春の日や再雇用とて白髪染め   谷川 水馬

春の日や再雇用とて白髪染め   谷川 水馬 『この一句』  再雇用とは「定年後再雇用制度」のこと。企業の大半は60歳定年制を採用しているが、厚生年金の支給開始年齢引き上げに伴い、65歳までの継続雇用が法律で義務付けられた。定年を延長した企業もあるが、多くは1年契約の再雇用制度で対応している。  作者も再雇用で仕事を続けることが決まったのであろう。新年度からの出社に備えて白髪を染め、気持ちを新たにしている。助詞の「とて」が絶妙である。直接的には白髪染めの原因・理由を表しているが、何やら一歩身を引いて、自分を面白がっている気配が漂う。  川柳は仕事をテーマにした句をたくさん見かけるが、仕事の俳句は農業を除くと意外に少ない。川柳が世の中の変化をいち早く捉えて笑い飛ばすのに対し、俳句は季語や字数の縛りがあり変化に遅れがちだ。川柳を進取とすれば、俳句は守旧といえる。掲句は、再雇用という仕事の「いま」を捉え、白髪染めする自分をちょっと茶化して、笑いを誘っている。長閑な春の日にぴったりの時季の句であり、仕事の句である。 (迷 20.03.19.)

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春の日の首筋過ぐる梳き鋏    塩田 命水

春の日の首筋過ぐる梳き鋏    塩田 命水 『この一句』  「春の日」には、「春の日和」と「春の陽射し」という両方の意味がある。一読した時には後者の陽射しを想起し、屋外での散髪かなと思った。だが、子供ならいざ知らず明らかに詠み手は大人であり、理容室か美容院で散髪してもらっているのだろう。そうすると「春の日」は陽射しではなく、室内で感じる外の日和を意味するのだろうと合点した。もっとも、仲の良い夫婦が庭で髪を切りあっていると想像してみると、それはそれで微笑ましい光景である。  この句が詠んでいるものは、梳き鋏が首筋に触れるときのあの冷やっとした感触である。しかもそれは、冬場の寒さの中とは異なり、春めいた陽気の中で感じる、少しくすぐったいような感触にちがいない。作者の感覚の繊細さをよく感じさせる句だ。  一方、下五の「梳き鋏」は、三文字の「鋏」を五文字に整えるための工夫だろうくらいにしか考えなかった。ところが水牛氏の評に、普通の鋏はチョキチョキ、梳き鋏はシャキシャキ、この梳き鋏の音の軽快さが良いのだ、とあった。そうか梳き鋏の音か、と読みの深さに感心してしまった。そう思って改めて読むと、いっそう「春の日」に相応しい味わいのある句になった。 (可 20.03.18.)

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土手の道人影伸びる日永かな   高石 昌魚

土手の道人影伸びる日永かな   高石 昌魚 『この一句』  自分の影を含めて、よく伸びた人の影を、最もはっきりと確認できる場所は河川の土手の上ではないだろうか。周囲にはおおよそ高い建物がない。道は当然平坦で歩きやすい。歩いている人の数も通常の道路より少なく、何より安全で、障害物などに気を配る必要も少ない。自分の影によって自分の歩きぶりを確かめるにも絶好である。  作者は夕方の散歩に出たのだろう。町中を過ぎれば、その先に大きな河の堤が控えている。階段を上り、土手の上に出る。街も河も左右の眼下にあり、西空には夕陽が傾きかけていた。さて、これからが晴れ日の日課ともいうべきウォーキング。一キロ先の目印まで行って引き返す。往復三十分が目安である。  往路の時は気づかなかったが、折り返すと西日を背に受けて、自分の影が前方にぐんと伸びていた。帰りの一㌔は影が先導してくれるのだ・・・。句会の後、会場を出て交差点まで、作者といっしょに百㍍ほどを歩いた。すでに九十歳を超えておられるはずだが、足取りに不安は全く感じられなかった。人生も日永の時代である。 (恂 20.03.17.)

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公園に絵描き現れ日永かな    植村 博明

公園に絵描き現れ日永かな    植村 博明 『この一句』  なんともないありふれた光景を、なんともなく詠んだと言えばそれもそうだ。日没が早く、キーンと冷え込む冬が終わった日永の公園。絵描きとおぼしき人がやってきた。イーゼルを抱えていなくても画帳を手にしているので、この公園に絵を描きに来たのだと見定めた。作者はベンチに座っていてこの人物の登場を眺めている。舞台劇の幕開けのようなワンシーン。これから何が始まるのか、展開に興味津々といった客席の静まりを見るような気がするのは評者の妄想だろうか。  公園を一つの舞台として、この先の展開を妄想させるこの句が気になった。男か女か絵を描きたい人が、やおら画帳を開いてスケッチを始めただけよ、と詠んだだけかもしれないのだが。評者がさらに妄想を膨らませるのをお許し願いたい。  「百万本のバラ」というラトビア発の歌謡曲がある。貧乏な画家が恋した女優の住む窓辺の広場を、百万本の紅いバラで埋めたという歌はカラオケでよく歌われているが、ふとその情景を思い浮かべてしまった。 (葉 20.03.16.)

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来て逃げて雀の群れの日永かな  堤 てる夫

来て逃げて雀の群れの日永かな  堤 てる夫 『合評会から』(日経俳句会) 二堂 私の家にも雀がよく来ます。群れで来ては逃げる。それを上手く詠んでくれている。 昌魚 動画のように景が動いていくのが分かるいい句です。 博明 確かに雀は団体で来ては、さっと逃げて、またしばらくして団体でやってくる。いったい何しているんだと思うし、それを眺めてるいる作者も「日永」。 ヲブラダ 拙宅は十五階なのですが、ベランダに雀が来ます。警戒心が強く、正にこんな感じです。鳩ならこういう気分にはなりませんね。        *       *       *  田園地帯に住まうようになって六、七年たつ作者は今や雀とも友達である。毎朝、庭に玄米を撒いてやるのだそうだ。その内に雀のお宿に招かれて宝物の一杯詰まったつづらを貰ってくるのではないか。  雀は人間のすぐそばに暮らしているくせに警戒心が非常に強い。まず物見雀が来て、大丈夫だと見極めると仲間を呼ぶ。一寸でも危険を感じると逃げろの合図を発して、一斉にぱっと飛び立つ。とにかく、作者は雀の生態をよく見ている。 (水 20.03.15.)

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渡されし子に春の日の匂ふかな  今泉 而云

渡されし子に春の日の匂ふかな  今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 青水 豊かで幸せな家族の、春の日差しの中の一コマを切り取って、過不足ありません。孫句の一つでしょうが、季語の持つ豊かさが前面に出て、匂い立つ佳句になっています。 水馬 赤ん坊の気持ちのいい匂いがしてきそうな句ですね。季語が赤ん坊の柔らかな肌と体温の暖かさを表現していると思います。 可升 屋外で「ちょっと抱いてて」と渡された瞬間、「春の日」の匂いがしたように思えます。この瞬間の切り取り方が上手ですね。もちろん、子供が可愛いいから「匂ふ」のですね。        *       *       * 一読し、思わず笑みがこぼれ「そうそう」とうなずかされる。赤ん坊かよちよち歩きを始めたばかりの幼児か、場面は公園か買物を終えて家に戻ったところか。託された子からふんわりと漂ってくる匂いを感じ取ったところに、春の麗かさばかりでなく、育ちゆくものへの優しい眼差しがひそんでいる。あたたかい家庭は大切だ。いかに小市民といわれようと、ガサツな政治問題などより、家庭を大切にしよう。 (光 20.03.13.)

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ウイルスが巨船を止める春寒し  前島 幻水

ウイルスが巨船を止める春寒し  前島 幻水 『この一句』  目に見えないどころか顕微鏡でも見えない極微小のウイルスが巨船を立往生させてしまった。俳句仲間の一人が横浜港に止め置かれた豪華客船ダイヤモンドプリンセス号に乗船していたことが明らかになって、一層身近な事件になった。とにかく後世、平成23年と言えば「東日本大震災」、令和2年と言えば「新型コロナウイルス」となることは間違い無い。  ダイヤモンドプリンセスという豪華客船は11万6千トン、全長290メートル、全幅37.5メートル、水面上の高さ54メートル、客室1337室というのだから、まさに海に浮かぶ宮殿である。それを1ミリの10万分の1のコロナウイルスが止めてしまったのである。  この句は「ウイルスが巨船を止める」と、事実関係だけをあっさりと述べている。それでいてこの大騒動の全てを言い果せている。新型ウイルスという、正体もよく分からない病原体。いつ終息するとも分からない。今年の春は温度計の目盛が高くなる日が多いのに、「春寒し」という季語を用いて背筋がぞくっとする気分を伝えている。 (水 20.03.12.)

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マッチ擦る仕草の記憶春のカフェ 中沢 豆乳

マッチ擦る仕草の記憶春のカフェ 中沢 豆乳 『この一句』  一読して「仕草の記憶」という中七にしびれた。若い頃は煙草を飲んでいたので、片手でマッチを擦る練習をしたり、マッチの火を煙草に移す俳優の仕草を真似たりした。掲句はカフェに来て、マッチで煙草を飲んでいた昔を回想し、その時の仕草を思い返している人物と読んだ。これに対し句会では「昔は喫茶店はあったが、カフェは酒を飲ませる所だった」とか、「フランス映画のワンシーンを詠んだのではないか」、「季語が動く」などいろんな解釈・意見が出た。  経済成長で台所からマッチ箱が消え、さらに愛煙家に安いライターが普及して、マッチを擦る仕草は身の回りで見られなくなった。今の子供たちはマッチを渡されても、使い方が分からないという。マッチの仕草は、古い映画の喫煙シーンか老人の記憶にしか残っていないのかも知れない。  作者によると、春先にカフェのテラス席で煙草を飲んだ時に、マッチを持っていた友人の仕草から学生時代を思い出したという。春は「さまざまなこと思い出す」季節でもある。記憶を呼び覚ますのは、麗らかな春のカフェが似合いそうだ。 (迷 20.03.11.)

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かたまつてゐねばさみしき菫花  玉田春陽子

かたまつてゐねばさみしき菫花  玉田春陽子 『この一句』  作者の名前を知って意外な気がした。かつて誰かが、作者を「小道具の春陽子」と名付けたことがある。季語と取合わせるのに、意外なモノを小道具として持ってきて読者をはっとさせる。その意匠の巧みさに何度も感心させられた経験がある。それに対して、この句は一物仕立ての句である。季語の「菫花」が唯一のモノであり、それ以外にモノは登場しない。また、取合わせの句が多くの場合、モノだけに語らせて感情表現を排除するのに対し、この句には「さみしき」と感情表現が入っている。いずれも、この作者に似つかわしくない表現のような気がした。  「かたまつてゐねばさみし」とは、可憐で楚々とした菫の花を上手く表現したものである。小道具ではないが、この措辞を見つけてくる作者の着眼の良さに感心させられる。さらに、この句の裏には「人もまたそうじゃないか」という作者の心情が隠されているように思えた。そう思ってもう一度この句を口にしてみると、響きも良く、なかなか味わい深い句である。思わず「上手いなあ」と呟いてしまう。二物であれ、一物であれ、この人にはかなわない。 (可 20.03.10.)

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マスク掛け囲碁長考の日永かな  澤井 二堂

マスク掛け囲碁長考の日永かな  澤井 二堂 『季のことば』  厳しい冬が去って春になると、日が永くなったことに気付く。日照時間が最も長くなるのは夏至の頃なのだが、気分的に「日が永くなった」ことを実感するのは春である。というわけで「日永」は春の季語になった。  一方、「マスク」はもちろん現代俳句になってから立てられた季語だが、これは冬である。ところが近ごろは花粉症防護のために春に使われることが多くなった。そして、令和二年の春はコロナウイルス流行によって、「春のマスク」が町の景色になった。しかし、俳句では依然として「マスクは冬の季語」である。ということからすると、この句は「日永」という春の季語と、「マスク」という冬の季語が同居した、「季節違いの季重なり」という悪い形になっている。  しかし、世の中教科書通り運ぶものではない。春になってもマスクが必需品の今年、こう詠んで悪い事は何も無い。むしろ令和二年を思い出す句になる。  上手は上手なり、下手は下手なりに長考は付き物。これはどうやらヘボ碁のようだが、実にのんびりした空気が漂い、「日永」の気分を遺憾なく伝えている。 (水 20.03.09.)

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