災厄に清々しきは若桜      大沢 反平

災厄に清々しきは若桜      大沢 反平 『この一句』  「若桜」は「花」の傍題で、若い桜の木、または数輪の花をつけた若木の桜の初々しさを愛でる季語である。若い桜木はひょろひょろと棒のような幹に細い枝が数本生えて、そこにまばらに花咲かせている。それは、花見で仰ぎ見る豪華絢爛たる桜樹とは比べようも無い、まことに頼りない姿である。  公園や街路樹として植えられるのは挿し木で育てられた五年生から七、八年生の若木。幹の太さは公園の鉄棒くらいだが、赤紫の木肌を輝かせ、「さあこれから思いきり伸びるぞ」と枝を伸ばしている。作者はそこに凛とした強さを感じ、健気に花咲かせているところに強い印象を受けたのだ。「災厄に」とは言うまでも無く、コロナ禍で一億総蟄居を余儀なくされた状況である。  「若桜」という季語は昔からあるのだが、滅多に詠まれない。歳時記に載ってはいるが、例句が無い。たまに詠まれることがあっても、それは今年初めて見た早咲きの桜などと、つまりは「初桜」の言い換えが多い。この句は、若木が初めて花を咲かせ溌剌たるところを見せていると、「若桜」という季語の本意をしっかり捉えた、今後末永くお手本となる句である。 (水 20.04.30.)

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新入生みんなマスクで誰が誰   杉山 三薬

新入生みんなマスクで誰が誰   杉山 三薬 『合評会から』(日経俳句会) 庄一郎 今年ならではの入学式をうまく詠っています。 鷹洋 とんだ新学期。入学の楽しさなど吹っ飛び、同級生紹介でも区別がつかない。コロナの恐怖が伝わってきます。 木葉 コロナ禍の中、学校が始まっても馴染みのない同級生のマスク顔は判別できないでしょう。深刻になりがちな時事句ながらユーモアがあります。 弥生 マスク顔は一瞬で判断できません。大人は困惑しつつも子供はお構いなし、の時事句ですね。 定利 誰が誰、の下五がうまい。        *      *      * 入学の俳句には、子供の仕草や親や教師の姿などを詠むものが多いが、この句はマスクに焦点を絞り、コロナウイルス感染防止に躍起になっている今年の姿を鮮やかに描き出した。東京都内の小学校では、入学式を延期したり見送ったりしたところもあるとか。人生の節目なのに、可哀想に…。マスク姿でも、入学式ができた子供は幸せだ。時代を切り取った佳句である。 (光 20.04.29.)

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散る桜スーパームーン観てますか 大平 睦子

散る桜スーパームーン観てますか 大平 睦子 『この一句』  下五の呼びかけ口調が効いている。そういえば、2007年の日経俳句会賞に輝いた深山陽子さんの「秋味のシチューですよとメール打つ」もメールでの呼びかけが新鮮だった。この句の場合は、散ってゆく花よ、ひときわ大きな満月を観ましたか?と問うているとの解釈が自然だろう。「散る桜」で大きく切れているとするとどうだろう。桜が散り始めましたね、今夜の明るいスーパームーンをあなたも観てますか?ロマンチックな展開になりそうだ。  月には神秘的な魅力がある。煌々と輝く月を眺めていると、何やら胸騒ぎを覚えたりもする。月光を浴びると狼に変身する男の話もある。地球との距離が最も近くなって、より大きく、より輝きを増すスーパームーン。今年は4月7日夜から8日にかけてで、天気にも恵まれ、各地で美しい満月が観測された。一方、この春の桜は暖冬異変でほとんど散ってしまい、葉桜になっていた。作者は、見たまま、ありのままを詠んだのではない。コロナ禍で見る人も少なく、寂しく散って行った桜を思い出し、「この月を観せたかったな」と、つい呼びかけたくなったのだろう。女性らしい優しさに満ちた素敵な一句だ。 (双 20.04.28.)

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椅子に掛け足ぶらぶらと入学す  横井 定利

椅子に掛け足ぶらぶらと入学す  横井 定利 『合評会から』(日経俳句会) 而云 何と、七十何年か前、私は母親からこのことを注意された記憶があります。◎の句。 三代 小さな入学児のかわいさが「足ぶらぶら」で伝わってきます。秀逸の表現かと。 明生 小学生になる位の子の仕草をよくとらえた句。なぜ足をぶらぶらさせるのか不思議です。 昌魚 小さな一年坊主の様子でしょうか、可愛いいですね。 水馬 なかなかジッとしていない子の様子が浮かびますね。 反平 かわいいもんですな。何だか先生が言っているようだけど、退屈で、退屈で。           *       *       * 読めばたちまち新一年生の可愛い姿が浮かんでくる。まだ小さいので椅子に座っても足が床に届かず、先生の話にすぐ飽きて、足を動かす。ハラハラしている親の姿まで浮かんでくる。子供の動きをなぞるように詠んでいる。「足ぶらぶら」の表現が微笑ましく、句会で高点を得た。作者は元カメラマン。入学式の取材経験を句にしたと言うが、読者に映像をイメージさせる手腕は確かだ。 (迷 20.04.27.)

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プラネタリウム出でて地球は春の雨 今泉而云

プラネタリウム出でて地球は春の雨 今泉而云 『この一句』  メール句会となった四月の番町喜楽会におけるダントツ最高点句である。  この句を詠んで栗木京子の短歌「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」を思い出した。「一日」は「ひとひ」、「一生」は「ひとよ」と読ませる。この歌があまりにも有名になり、観覧車と言えばこの歌が思い起こされ、歌人たちの間で、永らく観覧車の歌は詠まれなくなったという話も聞く。  掲句は、観覧車ではなくプラネタリウムであるが、この句も栗木京子の歌同様に、プラネタリウムといえばあの句、と少なくともわれわれのまわりでは長く語り継がれるようになるのではないかと思う。そういえば、観覧車とプラネタリウム、ともに詩歌の材料としては同じような立ち位置にある気がする。  プラネタリウムの中はまったくの異空間。そこから出て来ると雨が降っている。頭の中はまだ宇宙をさまよっているので、出てきた場所は東京ではなく地球である。ここに「地球」をもって来たことがこの句の最大の魅力。また季語「春の雨」との取合せが、なにかしら暖かくふんわりした気分を醸し出していて、カップルなのかもしれない。 (可 20.04.26.)

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母子草ほかに九種の咲く更地   大下 綾子

母子草ほかに九種の咲く更地   大下 綾子 『季のことば』  母子草(ははこぐさ)は住宅地の道端にも生え、晩春、草丈10センチから20センチの天辺に小さな黄色い花がかたまって咲く。それで春の季語とされているのだが、前年の秋に芽生えて年越しした頃は、細かな綿毛が密生したビロード状のやや厚ぼったい小葉を地面にひっそりと這わせている。その頃の名前はゴギョウ(御形、御行)で、春の七草の一つとして摘まれ、七草粥に炊かれる。同じ草が名前を変えて、新年と春と二度登場する珍しい季語だ。  この句の面白さは何と言っても「ほかに九種の」という詠み方にある。雑草という草は無いとの名言を宣うた御方もいらっしゃるが、とにかく雑草というものは大変な生命力で、道端にもちょっとした空地にもすぐに芽を出し、あっという間にはびこる。古い家屋が取り壊されて更地になったと思ったら、ひと月たったかどうかというくらいで緑の草地になってしまう。  いったいどんな草がはえているのかしらと見つめる。母子草は知っている、ハコベ、イヌノフグリ、ぺんぺん草、タンポポも分かる。さてその他は・・・、数えてみたら九つある。空地とか更地とか一口に言うけれど、小さな命がぎゅっと詰まっている。 (水 20.04.24.)

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干からびし記憶の底の蓬餅    堤 てる夫

干からびし記憶の底の蓬餅    堤 てる夫 『この一句』  月例句会には「兼題」が出ており、同じ季語の句を次から次へと読むことになる。この番町喜楽会四月句会(コロナウイルス禍でメール句会)の兼題の一つは「草餅」。二十人から三十三句が寄せられた。筆者の場合、同じ季語の並ぶ投句一覧表を一読、再読し、直感を頼りに選句することが多い。それだから秀句佳句をしばしば見逃してしまう。句友の評を見たり聞いたりして、なるほどそういう意味か、そういう背景かと、その句をあらためて吟味することになる。  まさに掲句がそうである。「草餅には何かしら古い記憶とつながるイメージがあって、この句はそれをうまく詠んでいる」(満智)との評を読んで思い当たった。この「干からびし」は、単純に読めば古い記憶の底にある蓬餅は、干からびていた蓬餅だったという意味だろう。しかし満智氏の評によると、草餅には何か違う記憶が重なっているとみている。これが正統的な解釈といえそうだ。  筆者は満智氏の解釈にもう一つ付け加えたい気がする。「干からびし」は、作者自身の幼年記憶が近頃薄らいできたというのではないかと。一票を入れるべき句だったが、同じ季語が並ぶ投句一覧表には“採りこぼれる句”が少なくない。 (葉 20.04.23.)

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春雨を眺めてをりぬテレワーク  嵐田 双歩

春雨を眺めてをりぬテレワーク  嵐田 双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 手堅い時事句に仕上げている。下五の新しい言葉が効いている。中七が所在なさ、やるせなさを巧みに表現している。 幻水 新型コロナウイルス禍でテレワークを強いられている複雑な気持ちを詠んでいる。 而云 自宅勤務の手持ち無沙汰。他の家族は会社や学校なのだろう。いかにも、の雰囲気。        *       *       *  コロナウイルスに振り回される世の中を、勤め人の視点からいいタイミングで掬い取った。「眺めてをりぬ」が、一仕事を仕上げ、次のことを考えている余裕の時間とも、また「こんな愚にもつかないことを…」と思いながらも口に出せず、不貞腐れ、さぼっている姿勢とも解釈でき、面白い。  ともあれ、物事に前向きに取り組むためにはこうしたくつろぎも大事だろう。と書いて来て、思い浮かんだ。「国会議員こそテレワークにすればいい」と。下手糞な学芸会にも遠く及ばない質疑応答の繰り返し。それを是正する働き方改革にはテレワークこそ絶好ではないか。 (光 20.04.22.)

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人気なきおとぎの国に春の雨   徳永 木葉

人気なきおとぎの国に春の雨   徳永 木葉 『この一句』  新型コロナウイルス騒動で、双牛舎加盟の句会は3月、4月は集まっての会をすべて自粛し、メール句会となった。人類にとって第二次世界大戦後では最大の厄災と言われるコロナ感染。メール句会にも関連する句が多数寄せられている。  掲句もそのひとつ。「おとぎの国」とは浦安市の東京ディズニーランドをさしており、2月末からの営業自粛で人影のない情景を詠む。いつもは大勢の客が来場し、ミッキーや白雪姫などのキャラクターと触れ合い、アトラクションを楽しんでいる。広大な敷地に点在する施設はどれも夢と冒険心に溢れており、まさに日常と隔絶された「おとぎの国」といえる。  賑わいの印象が強いだけに、誰もいない園内の光景は淋しさが際立つ。折から降りかかる春の雨が閉鎖された施設を濡らし、一段ともの悲しさが募る。  コロナ禍を直接詠むのではなく、無人となったおとぎの国によって、感染症の怖さ・不気味さをイメージさせる。メルヘン調の柔らかい表現ながら、しっかりした時事句である。 (迷 20.04.21.)

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深みより浮かび来し鯉暖かし   鈴木 雀九

深みより浮かび来し鯉暖かし   鈴木 雀九 『合評会から』(日経俳句会) 木葉 冷たい池の底に沈んでいた鯉が、気温の上昇とともに水面近くまで浮かんできた。水中の生き物である鯉の動静によって「暖か」の季語をうまく表現した。 双歩 冬の間、底にじっとしていた鯉が水が温んできたので水面に顔を出したという、何となく見たことがあるような光景が「あたたか」を感じる。 睦子 水も温んで、冬眠から目覚め、ゆったりと喜びを確かめているような感じが伝わってきます。 昌魚 多分赤い色の鯉なのでしょう。何となくほっとした感じが伺えます。           *       *       *  作者によると、昼食後江戸川橋から神田川をのぞいての句。一㍍もある緋鯉で、もう顔なじみなのだという。深みにじっとしていたのが陽気に誘われて浮かび上がって来たのだ。「おう,出て来たか」なんてつぶやいている作者の姿が見えるようだ。見たままをすっと詠む。これぞ俳句作りの本道であり、お手本を見せてくれた。 (水 20.04.20.)

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