スタートの号砲間近淑気満つ   向井 ゆり

スタートの号砲間近淑気満つ   向井 ゆり 『季のことば』  淑気(しゅくき)は、角川歳時記によれば「新年の天地に満ちる清らかで厳かな気」を意味する季語。俳句以外ではまず目にしない。例句には山や海の景を取り合わせたものや神社で詠んだものが多い。これに対し掲句は、正月の駅伝風景に淑気をぶつけている。  正月に号砲の鳴るスポーツは駅伝しかない。実業団のニューイヤー駅伝も考えられるが、ここは二日朝に大手町をスタートする大学生の箱根駅伝と解したい。各校の第一走者が母校の襷を胸にスタートの号砲を待つ。その一瞬の静寂と緊張感が、季語の淑気とマッチしている。  新年の初句会では駅伝を詠んだ句が掲句を含め4句もあり、いずれも兼題の淑気と取り合わせていた。箱根駅伝は全国的に人気が高く、正月スポーツの定番となっている。お屠蘇気分の抜けない二日、三日に沿道やテレビの前で、若き学生が懸命に走り、襷をつなぐ姿を見る。「ああ、正月だなー」と思う気持ちが、淑気を呼び寄せているのであろう。 (迷 20.01.20.)

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ごまめ煎る気長な妻のありがたき  工藤静舟

ごまめ煎る気長な妻のありがたき  工藤静舟 『この一句』  何とも羨ましい夫婦――この句を目にしたときの感想が、これだった。従って、迷わず頂戴した。初句会でのことである。想像するに、年末、奥様が台所で田作を作ろうとして、ごまめを煎っているのだろう。煎った後、醤油に砂糖、味醂をあわせた甘辛い汁を絡めれば、お節料理の一品が出来上がる。すでに金柑の甘煮なども用意され…。  「羨ましい」と思ったのは、妻に素直に「ありがたき」と思えること、さらに、それを句に仕立て、他人に言える姿勢、生き方である。かつての日本男児云々はともかく、現代の若い男性でも、妻に対する感謝の気持ちを、こんなに素直に口に出せるものではあるまい。それを外連味なく言いおおせる所に、愛情の深さが感じられる。  句会では、酒豪の男性が「ごまめを煎るのは自分の役割」と言えば、「煎ったばかりの香ばしいごまめは酒の肴にぴったり」など、しばし談論風発。最後に作者が「毎年、飲み会に煎ったごまめを持って来る人がいて…」と、照れ隠しのような逃げを打ったが、その言葉は句座の面々の耳に残ったかどうか。 (光 20.01.19.)

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釣ったのは空飛ぶジャンボ恵比寿神 岡田鷹洋

釣ったのは空飛ぶジャンボ恵比寿神 岡田鷹洋 『おかめはちもく』  初夢の句かと思うかも知れないが、1月4日に句友連れ立って七福神巡りをした際の吟行句である。品川宿近辺の旧東海道を歩いたのだが、街道に沿って鮫洲、青物横丁など商店街が続き、由緒ある社寺が散在している。門前に江戸六地蔵の一体が鎮座する品川寺で、羽田空港の飛行ルート変更に反対する市民運動家の一群に遭遇した。商店街の真上をジャンボジェット機が飛ぶことになり、危険だと訴えるビラを参拝客に配っていた。  掲句はその見聞を下敷きにしているが、七福神の一人である恵比寿様を登場させ、人間界の騒動を笑い飛ばしている。雲の上で豪快にジャンボ機を釣っている恵比寿様の姿が浮かんできて、俗世を忘れ愉快な気分になる。  ただこの句には季語がない。作者は「恵比寿神」で、季語の「七福神詣」をイメージさせたかったと思われる。確かに、七福神のどれかを入れれば新春福詣を示すことになるという説もあるのだが、ちょっと無理なようだ。ここは例えば「初空やジャンボ釣り上ぐ恵比寿神」など、新年らしい季語を入れてみてはどうだろう。 (迷 20.01.17.)

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巡り終へ酒席に揃ふ七福神    中村 迷哲

巡り終へ酒席に揃ふ七福神    中村 迷哲 『合評会から』(東海七福神吟行) 双歩 これが楽しみでえっちらえっちら旧東海道を上ってきたようなもの。喉の渇きを癒やす「モルツ」が美味で、台湾料理によく合ってました。 鷹洋 大団円でしたね。うまいところに着眼しました。呑み助は七人を越えていたが。 木葉 そうでしょう、七福神は身近にいました。新年会を兼ねた打ち上げの和気藹藹を気持ちよく詠い上げた。台湾料理の味加減とともに結構でした。 春陽子 打ち上げの席に七福神が招待されていたなんて、楽しい発想の句です。酒席の楽しさが伝わって来ます 命水 打ち上げの場は福の神ばかりでした。           *       *       *  品川神社で大黒天に福徳を祈って令和2年の七福神吟行は大団円。いや、七福巡りは鱈腹飲みかつ食べるための腹ごなしと心得ている面々だから、北品川商店街の庶民的台湾料理屋「游羅」の飲み放題宴会は大賑わい。この吟行を設営してくれたのが、この句の作者。いかにもほっとした感じが伝わって来る。 (水 20.01.16.)

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賽銭を小出しに供え七福神    植村 博明

賽銭を小出しに供え七福神    植村 博明 『合評会から』(東海七福神吟行) 青水 七福神巡りを含め、寺社へ詣でる際に欠かせないのがお賽銭。この心得があり、事前にしっかり用意していた人とそうでない人。中七がそそくさと拝礼する手練れの姿を素直に述べていてうれしい。 斗詩子 七つも巡るので小銭入れをポケットから出したり入れたり忙しい。ご縁というから五円、いやそれで一年の願い事とはちとあつかましいか。十円や五十円でも少ないか。でも五百円は大きすぎる、などなど考えつつチャリーン。 冷峰 私は百円玉を用意しました。上手がいました。ご縁がある様にと五円玉をビニール袋に用意して。さすがですね。          *       *       *  最低でも七カ所、場合によっては+αとなると、「えいやっ」と奮発もしかねる。「俳句の上達を願うのだから、弁財天だけ倍に」というのも何か変だ。とすると、身の丈に合った金額は…という深~い悩み、よくわかります。それにしても、拝殿の前でガサゴソせず、さりげなく賽銭を取り出し、親が子に作法を教えつつやって見せ、詣でる姿は、見ていて清々しい。気持ちよくなりますね。 (光 20.01.15.)

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富士塚や四日の海も橋も暮れ   須藤 光迷

富士塚や四日の海も橋も暮れ   須藤 光迷 『この一句』  この句は令和二年一月四日の「東海七福神」吟行で詠まれた。富士塚は七番目の参詣場所となった品川神社の境内にある。季語は「四日」である。「元日」のみならず、「二日」「三日」「四日」「五日」「六日」「七日」と七草までは毎日が季語になっていて、それぞれにきちんと本意がある。「四日」は「三が日が済んで、この日を仕事初めとするところが多い」と説明される。この日は土曜日であったために、実際の「仕事初め」は六日の月曜日だったのかもしれないが、やはり街の中には、世間がまた元の通り動き始めたという気分が濃厚にあった。  東京近辺には富士塚や浅間神社はたくさんあるが、ここの富士塚はその中でもひときわ高く、登山口などもあって立派なこしらえのものである。筆者は残念ながらこの日は富士塚に登れなかったが、おそらく作者の目には、レインボーブリッジや東京湾が見透せたのではないかと想像する。「暮れ」の二文字は、それが茜色の夕焼けに染まる光景であったことと、「正月もあっという間に終わってしまったなあ」という思いで詠まれたことの両方を想起させてくれる。広重の描く浮世絵を見るような詩情豊かな句である。 (可 20.01.14.)

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疊屋の旧字古びぬ初仕事     嵐田 双歩

疊屋の旧字古びぬ初仕事     嵐田 双歩 『季のことば』  新年1月4日に句会恒例の七福神巡り吟行を催した。今年は旧東海道に沿って品川宿近辺の7社寺を回った。掲句は青物横丁商店街にある畳屋を詠んだもの。江戸時代から240年続く老舗で、仙台藩の御用を務めていた由緒がある。店構えは古く、看板の「疊」の字も旧字で書かれている。 店内を覗くと松も明けぬうちから、七代目という店主が忙しげに立ち働いている。「初仕事」は「仕事始」と同類の季語で、新年に初めて仕事に取りかかることをいう。今年は暦の関係で役所や企業は6日が仕事始めとなったが、例年であれば三が日を終え、4日に仕事始めというところが大半だろう。 作者は畳屋の古びた外観と対照的に、4日から精力的に働く主人の姿に老舗を守り続けようとする意気込みを感じたのではないか。「旧字古びぬ」という巧みな言い回しが、そうした思いと初仕事の清新な緊張感を伝えている。 (迷 20.01.13.)

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松明けて朝のトースト匂ひけり  宇佐美 諭

松明けて朝のトースト匂ひけり  宇佐美 諭 『季のことば』  朝食はご飯かパンか。男性はご飯派がやや優勢、女性はパン派がやや優勢。年代別では意外なことに、若手の二〇~三〇歳代はご飯派がやや優勢、四十歳以降はパン派がやや優勢だとか。ともかくご飯派、パン派はいい勝負だが、「両方」「交互に」派も多く、朝のトーストの香りで「正月の終り」を感じる人が非常に多い、と言えるのだろう。  ところでトーストの香りとは? 私(筆者)はパンが少し焦げた匂いだろうと思っていたが、そこにバターを塗った香りだ、と言う人がいて、分からなくなってきた。ネットで調べてみたら、「焼きたてトーストの香りの香水がイギリスで開発された」というような情報ばかりが出てきて、匂いの正体は不明のまま。  我が家の場合、正月の三が日は雑煮お汁粉などの餅が朝の定番。それからはご飯かパンのどちらかとなるが、退職後の朝はご飯が圧倒的に優勢になった。そうか、トーストは出勤日の朝の定番だった、と気づく。この年末年始は“九連休”だとか。トーストは松明け(七日)の頃から匂い出すはずである。 (恂 20.01.12.)

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古都大路信号守る冬の鹿     谷川 水馬

古都大路信号守る冬の鹿     谷川 水馬 『おかめはちもく』  鹿が街と生活に溶け込んでいる奈良らしい光景である。鹿は人と車の動きをよく見ており、あたかも信号を守っているように交差点を横断する。奈良公園の周辺でよく見られるようで、ネットにも目撃談や動画がアップされている。  句会でも「実体験を上手に句にした」「鹿は団体行動をするので信号を守っているように見えるのだろうが、上手く詠んだ」と点を集めた。古来、神の使いとして保護されてきた鹿が、現代社会のルールである信号を守って共存しているところに面白みが感じられる。  ただ「鹿は秋の季語なので無理やり冬を付けた感じだ」、「古都大路に鹿とくれば、ややくどいので古都は不要では」との指摘があった。作者によれば実際に見たのは鹿の親子が交差点を渡っている光景で、本当はその親子を詠みたかったとのこと。  そこで出てきた改善案が「冬大路信号守る親子鹿」。子鹿を守り注意深く道路を横断する親鹿の姿が浮かんできて、さらに趣の深い句となった。句会の衆知を集め、作者も納得の添削ではなかろうか。 (迷 20.01.10.)

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一匹の逝きて二人の年の暮    廣田 可升

一匹の逝きて二人の年の暮    廣田 可升 『合評会から』(日経俳句会合同句会) 弥生 「一匹」と「二人」の対比が効いています。大切な一匹が死んだ情感がよく出ています。 十三妹 我が家も猫三匹が一匹ずつ死んでいって、最後の一匹が死ぬと、夫婦のかすがいが無くなったようで家が寒々としてきました。 水馬 私のところは半年くらい看病したハスキーが死んだ。ものすごい存在だったのでまさにこの感じです。 てる夫 年の暮れにこんな状態になると本当に寂しいんだろうなと。たまらずにペットショップに出かけるのだろうかなどと想像していただいた。 静舟 老後、家族同様の愛犬愛猫の喪失感がしみじみ。        *       *       *  作者によると飼猫が二十二年と七カ月で死んでしまったのだという。人間なら優に百歳超えの大長寿。晩年はしょっちゅう医者通いで、最後までやり切った感じだそうだが、家族同然の存在だったから哀しみはかなりのもののようだ。近ごろはペットも長生きするから、こうした光景がそこかしこに生じる。 (水 20.01.09.)

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