梅雨明けや襁褓(むつき)の一歳スクワット     須藤 光迷

梅雨明けや襁褓(むつき)の一歳スクワット     須藤 光迷 『合評会から』(酔吟会) 水馬 孫でしょうね。股割りというのかなぁ。元気な一歳児の動きが見えて来ます。 而云 元気な赤ん坊の動きは、梅雨明けに合っていますよ。 木葉 おむつをつけた子の元気な動きはスクワットのようですね。一歳児の面白い動きが見えてきます。 てる夫 本当のスクワットではないのだが・・・。仰向けになっている時の動きかな。               *          *         *  「赤ん坊は二本足で立って初めて人間の道を歩き始める」とある書にあった。では、それ以前は? 「虫のようなものから哺乳類になり、やがて人類に至るまでの進化の道を歩んでいる」とのことであった。確かにそう思わせる所もある。一歳になる頃までの運動は、何と言っても足の動きが最も目立っているのだ。  おむつを着けて仰向けに寝ていても、足をツンク、ツンクとはね上げている。両手を持って立たせると、なるほどスクワットをやるではないか。泣くのも笑うのも、この頃からようやく人間らしくなってくる。さっと抱き上げれば、にっこり笑う。梅雨明けの日、「お前の親もこうだった」と祖父は思うのであった。(恂)

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夏の山ゴンドラ出ずるハイヒール     池内 的中

夏の山ゴンドラ出ずるハイヒール     池内 的中 『この一句』  いかにも現代的な光景である。例えば、歴史に残る遭難事件が起こった八甲田山を想像してもいい。その山頂の駅からハイヒールを履いた人が出て来た、というのだ。もとより何ら悪びれることなく、あっけらかんとした表情で。鍔の広い帽子をかぶり、展望台で「津軽海峡は…」などと手を翳したかもしれない。  と書いてきて、疑問が浮かんだ。作者はなぜ、この光景を句に仕立てたのか。ゴンドラとハイヒールの組み合わせは、今時、珍しくも何ともない。つまり、発見や写生の句ではない。とすると、意図は? 便利になるのはいいが、観光客用に整備した山頂は水を吸わず、土石流の一因となる、という警鐘の句なのか…。  富士山の清掃運動に取り組む登山家の野口健さんらと知床へゴミ拾いに行ったことがある。浜辺に廃棄された漁網や流木とともに韓国、中国、ロシアなどの空瓶やペットボトルが流れ着いていた。山で熊に合い、海で鯨を見もした。いささか牽強付会ではあるが、この一句が、身勝手な人間の振る舞いを憂えるものに思えてきた。(光)

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右木曽路左伊那谷夏木立     杉山 三薬

右木曽路左伊那谷夏木立     杉山 三薬 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 木曽路、伊那谷と特徴ある地名を詠んでいて雰囲気がある。 木葉 漢字ばかりの句は難しく、あまり成功例がないが、これは成功している。 阿猿 声に出して読みたい俳句。声に出すと、瞬間的に景が浮かぶ。 青水 コピーしてどこかの自治体に売り込めるほど完成している。 迷哲 道標風でこっちが木曽、あっちが伊那谷というのが「夏木立」と響き合っていていい。 庄一郎 地図で確かめたら、木曽路、伊那谷の分かれは塩尻ですかね。 而云 岡谷とか、諏訪湖から天竜川が流れ出るあたりでイメージしやすい。感じの出ている句です。 三薬(作者) 中山道じゃなく、伊那谷と木曽をつなぐ権兵衛街道の峠です。           *       *       *  木曽路と伊那谷という俳句では人気の地名を贅沢に使い、爽やかな季語と相まって書ききれないほどの賛辞を浴びた。今のところ、日経俳句会の今年の最高点句だ。(双)

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七月の湿り旧家の養蚕場     廣上 正市

七月の湿り旧家の養蚕場     廣上 正市 『合評会から』(日経俳句会) 木葉 群馬あたりの古い農家には、二階や屋根裏にまだ養蚕室がある。今年は長梅雨ですから、その湿りが覆っているという情景を詠んで、いい感じです。 睦子 梅雨時期の語句がさらっと並び、懐かしさや音と匂いも感じます。 定利 「湿り」がよい。思い出の風景かな。 弥生 「旧家の養蚕場」と「七月の湿り」の措辞が響き合って、空気感が読み取れますね。           *       *       *  梅雨時の旧家を描写した句だが、養蚕場を持ってきたことで屋敷の大きさや造りが見えてくる。作者は若い時に群馬県の大学に通った。当時は旧い養蚕農家がたくさん残っていたであろう。群馬は日本最大の生糸産地で、戦前は日本の輸出を支えた。ピーク時は農家の七割近くが養蚕を手掛け、「おかいこ様」と呼んで、二階に広い養蚕室を設け、温度や通風に気を配って大切に育てた。  現在、県内の養蚕農家は百二十戸余に減っている。掲句からは梅雨湿りの旧家の佇まいとともに、養蚕業の盛衰の歴史が浮かんでくる。(迷)

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夏木立愚痴こぼし合う杖ふたつ     中沢 豆乳

夏木立愚痴こぼし合う杖ふたつ     中沢 豆乳 『おかめはちもく』  夏木立と言えば、普通は「ほっと一息」とか「生き返った気持」とか、その涼しさを踏まえた「喜び」を伝えるものと相場が決まっている。あるいは夏空に突き立つ木々の元気の良さを称揚し、子供たちや青年男女の活発な様子を配合して、「明るさ」を表すことが多い。  ところがこの句はジイサンかバアサンか、高齢者二人が夏木立の下にようやく辿り着き、愚痴をこぼし合っている。夏木立の句としては何とも珍しい絵で、この句を選句表に見つけた時には、思わず大笑いしてしまった。  しかし「杖ふたつ」にはがっくりした。近ごろだいぶ乱れてはいるが、日本語には固有の「物の数え方と言葉」がある。例えば魚は生きて泳いでいる時には「一匹」だが、魚屋に並べられると「一尾」になる。鯛や鰺は一尾だが、平目なら「一枚」、烏賊なら「一杯」、切り身になれば「一切」、蒲焼なら「一串」あるいは「一枚」、目刺なら「一連」などと言い方が決まっている。  「杖」ならば、やはり「一本」でしょうなあ。この句が「夏木立愚痴こぼし合ふ杖二本」だったら、この日一番の句と推奨するところだったのに・・・。(水)

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あじさいの一山全部大舞台     前島 幻水

あじさいの一山全部大舞台     前島 幻水 『この一句』  一体、この句はどこで生まれたのだろうか。鎌倉か伊豆か箱根か…。あたり一帯は紫陽花に埋め尽くされ、彼方を見れば海が光り、あるいは稜線を霧が上って、という場所は…。景が大きく、人の姿も感じられ、とても気持ちのいい作品だ。勝手ながら、雨上がりの昼近い頃、柔らかな日差しの光景を想像した。  紫陽花は俗に七変化と言われる。白、緑、青、紫、桃色…それらの濃いのや薄いのが入り混じり、大きな鞠が葉の緑を覆い隠さんばかりに、ゆらゆら風に揺れている。あぢさゐの「あぢ」は集まるの意、「さゐ」は藍色のこととされるが、ここはやはり濃淡とりどりの七色の花が山をすっぽり、と解釈したい。  それにしても、紫陽花は面白い植物だ。花と思って見る部分が蕚、蘂と思って見る部分が花なのだとか。原種は日本のガクアジサイだと。最近は鞠を大きくしたもの、流れ星のような四葩など、様々なものを見受ける。この句を詠んで、紫陽花を誉めながらゆっくり歩いてみたくなった。全山云々でなく、道野辺でもいい。(光)

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いまたぶん梅雨明けてゆく観覧車     今泉 而云

いまたぶん梅雨明けてゆく観覧車     今泉 而云 『この一句』  一読して不思議な句だと思った。雨がいま降り出したとか、雨がいま止んだとかいう経験は、だれでも日常的に経験する。道路を走っていて急に雨の中に入ったり、逆に雨の中から抜け出すということもいくらでも経験する。けれども梅雨が明ける「いま」を経験することは普通はない。梅雨明けというのは、気象庁から「関東地方は昨日梅雨が明けました」と発表があって、「そうか、やっと梅雨が明けたか」と思うようなものである。それにしても「昨日」か「今日」くらいの時間の粗さで、「いま」とか「先程」とかいうようなことはない。  作者は「たぶん」と遠慮しながらも、「いま」梅雨が明けてゆくと確信している。作者は観覧車に乗っている。地上で乗車した時には、まだ梅雨明けの気配はなかった。だんだん上がるにつれて、遠くの山々が見え、家々が見え、海が見えてきた。観覧車がトップに来た時、視野いっぱいに広がる光景に、作者は「いま」梅雨が明けてゆくと確信したに違いない。こうして想像を逞しくして読むと、印象派の絵画を見るような一句だと思った。(可)

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末生りは泥にまみれて瓜畑     大倉 悌志郎

末生りは泥にまみれて瓜畑     大倉 悌志郎 『この一句』  家庭菜園を趣味にしている私としては、今年の長梅雨は本当に参った。雑草は雨の中を嬉しそうにぐんぐん伸びる。雑草が胡瓜の根方を覆うと、蒸れて、葉に白粉をはたいたようなウドン粉病が発生、蔓全体が弱ってしまう。  趣味の園芸ならば、枯れたとて大した問題ではない。しかし本職の農家にとっては大事である。何しろ七月に入っての二十日間、お日様が顔を出したのがわずか二日。これでは苗もひょろひょろ、実が生っても胡瓜なら曲がったり、尻すぼまり、トマトなら実割れや色付きの悪いものばかり。いわゆる「末生り(うらなり)」である。これでは商売上がったりである。  本来、末生りというのは、野菜の苗木が盛りを過ぎて、伸び切った蔓や枝先(末=うら)に養分が十分に行き届かなくなってちゃんとした実が結べなくなり、曲がったりいじけたりしたものを言う。  この句は素直に読めば、末生りの目立つ晩夏の瓜畑の景色である。しかし今年は別だ。なんと最盛期の七月初旬の瓜畑に末生りがごろごろ。見渡して呆然としているお百姓が目に浮かぶ。「令和元年夏」という詞書をつけたい句だ。(水)

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梅干に浮かぶ戦後の日々のあり     片野 涸魚

梅干に浮かぶ戦後の日々のあり     片野 涸魚 『合評会から』(酔吟会) てる夫 「梅干」のイメージが込められている感じがします。日の丸弁当など、苦しい時代のことを思い浮かべながら作られたのでしょう。 可升 戦後生まれの私にはよくわかりませんが、年長の方々の思いが詰まっているような句ですね。 睦子 「水牛歳時記」に戦前戦後の梅干の話が出ていました。梅干の歴史は、戦後の復興する日本の姿そのものなのですね。 ゆり 私にとっては祖父母の時代でしょうか。考えさせられる句です。 反平 作者には悪いんですが、「何言ってやんでぇ」と。僕にとっては「日の丸弁当」なんて、という感じですよ。ビンボーでね。「芋一本」の弁当でしたよ。           *       *       *  昭和20年の敗戦前後は実に苦しい嫌な時代だった。作者は梅干を見ると当時を思い出すらしい。ある家には空襲が激しくなる前に漬けた梅干が残っているが、弁当を作る米が無い。ある農家は米はあり、梅も沢山生るが塩が無いといった、今の若い人たちにはよく分からない情景が至るところに見られた。(水)

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時刻表栞をくわえ夏に入る     玉田 春陽子

時刻表栞をくわえ夏に入る     玉田 春陽子 『この一句』  七月も下旬になって立夏の句を出すのは時季遅れと言われるかも知れない。それにこの句は句会で好評を博したものの、「若い人はネットで調べるし、時刻表は古い」「栞をくわえるという擬人法がどうか」といった異論もあった。  しかし、分厚い時刻表を繰って路線を選び、接続時間を調べる楽しみは旅の一部であり捨てがたい。擬人化表現についてだが、評者には栞をくわえた時刻表が、あたかも「一緒に連れて行って」とせがんでいる様に受け取れて面白いと思った。  旅行は出発するまでが一番楽しいと言う人がいる。時刻表を見ながらプランを練り、目的地のことをあれこれ想像するのが好きな人たちだ。作者も計画好きなようだ。時刻表に何枚も栞が挟み込まれたというあたりに、プランニングの跡が見える。それを「栞をくわえ」と表現し「夏に入る」の季語に続ける。本格的な夏に向け旅心を誘われる句だ。  時刻表と言えば高年世代には交通公社(現JTB)のものがなじみ深い。1925年創刊でピーク時は月刊200万部を誇ったが、ライバル「JR時刻表」の登場やネット検索の普及で、今は7万部程度に激減している。(迷)

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