耳うとき身にも沁みるや初時雨  山口斗詩子

耳うとき身にも沁みるや初時雨  山口斗詩子 『季のことば』  耳うときという表現にちょっと立ち止まった。「うとい」では関心や関係が薄い、不案内だという意味がすぐ浮かぶ。辞書を引いてみた。目や耳の機能が十分に働かないとも意味すると分かった。それはさておき季語「時雨」である。由来、季語は情緒・詩情があり句作りの発想を広げる機能を持っている。時雨などもいつの時代から使われるようになったのか勉強不足で知らないが、なんとも情緒豊かな語彙のうちの一つである。「時雨する」と形容動詞として使っている薄田泣菫の詩もあった。それに「初」を付ければ詩情満点になる。  初時雨は冬の始まりを告げる気象上の現象のみならず、心の内を響かせる季語だ。この句の作者はもちろん老年のご婦人だが、詩情を詠んだものではない。耳の機能に自信を失くされているのだろう。自宅の部屋にいて窓を見れば雨。降ったり止んだりするが、ややもすれば耳には届かない。それでも冬に向かう厳しさだけは感じ取れる。「初」がことに身に沁みるという、作者の心情を表した佳句だと思う。 (葉 19.11.19.)

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