つないだ手だれが離した夏の果て     斉山 満智

つないだ手だれが離した夏の果て     斉山 満智 『この一句』  一読して頭に浮かんだ光景は「かごめ、かごめ」や「はないちもんめ」の、屈託なく遊ぶ子供の姿だった。林間学校の季節とあって、それがキャンプファイヤーの中学生らに切り替わり、そこで画像が途切れた。同時に疑問に襲われた。「これは子供の遊ぶ姿を詠ったものなのか。全く違うのではないか」と。  迷い、考えた末の結論は「現代の世相を切り取ったもの」。つまり、写生句ではなく時事句、という解釈。「だれが離した」のかで言えば、英国のEU離脱、日米韓のきしみ…の問題。手を繋げるかどうかではペルシャ湾の航行に絡む有志連合など。政治や経済の世界で合従連衡は世の常なれど、最近の動きは分かりづらいことばかり。  「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)のように分かり易い句はいい。だがしかし、頭の体操を助けてくれる句はもっといい。「朝顔や百たび訪はば母死なむ」(永田耕衣)のように。「だれが離した」を引き金に、小生の想いはグローバリズムの終焉にまで及んだ。けだし、発表された俳句は作者の手を離れ、読者のものになる、とか。(光)

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七月や帽子そろへて母娘     高石 昌魚

七月や帽子そろへて母娘     高石 昌魚 『合評会から』(日経俳句会) 博明 単純だけどよく分かります。イメージ性も強い。 悌志郎 夏休みへの期待感が読み取れる。 反平 季語との距離感に疑問を抱く句が多い中で、この句はほどよく気持ちがいい。 芳之 白いワンピースにおそろいの帽子でしょうか。親子で楽しいお出かけでしょう。           *       *       *  作者によれば、若い母親と娘さんがお揃いの帽子を被って街を歩いているのを見かけ、そのまま詠んだものだという。まさに嘱目吟の成功例である。  日経俳句会最長老のお一人。卒寿にして毎日欠かさず街歩き、常に新しい事どもを見つけては句材に取り込む。この句も娘と姉妹ではないかと受け取られるように装おう若い母親に目を止めてすかさず一句。  「俳句はボケ防止の妙薬」などという消極的効果ではなく、こうした若々しい句を作ってスタスタ歩いて行かれる姿にほれぼれする。(水)

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ブルースをただ聴き続け夏の夜     高橋 ヲブラダ

ブルースをただ聴き続け夏の夜     高橋 ヲブラダ 『この一句』  占領下の横浜で少年時代を過ごしたため、何も分からないままにブルースやジャズが身体に染み込んだ感じがある。と言ってギターが弾けるわけでなく、トランペットが吹けるわけでもない。演奏会で拍子を取っていると間を外してしまう、どちらかと言えば音痴に近い。それなのに、古いジャズやブルースを聴いているだけで気が休まるのだ。  この句の作者にももしかしたら、そんなところがあるのかも知れない。本当に「夏の夜」はただただブルースを聴き続けていたい気になることがある。ただ、私よりずっとお若いから、ジャズでもブルースでも、私が大昔に慣れ親しんだキド・オーリー、ルイ・アームストロング、ジョージ・ルイス、歌い手ではビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルドなどではなくて、新時代のジャズやブルース歌手かも知れない。  黒人奴隷が働きながら歌ったワークソング、教会で歌った賛美歌、霊歌、故郷のアフリカの唄などが綯い交ぜになって生まれたブルースは、単調で素朴な詩とメロディである。それが不思議に現代の我々の心に強く響く。(水)

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百日紅散りて真昼のアスファルト     中嶋 阿猿

百日紅散りて真昼のアスファルト     中嶋 阿猿 『合評会から』 三代 焼き付いたアスファルトに百日紅が散っている、夏らしい懐かしい句だなと。 鷹洋 ほんらい綺麗な花なんですが、それが散ってちょっとした無常感がある。 昌魚 百日紅はいま真っ盛り。亡くなった近所の奥様と百日紅を前に世間話をしたことを思い出しました。 作者(阿猿) まだ散っていないので、ちょっと嘘をつきました(笑い)。        *       *       *  百日紅は中国原産の落葉高木で夏場に紅やピンク、白の花をつける。花期が長いため百日紅(ひゃくにちこう)とも呼ばれる。加賀千代女も「散れば咲き散れば咲きして百日紅」とその生命力を詠んでいる。  掲句は百日紅の花が道路に散り敷いた場面を詠む。日差しが照り付ける黒いアスファルトと散った紅い花の対比が鮮やかだ。盛夏を咲き切って散った花に、そこはかとなく無常感も漂う。作者には「凌霄花スナック街の眠る午後」という日経俳句会賞受賞句もある。花の特質をとらえ、色や形をより鮮明に印象づける場面の創出力に感心する。 (迷)

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喉すべる流しじゅんさい夏の原      竹居 照芳

喉すべる流しじゅんさい夏の原      竹居 照芳 『季のことば』  おやおや、じゅんさい(蒪菜)流しとは! 孫たちが来れば、自宅の庭でソーメン流しをして遊ぶ人もいるけれど、じゅんさいとなると簡単ではない。流れてくるのを掴もうとしても、何しろ相手は小さいし、ぬるぬるしているし。とは言え、珍しいし、面白そうだし、やってみたくなってくる。  ネットで調べたら、秋田県三種町が本拠地だという。何しろこの町だけで、じゅんさいの生産量は全国の90%というからびっくりである。じゅんさい王国の実情を広く世の中に示そうという試みが「じゅんさい流し」で、この催しは大人気、各地から引っ張りだこだそうである。  じゅんさいの季節(夏)になると出張の要請が次々に到来する。ならば全国的に広がりそうだが、そうはいかない。「 じゅんさいはあまり増やせない。大量に供給できるのはココだけですからね」。じゅんさい流しのことがいろいろ分かって満足。これも俳句の効用の一つかな、と思う。(恂)

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関ヶ原読経流るる夏野かな     吉田 正義

関ヶ原読経流るる夏野かな     吉田 正義 『この一句』  天下分け目の関ヶ原。この辺りは本州の勢力を東西に分ける地域だけに、歴史的な決戦が繰り広げられてきた。有名な「関ヶ原の戦い」だけでなく、「壬申の乱」や「青野ヶ原の合戦」もあった。故郷がこの地の近くにある作者は、特に夏草の時期になると「兵(つわもの)共がゆめの跡」に思い巡らせるという。  「関ヶ原の戦い」の際は東西両軍が夏の間に集結して対峙し、秋口になって戦の先端が開かれたようだ。歴史書や絵巻物などを見れば、合戦の時期についてさまざまな状況が思い浮かぶが、作者がいつも心に描くのが夏野、と語っている。馴染の深いこの時期の関ヶ原に立つと、鎮魂の思い自然に湧いて来るという。  関ヶ原に近い岐阜市や大垣市の辺りは寺が多く、信仰の厚い地域とされている。大きな戦いで数多の命が失われた地だからだろう。作者が夏休みなどに帰郷すると、近隣の寺院から読経が流れてきて、昔の戦に思いを馳せてしまう。「この句には、夏野に散った兵たちの鎮魂の思いも・・・」と作者は語っていた。(恂)

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