土手道に瀬音聞こゆる春隣    中村 迷哲

土手道に瀬音聞こゆる春隣    中村 迷哲 『季のことば』  「もうすぐ春だ」という気分がしみじみと伝わって来る、実にいい句だと思う。  この土手道はかなり高くて、流れは下の方にあるのだろう。石垣とか、岸辺の枯れ残った茂みなどに遮られて、流れそのものは見えにくくなっているが、小川の流れる音は聞こえる。うらうらとした陽射しの中、瀬音が軽やかに聞こえる。「春隣」という季語の雰囲気を実に上手く伝えているなあと感じ入った。  「はるどなり」という季語は「春近し」の傍題とされており、同じような意味合いに解釈されている。しかし、「隣」にまで来ていると言うのである。「近し」よりずっと切迫感が強い。春はもう直ぐ其処、手が届く所に来ていますよという“わくわく感”に溢れている。  それだけに季語としては賞味期限が非常に短いものとも言える。立春の前、せいぜい一週間というところだろうか。それはつまり、最も寒さの厳しい大寒の最中である。襟を掻き合わせながら、待ちかねた春を感じ取る。土手道に春を告げる瀬音を聞くというのが、それを遺憾なく表している。 (水 20.02.05.)

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歩こうか日射しは温し寒の入   大平 睦子

歩こうか日射しは温し寒の入   大平 睦子 『この一句』  うきうきするような句である。「寒の入りというのに、ぽかぽか陽気。こんな日に家の中に居るなんてもったいない。外に出ましょうよ」と。万歩計をつけて、中高年女性は実に元気だ。  それにしても令和元年から2年にかけての冬の暖かさは異常としか言いようのないものだった。「寒の入」の1月6日は東京近辺で13℃もあった。1月20日の大寒は、評者の住まう横浜の自宅庭先の寒暖計が午後2時でなんと15℃になった。寒中に20℃を越える日が幾日もあった。  寒さが身体に響く高齢者にとって暖冬は有難いのだが、各方面に悪影響が生じる。まず、農業。野菜が無闇に育ってしまう。出荷時期を見計らいながら育てているのに、急に大きくなってしまうと一大事である。その上、寒くならないから害虫が死なない。全世界を震撼させている新型コロナウイルスも、もしかしたらこの「寒くならない冬」と関係があるのかも知れない。  しかし、あれこれ思い悩んでも仕方が無い。この句の作者のように元気を出して歩くのが一番だ。もう本日は立春である。 (水 20.02.04.)

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ギャー泣きの妹を背に鬼に豆   須藤 光迷

ギャー泣きの妹を背に鬼に豆   須藤 光迷 『この一句』  一読、吹き出してしまった。鬼を見て「ギャーギャー」泣きわめいている幼い妹をおんぶした姉が、果敢に鬼と対峙してる情景が浮かんだからだ。何とも微笑ましい句だと思った。ただ、昔と違って、現代俳句は卑俗な言葉遣いを嫌う傾向があるので「ギャー泣き」はいかがなものかと、ちょっと採るのをためらった。結局、俳諧味があって面白いからと選んだが、賛同する人はいないような気がした。ところが、句会では「叙述が楽しい」(水兎)や「下卑た物言いは嫌いなのだが、この場合はかえって効果的で面白い」(水牛)などと好評だった。  ネット情報によると、乳児が激しく泣きわめくことを「ギャン泣き」というらしい。小児科医による「ギャン泣きの対処方」などというのもある。つまり「ギャン泣き」が一般的のようだが、「ギャー泣き」は作者の造語かもしれない。  作者によると、兄が鬼の着ぐるみを纏い姉妹に襲いかかるという本格的な節分だそうだ。単なるお面だけの鬼とは違い、そりゃあ幼い妹は驚いて大泣きしそうだ。ともあれ、「ギャー泣き」を詠んだ句は他に例があるとは思えず、とてもユニークでユーモラスな一句だ。 (双 20.02.03.)

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冴ゆる夜や満天の星怖きほど   井上庄一郎

冴ゆる夜や満天の星怖きほど   井上庄一郎 『この一句』  山を愛する作者を思えば、この句はどこか名峰での体験ではないだろうか。冴え冴えとした冬の夜は殊に空気が澄み切って、星がまさに手が届くほど近くに感じられる。登り終え、山小屋に着いた後は疲れも相まって早々と眠りに落ちたが、ふと目覚めて外に出てみたら、見渡す限り満天の星。壮大な宇宙空間の中のちっぽけな自分を認め、思わず身震いするほどの畏怖の念を抱いた。というような情景を「冴ゆる夜」に託した、とてもロマンチックな句だ。  筆者にも似たような経験がある。ヨーロッパの田舎町での夜だった。新月だったのだろう。粒の大きな星が降り注ぐようにひしめき合っていた。怖くて怖くてなるべく星空を見ないように、下ばかり見ていた記憶がある。  真の闇の中で見る濃厚な星空を怖いと感じる人は結構いるようで、この句は共感する人が多かった。夜空が明るい都会では満天の星は望むべくもないが、宇宙に広がる星々は、本当は怖いほど美しいのだということを、改めて思い出させてくれる一句だ。 (双 20.02.02.)

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