柿すべて鳥の餌となり里老いる 岩田 三代
柿すべて鳥の餌となり里老いる 岩田 三代
『この一句』
初夏の柿の木、「柿若葉(かきわかば)」の瑞々しさは、道端でつい脚を止めて見上げてしまうほど、魅力的だ。晩秋の柿の木にも朱、紅、黄の入り混じった「柿紅葉(かきもみじ)」がある。実りの方にも目が行く。落葉してすっかり裸になった木々に色づいた実が陽を浴びて輝くさまは感動的である。
この句が言い切っているように、暮の秋に実をたくさん残したまま立っている柿の木の庭が増えた。長野県上田市の農耕地帯に移住して最初の年に、農協スーパーで干し柿用のタコ糸を買い、吊し柿に挑戦した。しかし最初の一年で止めた。細かい作業が面倒で、出来も上手くない。甘柿だったので、採って食べることだけになった。
毎年、決まって吊し柿の作業をしていた近所の老婦人もいつの間にか止めた。高齢で根気がなくなったのだろうか。こうして近所を見まわしてみると、晩秋の裸木に鈴なりの柿という景色が目立ってきた。そのうちに烏に突かれた残骸がぶらさがり、木枯らしに揺れる寂しいシーンになる。句の言う「里老いる」の世界である。
(て 19.10.31.)