ほろ苦く  今泉 而云 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 旬を感じる菜の花は、確かにちょっぴり苦い。酒をちびちびやりながら何を思い出しているのでしょうか。 迷哲 菜の花の辛し和えを肴に一杯。春の宵は、ほろ苦い思い出、 操 思い出はちょっと切なく、なべてほろ苦いもの。共感です。 三代 菜の花のおひたしのほろ苦さをうまくダブらせている。 正市 季語と主題との違和感がかえって新鮮だ。 而云(作者) 佳句、好句の揃った中、「菜の花や~」の高点に恥ずかしさを感じております。       *      *     *  この句の眼目は「なべて」と「ほろ」だと思う。「思い出というものは概ねちょっと苦い」ということを絶妙な言葉を遣い、淡く表現している。春の風に揺れながら咲き揃う菜の花もまた、輪郭が曖昧で印象は淡い。読者をくすぐる内容と、季語に相応しい措辞で春愁の世界へ誘う。 (双 20.04.13.)

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草はらに大の字地球暖かし    岩田 三代

草はらに大の字地球暖かし    岩田 三代 『この一句』  草原に大の字になって空を見上げる。これほど気持の良いことはない。地面が凍てつく冬は、とてもこんなことをする気にはなれない。草いきれのむっとする夏もあまり気分が良くない。やはりこれは春か秋の気分だ。  天高く馬肥ゆる秋の野原に寝っ転がって、爽やかな空気を吸い込むのも気持が良い。ただ秋はそこはかとない寂しさが漂う。そこへいくと仲春、晩春は「さあこれからだ」という、ふくらみのようなものを感じる。それがこの句にもある。即ち「地球暖かし」という大げさな表現だ。  「草はらに大の字」で切れ、「地球暖かし」と続く、句またがりの二句一章。これが大いに効果を発揮し、実に気持の良い句になっている。  この句は青春時代の思い出か、幼馴染みと連れ立ってのピクニックか。とにかく「思い出句」なのではなかろうか。令和二年春の新型コロナウイルス騒動の渦中では、到底こうした大らかな気分には浸れそうにない。うっかりすると、「具合の悪そうな人が倒れ込んでいます」と119番でもされかねない。 (水 20.04.12.)

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老いてなほ器量良し追ふ猫の恋  石丸 雅博

老いてなほ器量良し追ふ猫の恋  石丸 雅博 『この一句』  猫にもさまざまな風貌がある。愛嬌がある、気の弱そうな、強そうな、睨まれると怖そうな・・・、という具合だ。確かに器量よしもいて、恋の季節の彼らを見ると、「もてるだろうなぁ」と思う雌猫もいる。句はそして「老いてなほ」と詠む。ウチの猫(牡)のことだけではなく、作者をはじめ「人間の男も」と思わすところに句の面白さがある。  俳句会はおおよそ、メンバーの年齢的な代謝が起こりにくい団体である。同年齢の気の合う人々が集まって会がスタートするケースが大半だろう。新入りが登場しても、会員と同年配が多く、会全体が老齢化していく。掲句を見て「オレのことか」とぎくりとし、周囲を見回して、みんな歳を取ってきたからなぁ、と眺め渡していくらか安心する。  男性が器量よしの女性に魅力を感じるのは若い時だけではない。いや、年齢を重ねるごとに高根の花への憧れが高まっていくのではないだろうか。「なぁ、そうだろう」と仲間に相槌を求めたら、「そうかな。猫も年取ればこの時期、夜は出歩かないよ」との答え。そんな返事を期待したのではなかったのだけれど。 (恂 20.04.10.)

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虫穴を出て子供らは家の中    杉山 三薬

虫穴を出て子供らは家の中    杉山 三薬 『合評会から』(酔吟会三月メール句会) 涸魚 コロナ騒ぎならずとも、最近の子供の遊びは家の中でのゲームばかり。 而云 コロナウイルス句の代表として選びました。 光迷 コロナウイルス騒動の一幕ですね。欲の皮を突っ張らせ、グローバルだとか何とか言って狂奔した大人の被害を受けているのは幼い子供。人間は、科学は・・・などというのは思い上がりだと気付き、何事にももっと謙虚になるべきでしょう。 百子 本来ならば子供たちの声が飛び交う通学路も休校となった今はひっそり。道端の畦には雑草が生え始め、虫たちの動きも活発になってくるのに・・・。           *       *       *  作者の弁「突然の休校宣言。子供達は戸惑い親は困惑。私めは元気な孫との付き合いで足腰ガタガタ。春を迎えた喜びもどこへやら、ある意味歴史的瞬間に立ち会ったことを、句にしました」。これが全てを言い尽くしているのだが、この句は涸魚さんが言うように、コロナ騒ぎが無くても近ごろの子供世界を示していて面白い。 (水 20.04.09.)

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木瓜咲くや蔵のしつくひ黄ばみたり 廣上正市

木瓜咲くや蔵のしつくひ黄ばみたり 廣上正市 『合評会から』(日経俳句会) 百子 古い田舎の家の隅には、木瓜の花がよく植えられています。木瓜の花は丈夫で何年もひっそりと咲いてますよね。歴史を感じます。 綾子 蔵のある古い町並みに、木瓜の花は合いそう。 三代 確かに蔵のある古い家の庭には木瓜がありそうだ。古い蔵と明るい木瓜の対比がいい。 水兎 白い花の宿命で、黄色から茶色に変化して花殻が落ちて行くように、権勢を誇った蔵も、静かに変化してして行く。春の憂いも感じる作品です。           *       *       * 3月句会の「木瓜の花」の兼題句で最高点を得た句である。木瓜は平安時代に中国から渡来した帰化植物で、近代に入り庭木や鉢植えとして広く愛されてきた。春に朱色や白の小ぶりの花をつける。誰もが見たことがあり、なじみ深い花だ。漆喰が黄ばむほど古びた蔵も、読み手それぞれの郷愁を誘う。古い蔵と木瓜の花が、心象の風景で重なり合っている。 (迷 20.04.08.)

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