街路樹の細き枝先月冴ゆる    久保田 操

街路樹の細き枝先月冴ゆる    久保田 操 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 「月冴ゆる」という季語に実によく合った情景。 三代 葉っぱを落とした街路樹の細い枝先だけでも冴え渡る感じ。その先に月があるという。情景が浮かぶようだ。 昌魚 中七の「細き枝先」がいい。いつぞやの満月も綺麗に見えたなあと。 守 今年は異常な暖冬で、私にはまだこのような夜はありませんが・・。 雅史 葉を落とした枝越しというのは趣があります。 正市 「細き枝先」とまで言い切ったのが効果的。             *       *       *  蕪村の高弟高井几董に「冬木立月骨髄に入る夜かな」という名句がある。自分でも気に入った句らしく、連句の手引書の中で、「月の光も骨身にしむやうな夜ぢやといふを、月も骨髄に透るばかりかなと作ったものぢや」(『付合手引蔓』)と述べている。掲句は同じ雰囲気を詠んでいるが、あっさりと表現しているところが好感が持てて、却っていいように思う。句会でも好評を博した。 (水 20.01.31.)

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凍鶴やモノクロームの風のなか   印南 進

凍鶴やモノクロームの風のなか   印南 進 『この一句』  第二次大戦の終戦後間もない頃、東京・井の頭公園の動物園に鶴が飼われていた。寒いさ中のこと、悪童たち数人と公園に遊びに行って、檻の中の“動かぬ鶴”に出会 い、しばらく見つめていたことがある。全く動かぬ大きな鳥を見て、何で動かないのか、と不思議に思った。  あの時の鶴は一本脚で立っていた。もう一方の脚は胴の中に抱え込む形だったと思う。悪童の一人が、あの脚に石をぶつけたらどうなるか、と言った。鶴は金網に囲まれた広い檻の中にいた。たとえ石を投げたところで、金網に阻まれていただろう。もう七十年の時が立っているが、一本脚で立つ鶴の姿が忘れることは出来ない。  句会では「モノクロームの風」を称賛する声が多かった。風に色はないはずだが、言われてみればあの時も風が吹いていたような気がする。たしかに「モノクロームの風」は洒落ている。凍鶴にまさに相応しい風だ、とも思う。その風の中に、ふと赤色が浮かんで来た。あの時の凍鶴は丹頂だったに違いない。 (恂 20.01.30.)

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星冴ゆる一直線のハイウエイ   高石 昌魚

星冴ゆる一直線のハイウエイ   高石 昌魚 『季のことば』  「星冴ゆる」は「月冴ゆる」とともに、「冴ゆ」という真冬の季語の派生季語である。寒さがとことん進むと、身体がキーンと引き締まる。大気は澄んで、ものが鮮明に見えるようになり、音もよく透る感じになる。  この句は星が冴えざえと輝く夜、一直線に延びるハイウエイを走っているとストレートに詠んでいる。これが引き締まった「冴ゆる夜」の雰囲気を遺憾なく伝えている。  アメリカやカナダ、オーストラリアなどの大平原の星空が思い浮かぶ。あるいは北海道でもいい。疾走する車がまるで止まったような感じで、長い長いコンベアーに載せられて、そのまま星の夜空に吸い込まれていくのだ。気の遠くなるような景色である。  と、大陸の夜景ばかりを思い描いていたのだが、先日、とある用事で都内に出た帰り道、第三京浜を走る車の中からこの情景を見た。それはものの一〇数分ではあったが、星冴ゆる一直線のハイウエイだった。こんな広々とした星空が、こんな身近にもあったんだなあと妙に感心した。 (水 20.01.29.)

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月冴えて語り出したる影法師    中村 迷哲

月冴えて語り出したる影法師    中村 迷哲 『合評会から』(日経俳句会) 豆乳 「語り出したる影法師」という言葉が面白くて採りました。若い人が歩いていて急に語り出したのかな。 青水 解釈を読者に任せすぎかなと思った。 阿猿 誰の影法師なのか、何を語っているのか。よく分からないが、なんだか気になった句。 雅史 影法師が語り出しそうに思えるほど冴えて、鮮明なのでしょうか。 明生 影法師は自分自身に語りかけているのか。どこか謎めいた感じ。           *       *       *  1960年、学生演劇に没入していた頃、文学座が『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット)という「不条理演劇の傑作」を上演、衝撃を受けた。舞台装置は立木が一本だけで、二人の浮浪者がゴドーなる人物を待っている。ゴドーが誰なのか作者は語らず、結局、現れないまま芝居は終り、観客は狐につままれた気持。私もその一人だったのだが、何故かこの時、「ああ独文でなく仏文に行くべきだった」と思ったものである。そんなことを思い出させる句である。 (水 20.01.28.)

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獅子舞に暫し華やぐ下駄屋前   玉田春陽子

獅子舞に暫し華やぐ下駄屋前   玉田春陽子 『合評会から』(東海七福神吟行) 可升 一心寺の門前で偶然獅子舞に出会いました。あの時の情景を素直に詠んで過不足なく、好感が持てます。「下駄屋前」の下五がきいています。 幻水 旧東海道の珍しくまだ残っている下駄屋の前で獅子舞が行われ、街が暫し華やいだ。 白山 久しぶりに本格的な獅子舞。老舗の下駄屋の心意気を見ました。 命水 獅子舞がいるだけで雰囲気が盛り上がります。           *       *       *  かつての正月をしみじみ思い出させる光景である。それは、この句を採った四人が口を揃える、獅子舞と下駄屋という舞台装置のもたらす効果にほかならない。この獅子舞は、二人立てで、お囃子部隊が付属した立派なものだった。  それにしても、日本の正月はどこに行ってしまったのだろう。初詣の寺社は混み合っているものの、賽銭を上げるよりスマホでの自撮りに熱中したりして。独楽も羽根突きも凧揚げも見られなくなった。それがグローバリズムのせいなら、そんなものは要らない。掃き捨ててしまいたい。 (光 20.01.27.)

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女正月馴染みの店へ二人して   井上庄一郎

女正月馴染みの店へ二人して   井上庄一郎 『この一句』  女正月(おんなしょうがつ)は、小正月の別称で1月15日を中心に祝われる正月をいう。元日の大正月を男正月と言うのに対応したもの。年末年始に多忙だった女性が15日頃にやっと手が空いて、年始回りに出かけたり、食べ物を持ち寄って女性だけで慰労の集まりをする。  掲句は、年末年始に子供や孫の世話で忙しかった妻を思いやり、馴染みの店に連れ立って出かける老夫婦と読み解き、一票を投じた。句会では「スイーツも酒も持ち寄り女正月」(徳永木葉)という別の句に票が集中した。スイーツという現代的な言葉と、古い行事である女正月を組み合わせ、伸びやかに生きる女性を活写した句で、宴の様子まで浮かんでくる。  スイーツの句が女正月の本義を踏まえつつ、現代の世相を巧みに詠み込んだ佳句であることに異論はないが、労わり合いながら馴染みの店に出かける老夫婦の姿も心に残る。女性活躍社会と超高齢化社会という、現代日本の縮図が女正月に二重写しになっている。 (迷 20.01.26.)

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鳥来るを待つ千両のつぶらかな  水口 弥生

鳥来るを待つ千両のつぶらかな  水口 弥生 『この一句』  冬季に熟す赤い実が珍重される千両、常緑の小低木である。花が絶え色彩を失った庭園のアクセントに、正月飾りの花瓶に欠かせない役者として珍重される。  この句の際立つ措辞は「鳥来るを待つ」であろう。庭師は鳥が来て千両に群がるのを嫌う。「実千両」を食べつくすからだ。その鳥を待つと置いた作者の意図を考えた。もちろん赤い実を鳥に食べさせたい気持ちなどあるはずがない、と思う。しかし、待てよ、心優しい作者のことだから、もしかしたら食べ尽くされてもいいや、という気分なのかも知れない。どちらか確定はできないが、とにかくこの実を早く鳥たちにも見せてやりたい、「みせたがり」の気持を込めたものにちがいない。 千両になり代わって「鳥を待つ」と言い放ったことにより、「実千両」を強調する効果を発揮した。「つぶら」という柔らかな表現で円い実を飾ってもいる。五七五の十七音、一気に読ませるリズム感も心地良い。地味で静かな詠み方だが、いかにも新年句会にふさわしい一句だった。 (て 20.01.24.)

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台風で壊れし家に松飾      竹居 照芳

台風で壊れし家に松飾      竹居 照芳 『合評会から』(三四郎句会) 雅博 これは昨年の災害に見舞われた家でしょう。 進  被害の跡片付けはそのまま。家は倒れたままなのだ。 久敬 台風禍そのままの家に松飾。こういうところに日本人の心情が感じられる。 照芳(作者)千葉県は台風禍に水害も酷く、本当に大変だったらしい。そんな状況をテレビで見続けているので・・・。      *        *          *  一月半ばの句会に投句された作品。句を見たときは「松飾」に時期遅れを感じたが、合評会の言葉を聞いて「そうだったのか」と了解した。家は台風禍によって、倒壊したままだった。家族は無事だったにしても、その家にはもちろん住めない。暮も押し詰まった頃、仮の住居に住む家族が家の跡にやって来て、壊れた家の玄関辺りに松飾を置いて行ったのだ。  松過の頃になっても、松飾は残っていた。近隣の人々は松飾を見ながら通り過ぎ、 「たいへんだなぁ」とかつての隣人の生活を思いやる。潰れた家はいつまでこのままにしておくのか。あの人たちは、もうここに戻ってこないのか。自然災害に心を痛める心は、国民共通のものと言っていい。 (恂 20.01.23.)

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除夜の鐘ゴーンと鳴るは逃げた後  荻野雅史

除夜の鐘ゴーンと鳴るは逃げた後  荻野雅史 『この一句』  日産自動車の元会長カルロス・ゴーン被告のレバノンへの逃亡劇は、昨年末のビッグニュースとして世界を驚かせた。この句はそのドタバタ劇を詠んだ時事句として人気を集めた。もっとも、採った人たちは「なんだか川柳っぽいが」と付け加えていた。ではどこが川柳のようなのか、俳句と川柳の違いはどこにあるのかを考えた。  和歌をルーツとする俳句と川柳は兄弟みたいなものだ。和歌の五七五の上句と七七の下句を別々の人が詠む遊びから連歌が生まれ、より遊戯性の高い俳諧連歌(連句)になり、その発句が独立して俳句となった。そして連句の四句目以降の自由自在に詠める「平句(ひらく)」が川柳になったという。川柳は話し言葉を積極的に用いて人情の機微やタイムリーな話題を詠み、今日も確固たる文芸の一ジャンルを占めている。軽みやおかしみを重視し、毒を孕んでいることも必要だとか。掲句は概ねこの条件に合致している。  この句が連句会で詠まれていたら、喝采を浴びただろう。大晦日に楽器の箱だかに潜んで逃れたゴーンを除夜の鐘に合わせた機知あふるる詠みっぷりにはほとほと感服した。 (双 20.01.22.)

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枯むぐら除けるや蕗の薹二つ   大澤 水牛

枯むぐら除けるや蕗の薹二つ   大澤 水牛 『この一句』  この句は「季重なり」の句である。俳句は一般的には「季重なり」を嫌い、仮に使う場合でも複数の季語の軽重をはっきりさせることを求める。季語の力を殺ぐなという戒めだろう。  この句の季語、ひとつは「枯むぐら」で冬の季語、もうひとつは「蕗の薹」で初春の季語である。「季重なり」であることに加えて、異なる季節の季語を重ねた句である。しかもその二つの季語をうまく使い分け、季節の移り変わりを大変効果的に表現している。一句は、冬を「除けるや」春がそこに芽生えていた、という発見の喜びを伝える句に仕上がっている。これは意図して「季重なり」で詠んだ、手練れの作者の句に違いないと確信した。作者が判明してなるほどと思った。  この光景は作者が自分の家の庭で実際に経験したことらしい。いつもの年ならまだ芽生えてないはずの蕗の薹が、暖冬のせいで芽を出していて驚いたのがもとになっているという。この発見が、環境変動に伴う異常気象がもたらしたものだとすれば、単純に喜んでいる場合ではないのかもしれない。しかし、それは人の罪であって、蕗の薹の罪ではない。ひとまずは素直に、この美しい句を味わいたい。 (可 20.01.21.)

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