釣り糸は海にあづけて秋の雲   嵐田 双歩

釣り糸は海にあづけて秋の雲   嵐田 双歩 『季のことば』  海辺で釣りをしている人が、ふと空を見上げると秋の雲が浮いていたという、長閑な光景を詠んだ句である。「風に吹かれて空の雲を眺めている。のんびり感に一票」(てる夫)、「釣りを楽しむゆったり感が『海にあづけて』の表現に出ている」(命水)など好感する人が多く、番町喜楽会の九月例会で最高点を得た。  秋は大気が澄み、高層の雲が見えるようになる。気象用語でいう巻積雲、高積雲、巻雲などが代表的で、「秋の雲」が季語となっている。鰯雲、鱗雲、鯖雲といった雲の名も秋の季語だ。  釣り好きは短気な人が多く、竿や浮きの細かい変化を見逃さないという。しかし作者は釣りの初心者なのか釣果がなかったのか、釣りをあきらめ、空に目を転じている。「海にあづけて」の措辞からは、秋の雲に心を遊ばせる余裕が感じられる。  釣り人が見つけた秋の雲は、どんな雲であろうか。やはり鱗雲か鯖雲か、釣れなかった魚につながる雲であろう。 (迷 19.09.30.)

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秋の雲さらに高みに飛行雲    澤井 二堂

秋の雲さらに高みに飛行雲    澤井 二堂 『この一句』  飛行機雲の句はこれまでに何千、何万と詠まれているに違いない。「もう飛行機雲の句はたくさんだ」という人は少なくないし、「私は詠まない」と決めている人もいるようだ。しかしこの句は、そのタブーめいた「飛行雲」に挑戦し、句会では二点を獲得した。  駆け出しの新聞記者だった頃、先輩から「手垢のついた言葉を使うな」と何度も注意され、そのたびに「手アカのついた、という言葉もそうだ」と反発を覚えた。「飛行雲」も手アカ組なのか。かつては句会で何度も見掛けたが、最近はめったに出合わなくなった気がする。  掲句はまず「秋の雲」(兼題)とし、「さらに高みに」と目玉の言葉を置いて、珍しい様子を描いた。秋の雲のさらなる上に飛行雲が伸びていたのだ。そんな状況を確認したら、誰もがしばらく眺めているのではないだろうか。俳句はこんな状況から生れてくるものだ。大空は広い。飛行機雲のある風景もさまざまである。アッと驚くような飛行雲の句の登場を期待したい。(恂 19.09.29.)

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秋の声よいしょよいしょとペダル踏む 斉藤早苗

秋の声よいしょよいしょとペダル踏む 斉藤早苗 『この一句』  元気いっぱい、気持の良い句である。自転車の前と後ろに幼子を乗せて懸命に、しかし楽しそうにペダルを漕ぐ若い母親が浮かんできた。  しかしこの句は、保守的で伝統的な俳句を詠む人からは、「秋の声という季語の本意を踏み外した乱暴な句だ」といった小言をもらいそうだ。「本意」とは季語が担っている「意味合い、季節感、雰囲気」のことである。連歌から俳諧(連句)を経て俳句へと移り変わって行く中で、季節を表す言葉が重要視され、「季題(季語)」というものが定着した。季語は連綿と受け継がれ、取捨選択され、磨かれた。それは良いのだが、やがて「春雨はしとしとと艶な風情で降るもの」「秋の声は何の音とも知れず蕭条ともの哀しく伝わり響くもの」と詠むべきだ、といった「型」が出来た。当然の反応だが、そういう馬鹿馬鹿しい約束事を蹴飛ばして「無季俳句」が生まれ、定型すら無視する自由律俳句も生まれた。  この句は居丈高に旧弊を打破しようとしているわけではない。「秋の声」という季語から、そう言われれば毎日の自転車漕ぎにも秋らしさを感じるようになったと、自然体で詠んでいる。「秋の声」という季語の"鋳型"から抜け出して、それにふくらみを与え、生き返らせてくれたように思う。 (水 19.09.28.)

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月面を歩いた記憶あるような  向井 ゆり

月面を歩いた記憶あるような  向井 ゆり 『この一句』  この句を読んだ時、こんな詠み方もあるんだと驚きを覚えた。また、俳句はまぎれもなく定型詩であると改めて感じた。「作った」とか、「嘘だ」とかいう選評があったが、その通りだろうと思う。〈あの海〉を「海」とか、「ラ・メール」と発語した時、〈あの海〉は〈作った海〉、〈嘘の海〉になり、ほんとうの〈あの海〉から離れる。それが〈言葉の海〉の宿命であり、〈詩の海〉の始まりだろう。そして、一般的な〈あの海〉ではなく、作者の固有の〈あの海〉に近づこうとする。つくづく人間はややこしい生き物、妄想のかたまりみたいなものだ。  自句自解を求められた作者は、小学生の頃アームストロング船長の月面着陸を見て、記憶に焼きついてしまい、それ以来月を見るとこんな感じがすると説明した。おそらく「記憶あるような」という措辞は作者の奥床しさがそう表現させたものだろう。実際の気分は「記憶あり」ではないかと勝手に想像する。人が錯覚と呼びそうな、そんな「記憶」は筆者にもある。でもこうして結語し、詩にするのはたやすいことではないと思う。感性のみずみずしさのなせる技だと思う。 (可 19.09.27.)

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葡萄酒の赤の深さや秋の声    今泉 而云

葡萄酒の赤の深さや秋の声    今泉 而云 『季のことば』  秋の季語には「身に入む」、「色なき風」など感覚的で使い方が難しいものがある。「秋の声」もそのひとつで、明確な映像を持たないので、「帛を裂く琵琶の流れや秋の声 蕪村」のように、秋の声を感じる物や状況を句にすることになる。  掲句は葡萄酒の色で「秋の声」を表す。葡萄酒が声を発する訳はないので、赤ワインの濃い色に秋の気配の深まりを感じたということであろう。音の世界を色で表す発想・感覚が斬新で、迷わず一票を投じた。  句会では酒の種類をめぐってワイン談義となった。選者の大半は赤ワインをイメージしたが、色の薄いヌーボーを想像して採らなかった人、秋は白ワインだと譲らない人、果ては「秋は白(白秋)なので日本酒だ」という論も出て、酒好きの多いこの句会らしく笑いが溢れた。  ただ酒の色はともかく、赤ワインから秋の声を聴き取った作者の感性に共感した人は多く、この兼題の最高点を集めた。 (迷 19.09.26.)

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地続きに弥生の古墳秋の声    廣上 正市

地続きに弥生の古墳秋の声    廣上 正市 『季のことば』  秋の声とは秋風や虫の声など、実際の物音である場合もあるが、どちらかと言うと、心で聞く秋の物音である。音と言うよりは気配と言った方がいい。  自宅の庭の地続きの草ボウボウの小山がどうやら古墳らしい、そこから何とはなしに秋の声がして来る、とは実に面白い。文京区の弥生式発掘跡は今や跡形も無いが、板橋区、北区、大田区、川崎市、横浜市には住宅地の脇に古墳が肩身狭そうに残っているのを見る。  天皇陵と同定されたり推定されたりしたものはもとより、国や地方自治体が史跡に指定した古墳は勝手に穿り返してビルや施設を建てたりするわけにはいかなくなる。ということから、住宅地の真ん中に円墳、方墳、前方後円墳などが残ってしまう。こういうのが全国に数千あるという。  いつの時代に出来て、どんな人が眠っているのか、さっぱり分からない。現在の土地の持主にとっては困ったことかも知れないが、こういうものがぽこっと残されているのは、回りの人たちには何とはなしにほっとする感じもある。耳を澄ますと秋の声が聞こえて来るというのも頷ける。 (水 19.09.25.)

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身に入むや上総下総灯の消えて  廣田 可升

身に入むや上総下総灯の消えて  廣田 可升 『季のことば』  「身に入む」は難しい季語だ。主語がないので何が身にしみるのかが分からない。そもそも季感はなかった言葉だが、藤原俊成が「秋風身にしみて」と歌に詠んでから季感が定着したそうだ(「水牛歳時記」参照)。秋風の冷気に触発されて、世のはかなさや人生のあれこれを身にしみて感じる、というような季語という。  掲句は、関東を直撃した台風15号が去った直後に出された句だ。台風は千葉県のほぼ全域に著しい爪痕を残した。殊に停電による被害が大きく、復旧も大幅に遅れた。夜間の上空からのTV映像によると、車のライトが照らす道路以外は真っ暗闇。句のとおり、上総も下総もさらには被害の大きかった安房からも町の灯が消えたのだ。  作者や筆者を含め句会のメンバーには千葉県民が多く、当日はお互いの無事を労った。被害が軽かった人もいたが、停電が長引き酷い目に遭ったという人は「身に入むという季語は生ぬるい。そんなものじゃない」と不満そう。  時事句は往々にして賞味期限が短い。しかしこの句は、自然の中に生かされている人間の危うさ、はかなさを大仰な言葉を使わず抑えた表現で詠ったことで、後年に伝えられる俳句になったと思う。(双 19.09.24.)

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死に方もおしゃれな男秋の雲   大澤 水牛

死に方もおしゃれな男秋の雲   大澤 水牛 『この一句』  一読して、羨ましいと思った。そのように評価される人生、生き方(逝き方)が、である。いまの社会では「いかに生きるべきか」は熱く議論しても、「いかに死ぬべきか」は冷淡に扱われているのではないか。平均寿命と健康寿命の差が男で九年弱、女で十二年強にもなるのに(2016年)、「死に方」は避けて通られている。  最近「終活」なる言葉が跋扈している。相続の賢い方法だとか墓の仕舞い方だとかが核心らしい。少子高齢化になれば家は余る、墓も余るのは当たり前。病人が増えて医療保険の負担が重くなり、公的年金は先細りになるのも分かり切ったこと。なのに、高度成長時代の制度を改革しようと斧を振るうものはなく、日本はじり貧の道へ。  作者によると、この一句の主人公は「病気のことも死亡通知も一切するな、と言い残して死んで行った」とか。最近の政治家や財界人のことを口に出すのはよそう。これは死に方だけではなく出処進退に話を広げてのことだが…。いずれにせよ、この主人公の潔さに対しては頭を垂れるほかない。ぜひとも、あやかりたいものだ。 (光 19.09.23.)

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はな子亡き象舎秋風吹くばかり  大倉悌志郎

はな子亡き象舎秋風吹くばかり  大倉悌志郎 『この一句』  忘れかけていたが、「はな子」というタイ生まれの雌象がいた。戦後1949年初めて日本にやってきた。上野動物園の時代を経てから、3年前の2016年に井の頭の動物園で死亡するまで66歳の長寿を重ね数奇な運命をたどった。井の頭では象舎への侵入者と飼育員、人ふたりを踏み殺し殺人象と呼ばれた哀しい境遇に国際的な同情を集めた。おそらく作者にとっても思い出が深い象なのだろう。 今現在、はな子のいた象舎に代わりの象がいるのかいないのかはまず関係ない。また、作者が実際に井の頭へ見に行って感懐のあまりに句を作ったのかどうかを詮索する必要もない。とにかく、作者のはな子への「追慕の思い」と「秋風」の季語の見事な調和に納得する。動物園俳句というジャンルがあるとしても、今を生きる目の前の動物を詠んだ句が大多数だろう。この句は、かつての主亡き空虚の檻舎を詠んで抒情詩となっている。それは「秋風吹き抜けり」と写生調とせず、「秋風吹くばかり」と詠嘆調にした下五に込められている。 (葉 2019.09.22.)

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