静まりし放課後の庭暮れかぬる  和泉田 守

静まりし放課後の庭暮れかぬる  和泉田 守 『おかめはちもく』  季語は「暮れかぬる」である。「遅日」の傍題として「暮遅し」などと並んでいる。春になって日が伸び、「春日遅々として暮れかねること」(角川歳時記)を意味する。掲句は放課後の校庭に子供たちの姿がなく、静まり返っている様子を詠む。普段ならクラブ活動や友達と遊ぶ子供らでにぎわっている校庭が、なぜか誰もおらず、声も聞こえない。日暮れが遅くなり、まだ時間も日差しもたっぷり残っているだけに、かえって淋しさが募る。  評者は、新型コロナウイルス対策で急きょ実施された一斉休校を詠んだ句と見た。時事用語を使わずに、子供たちの姿が消えた校庭を描写し、遅々として暮れない春の日のもの悲しさを重ねる。時事句と声高に主張せずに、ソフトに世相を詠んだ句と思い、迷わず票を入れた。  ところが句会では評者以外の点は入らなかった。「放課後の庭」の表現から、生徒が皆下校した校庭を詠んだと見られたのであろう。「休校の庭」とか「無人校庭」とかの言葉を使った方が、句意が明確になったのかも知れない。 (迷 20.03.31.)

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初午に地口行灯朱の鳥居     久保 道子

初午に地口行灯朱の鳥居     久保 道子 『合評会から』(酔吟会) 春陽子 初午の宵のなまめかしい色を感じます。中七以降、一気に読ませる調べが心地良い。 水兎 あの行灯、江戸時代のままの駄洒落で、とても楽しいですよね。 操 五穀豊穣などを祈る神事の情景。神秘的である。           *       *       *  初午は二月の最初の午の日に、京都の伏見稲荷を中心に全国のお稲荷さんで行われる祭。お稲荷さんは元々は農業神だったが、徳川時代になると商業の神様となって、江戸の町々には稲荷社が設けられ、「江戸に多きもの、伊勢屋稲荷に犬の糞」とまで言われた。今でも東京の町には至る所に稲荷社が残っている。  地口とは「恐れ入谷の鬼子母神」「杏より梅が安い(案ずるより生むが安し)」といった洒落、言葉遊びで、それを書いた行灯を稲荷社の参道に立て並べた。そこに火が入ると朱色の行灯柱や鳥居に映えて美しい。江戸っ子たちは「これは上手い」「こりゃダメだ」と囃しながらお参りした。昔ながらの情緒をさらっと詠んで、とても楽しい。ただ、上五は「や」で切った方がいいように思う。 (水 20.03.30.)

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縫ぐるみ脱ぐ春の日の暮るる頃  今泉 而云

縫ぐるみ脱ぐ春の日の暮るる頃  今泉 而云 『この一句』  筆者は以下のようにこの句を評して選句した。『子ども向けのイベントが終わり、戦隊ヒーローか動物か、着ぐるみから人が出てきた。これも春の長閑な一日の終わりを告げる光景。「縫ぐるみ」という俳句になじみの薄い小道具を持ってきたのが新鮮だ。「暮るる頃」の下五も効いている』と。  後でこの解釈は違うのではないかと思い直している。「縫ぐるみ」は「着ぐるみ」の間違いであるとの前提で、まさしく遊園地かショッピングセンターの催しの終演後を想像していたのだった。いや、待て、作者は間違いなく「縫ぐるみ」と「着ぐるみ」の違いを分かって縫ぐるみを詠んだのではないだろうか。そう読み直すと、そこにファンタジーの世界が広がって来た。着ぐるみからよりも、小さな縫いぐるみから人が出てきた方が「春の日の暮るる頃」の夢幻を表してうなずける。女児は人形に人格を与え、ときには自分と同化する風も見られる。幼い女の子が縫ぐるみと遊び疲れて、眠たくなる黄昏時。縫ぐるみの中に入っていた自分が、それを脱いで出て来た情景と読めば、なんとシュールな一句だと思うのである。荒唐無稽と言われようが、句の解釈の翼を広げる自由はあろう。折り目正しい作者である先生は一笑するかも知れないが。 (葉 20.03.29.)

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木瓜の花あと三年は免許あり   杉山 三薬

木瓜の花あと三年は免許あり   杉山 三薬 『この一句』  年齢を云々してはいないが、「あと三年は」と述べたことによって、かなりの高齢者であることが分かる。若い者なら免許更新期まで三年ということに何の感慨も抱かないだろう。しかし、高齢者にとっては「あと三年」はこの上なく貴重であり、喜びである。  田舎は無論のこと、大都市の郊外住宅地でも、近ごろはバスの運転本数が減っている。自家用車が増えてバス利用者が減り、公営私営を問わず経営上の問題から運転本数を間引く。するとますます乗客が減り、それがさらなる本数減を招く悪循環に陥り、ついには路線廃止となる。そうなるとたとえ年寄り家庭でも自家用車に頼らざるを得ない。身体機能が衰え、咄嗟の判断に一拍遅れということが目立つようになり、周りから「もういい加減に運転は止めたら」と言われ、自分でもそう思いながら、止められない。  そうした状況を詠んでいるのに、この句にはじめじめと落ち込む感じが無い。木瓜の花を取り合わせて老耄をうたいながら、あっけらかんとして「あと三年あるぜ」と強がりを言う元気の良さが嬉しい。 (水 20.03.27.)

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八幡の隣は不動草の餅      徳永 木葉

八幡の隣は不動草の餅      徳永 木葉 『合評会から』(番町喜楽会) 双歩 草餅の置き所として相応しい題材ですね。 水牛 面白い。門前仲町の不動堂への道は「深川ご利益通り」なんて呼ばれて、縁日には大いに賑わいます。春には草餅屋も出ています。 水馬 富岡八幡の隣は深川不動。信心より食い気ということで、なんだか可笑しい。        *       *       *  筆者もこの句をとったが、票を投じた全員が、八幡は富岡八幡宮、不動は深川不動堂と断定しているのが面白い。関西の友人にこの句を見せたら、おそらく「これ、どこやろか。石切不動と石清水八幡はえらい離れとるしなあ」となるだろう。句会に、ほぼ同じような知見を持つ人々が集まることを前提にして、こういう句は成立している。  この句の最初の手柄は、ふたつの社寺が隣どうしであることを見つけて句に仕立てたこと。ふたつめは、それに季語の「草の餅」を取合せたこと。この取合せがなんともいえぬ俳味、面白さを感じさせる。くだんの関西の友人には「それで、どないしたんや。ちょっとも意味わかれへん」と突っ込まれそうだが。 (可 20.03.26.)

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風光る梨の新芽の力瘤      谷川 水馬

風光る梨の新芽の力瘤      谷川 水馬 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 「風光る」という兼題の句の中で一番にいただきました。春の力強さ、風の透明な感じが「新芽の力瘤」とよく合っていると思います。 光迷 「風光る」のイメージがよく表れていると思います。手入れの行き届いた梨の木の新芽が力瘤のように出てくる。春の息吹を感じさせます。 木葉 「風光る」「新芽」「力瘤」の三連発が効いています。 青水 季語が生きている句だと思います。「新芽」と「力瘤」が効いています。           *       *       *  「新芽の力瘤」がいい。寒さはまだまだ残っているのだけれども、梨の木は本格的な春に向かって、葉芽も花芽も徐々に膨らんで、力をみなぎらせている。「さあ春だ」と梨の木が力瘤を込めているのだ。新芽はごく小さいけれど、よく見ると小さいなりに盛り上がってまさに力瘤だ。  芽吹き始めた梨の木を見つめていると、人間の方もしゃんとした気分になる。「風光る」とぴったり合っている。 (水 20.03.25.)

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このままの往生ねがふ日永かな  金田 青水

このままの往生ねがふ日永かな  金田 青水 『この一句』  二十年ほど前、「死の瞬間」という本に出会った。米シカゴの病院で末期患者を診てきた女医、E・キューブラ―・ロスが患者との対話など臨床体験を記録、分析した著作である。そこでは患者の死の過程にはさまざまな姿勢があり、「否認と孤立」「怒り」「取り引き」「抑鬱」「受容」の五段階があると言う。  正岡子規の病床随筆を重ねてみると、うなずけることが多い。結核カリエスで仰向けに寝るしかない床で綴った「仰臥漫録」や「病牀六尺」の記述には、苦痛に苛まれての怒りや呻吟、絶叫、号泣がある。家人の介助のもとで筆を持ち、辞世の三句を書いた。  「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をととひのへちまの水も取らざりき」──その日のうちに昏睡状態となり、翌明治三十五年九月十九日午前一時、永眠。子規にとって生きることは書くことであり、最期まで筆を放さなかった。鉄人の死だと思う。  ひるがえって掲句。温かく気持もゆったり、伸びやかな春の日。このような平安の中で永遠の眠りにつきたいと、ごく普通の高齢者が持つであろう思いを「日永」の季語に込め、素直に詠んでいる。 (て 20.03.24.)

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あれ程の声が要るのか猫の恋    渡邉 信

あれ程の声が要るのか猫の恋    渡邉 信 『季のことば』  犬は人間に飼われていると思っているが、猫は人間を飼っていると思っている、と聞いたことがある。アテになる話ではないが、放し飼の彼らには飼い主のことなど全く考えていない様子が確かに見えてくる。特に恋の時期になると人目も人の耳もはばからず、恥ずかしげもなく鳴き叫びまくる。その響きはもの凄く、本能の赴くままと言う他はない。  酔ってうたた寝の作者は「猫の恋」の叫び合いに目を覚ました。初めは腹が立っていたが、遂には呆れ果てて「あれほどの声が要るのかね」と可笑しくなってきた。枕元から歳時記を取り出して目を通すと、「一匹の雌に数匹の牡が鳴き寄り」という記述があり、ライバルの存在に気付かされた。すさまじいあの声の源を思えば、同情心も湧いてくる。  考えて見れば彼らは、ライオン、虎、豹などの同族を代表する「ネコ科」の一員なのだ。犬などとはいささか違うレベル、と言えるだろう。遥かな進化の旅の果に、人間に飼われているような状況に置かれているが、春を迎えれば、本能の赴くままも仕方のないところ。翌朝、奴は駐車場の車の上に寝そべり、一家の主人が出かけるのをジロリと見ていた。 (恂 20.03.23.)

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春の日や伸びして伸びぬ身と心  斉山 満智

春の日や伸びして伸びぬ身と心  斉山 満智 『季のことば』  「春の日」は暖かい春の陽射しと、のどかな春の一日の二通りの意がある。句によっては両方の意味を持たせたり、どちらともつかない作品もあるというユニークな季語だ。この句はどちらだろう、両方かもしれない。  麗らかな春のある日、作者は窓に差し込む春の陽射しを全身で受け、太陽に向かって思わず伸びをしたのだろう。ところがである。腕が思うように真上まで上がらず、無理をすると痛い。「あちちち」と小さく悲鳴を上げたかも知れない。五十肩は誰しも経験あると思うが、寿命が延びた今では六十肩や七十肩も珍しくない。肩関節は複雑で様々な筋が肩と腕を支え繋いでいて、その筋が老化で固くなり無理に耐えかねて炎症を起こすのが原因だそうだ。  作者はさらにたたみ掛ける。心も錆び付いてしまった。若い頃は伸びやかでしなやかな感性を持っていたはずなのに、と。しかし、この句からはあまり切実な印象を受けない。むしろ気持ちにゆとりすら感じるのは、季の働きのおかげもあるのだろう。 (双 20.03.22.)

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蛤の舌だし泳ぐ太平洋   野田 冷峰

蛤の舌だし泳ぐ太平洋   野田 冷峰 『季のことば』  蛤は春の季語。特に雛の節句の御馳走には蛤の吸物が欠かせない。これは蛤の貝殻の模様と真っ白な内側との対比が美しく印象的なこと、さらには貝殻の内側に金蒔絵を施し和歌を記した「貝合せ」という女子の遊び道具になったことなどが元になっている。また、その貝殻は他の貝殻とは決して合わないので、「二夫にまみえず」という封建時代の女子教育観にも添うものでもあった。  句会では「ウソつけ、と思わず言ってしまいそうなほど巧みな句だ。極めつけは下五の太平洋」(青水)という評があった。確かにこの句の面白さは、蛤が潮干狩の手を逃れて「あかんべー」と舌を出しながら悠然と太平洋を泳ぐという「見てきたようなウソ」をしゃあしゃあと詠んだところだろう。古代中国人は海上に城や巨船が浮かぶ現象を「蜃気楼」と名付けた。「蜃」という途轍もなく巨大な蛤が吐き出す「気」というわけだ。この句の蛤もその仲間かも知れない。  蛤は浅蜊や汐吹貝などよりかなり深い所に居る。そして海水温が急変したり、汚れたりするとさっさと移動する。「一夜に三里走る」とも言われる。あの大きな舌(足)を使って、海水を吸っては吐き出しながら好きな場所を探すのだろう。 (水 20.03.20.)

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