雀の子そこは先生座るとこ     横井 定利

雀の子そこは先生座るとこ   横井 定利 『この一句』  都心はいわずもがな、郊外の住宅地でも雀の姿を見るのは昨今まれである。まして雀は、できるだけ猫、烏などの天敵や人間の目に付かない場所に営巣する。巣の中、あるいは巣立ち前の小雀を観察しようにもその機会は滅多にない。絶対生息数が減ってきているというが、農村に住めばまだまだ雀はお馴染みの存在だ。一茶の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」は、その昔まさに目の前に見た通りの句だろう。  写生こそ本道と言われる俳句の本来を目指せば、わたしたち現代人は頭の中の雀の子を写生句としてしまいがちになる。ところがこの句は一茶句を踏まえながら、昭和のノスタルジーを感じさせる。昭和も高度成長期以前の学校風景。もちろん都会の小学校ではなかろう。村の分教場を思い浮かべる。周りは静かだしもとより空調設備などないから、教室の窓は開けっぱなし。そこに雀の子が何を間違えたか教壇に飛んできて横の椅子にちょこなんと。児童らの「だめだめ!そこは先生の場所」という制止の声まで聞こえてくる。「座るとこ」と話し言葉で止めたのも、雀の子らしく愛らしい効果を生んでいる。「令和」が始まり、昭和はさらに遠くなりにけりである。(木)

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春雨や紺屋へ嫁ぎゆく高尾     大澤 水牛

春雨や紺屋へ嫁ぎゆく高尾     大澤 水牛 『この一句』  紺屋(こうや)に務める実直な職人・久蔵が、吉原の花魁道中で見た遊女・高尾に一目ぼれ。あの女性に会いたいと働きに働いて十三両を貯めた。それからいろいろあって、ついに高尾と面会。初めはお大尽を装うが、本当のことを告げると、高尾は久蔵の心根を知って涙ぐみ、「女房にして下さい」と訴える。  そして年季の明けた日、高尾は久蔵のいる紺屋に向かって行く、というのが句の描く場面である。ここに春雨を配したのが何とも効果的で、唐傘をさして行く高尾の姿が浮かんでくるのではないだろうか。この話は落語で知られているが、調べてみたら、演じられたのは浪曲の方が先だったらしい。  俳句は故事、伝説、作り話などの題材を伝統的に受け容れてきた。例えば「熊坂が長刀(なぎなた)にちる蛍哉」(一茶)。江戸の大衆は伝説上の大盗賊・熊坂長範を知っていたから、句の場面を頭に描けたのだ。現代の俳句の世界は江戸時代に比べると、いささか真面目になっているようである。(恂)

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蝌蚪坊主朝のお勤め寺の池     印南 進

蝌蚪坊主朝のお勤め寺の池     印南 進 『季のことば』    私は蝌蚪(かと)の句を見ると、句仲間から聞いた言葉を思い出す。彼女はご主人にこう言われたそうだ。「君たちは仲間内だけに通じる言葉を使って遊んでいるんだね」。ところが俳句歴八年でも「蝌蚪」を知らない人がいた。彼はこの妙な漢字をじっと見つめ「読めないなぁ」と呟いていたのだ。  「おたまじゃくし」なら誰にでも分かるが、俳句を作るのに六音は長いし、炊事用具の名の転用という点も気に掛かる。「蛙の子」も蛙そのもの姿を想像してしまうためか、これも使いにくい。そこで俳句ではたった二音の蝌蚪が愛用されて現今に至る。果たして「蝌蚪」は一般に認められるのだろうか。  そんな思いの中で出会った掲句の「蝌蚪坊主」。私はおたまじゃくしの頭(?)の丸さを思い浮かべ、笑ってしまった。鎌倉に住む作者によると、寺の境内を散歩中、池の中に“彼ら”を見つけた時、「蝌蚪坊主」の語が浮んだという。愛嬌のある造語である。私も使わせてもらおうかな、と思っている。(恂)

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たわむれに蝌蚪掬ひし手皺深く     深瀬 久敬

たわむれに蝌蚪掬ひし手皺深く     深瀬 久敬 『おかめはちもく』  孫にせがまれたか、それともオタマジャクシなど見たこともない孫に見せてやろうと、田舎の田圃の用水池にでも連れて行ったのだろうか。上手に掬うところを見せてやろうと、ズボンの裾をたくし上げ、二の腕まで捲くってずぶりと泥んこに足を踏み入れ、両手で掬った。持って来たバケツに入れると孫たちは大喜びだ。オジイチャンの面目躍如である。  流れで手を洗い、腰にぶら下げた手拭いで拭うと、否応なしに手の皺が目に入る。いつもは全く気にかけない皺がやけにはっきりと目立つ。自分にもこの孫たちのようにオタマ掬いに興じた頃があったのだと、茫々たる昔が甦る。  素晴らしい句だ。「たわむれに」と頭に置いたところが実によく効いている。しかし、「掬ひし」と古語で詠んでいるのだから、「たわむれ」も当然「たはむれ」とすべきであった。この言葉がかなり重要な働きをしているだけに、惜しかった。旧仮名、新仮名の表記は句作する際についうっかりしてしまうのだが、両方ごちゃまぜというのだけは避けるべきだ。これを直せば文句の付けようの無い句である。  (添削例) たはむれに蝌蚪掬ひし手皺深く     (水)

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雛納め三人娘に会へぬまま     旙山 芳之

雛納め三人娘に会へぬまま    旙山 芳之 『この一句』  日経俳句会三月例会で最高9点を得た句である。娘が三人もいるので雛を飾り、誰かは帰ってくるかと待っていたのに誰も帰ってこなかった。「ウチも三人娘なのでこのまんま」「子どもたちが独立した後の老夫婦の寂しさが伝わってくる」など、自分の家庭を重ねて共感し、採った人が多かった。  雛納めという季語には祭りが終わった寂しさが内包されているように思うが、雛祭の時ぐらい帰ってきてほしいとの願いが届かず、寂しい思いで片付ける親の姿が浮かんできて一段と心に沁みる。  句会では「三人娘」という言い方が一般名詞みたいでちょっと苦しいので、「娘三人会えぬまま」としてはどうかとの意見も出たが、入会二ヵ月目の新人の作品と分かって、一座がどよめき感心しきりだった。  作者は新聞社の編集局を振り出しに、総務部門やテレビ局勤務も経験したベテラン。言葉に対する感性は若い時に整理部に在籍し、記事の見出しを付ける仕事で磨かれたようだ。入会時の句「残雪や苔あおあおと三千院」も注目されたが、今後の成長が楽しみだ。(迷)

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鰆焼く意固地に黙る背中かな     星川 水兎

鰆焼く意固地に黙る背中かな     星川 水兎 『合評会から』(酔吟会) 反平 こんな会話がウチでもありました。楽しい情景が想像できます。 光迷 「意固地に黙る」がいい。台所に立っている二人の姿が浮かびます。 鷹洋 鰆は「焼くなら焼いて見ろ」って頑張っている。「意固地」と響き合っています。背中が焼かれているんでしょう。(誰か…えっ、この句は「鰆」が主人公?との声に)そう解釈しましたよ。そうじゃあないんですか? 冷峰 鰆はすぐに焦げてしまう。目が離せない。背中で、夫婦でコミュニケーションしているんでしょう。微笑ましいです。 而云 「焼く」と「黙る」がちょっとうっとうしいなぁ。 涸魚 鰆でなくても、秋刀魚でもいいんじゃない?それに何も意固地にならなくても・・・(笑)           *       *       *  これほどいろいろに解釈される句も珍しい。夫婦喧嘩の後の情景かと思えるが、とにかく俳諧味がある。デリケートな鰆焼きに没頭している振りをして、抗議の意志を示す背中だと解した。(水)

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春風や駿河の海は真っ平     大沢 反平

春風や駿河の海は真っ平     大沢 反平 『この一句』  句会では素通りしてしまったのだが、後からこの句を何回か口ずさんでいるうちに、私にもその良さが分かってきた。  蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」をさらに具体的に詠み直したような趣きのある句だ。蕪村は江戸・関東北部・東北で苦しい修業時代を潜り抜けた末に、36歳で京都に拠点を構えようと決心して西上する。この句はその京都移住後間もなく、絵の研鑽のために行った丹後宮津で詠んだものらしいのだが、私としては小説的に、上京途上の駿河湾の吟詠と思いたい。  駿河湾の春景色はまさにこの句の通りである。西伊豆の戸田辺りから望んだ駿河湾もいい、反対に清水の三保の松原からの眺めでも良かろう。私はその中間の吉原からの駿河湾を思い浮かべる。名勝田子の浦である。振りさけ見れば真白き富士、目の前は春風の撫でる鏡のような海である。  「夜半亭一派を再興しましょう」と高井几董ら後輩たちの温かい呼びかけに、京都へ向かう蕪村が見た駿河湾の情景は、まさにこうではなかったのかと、勝手に思い込んでいる。(水)

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春の雨来るらし鶫せはしなし     高井 百子

春の雨来るらし鶫せはしなし     高井 百子 『季のことば』  北へ帰る日が間近に迫ったツグミ。長距離飛行に備えて体力をつけようと懸命に餌をついばんでいる。ちょんちょんちょんと跳ね回り地面をつつき、周囲を見回し、また、ちょんちょんと。本当に忙しないねえ、でも雨が来る前にせいぜい食べておかないと・・。作者の温かい眼差しが感じられる。  この句について句会合評会では「鶫は秋の季語じゃありませんか」という声が上がった。その通りで、鶫は秋十月、大陸から大群を成して渡って来る印象が強いので秋の季語になっている。しかしこの句は春の雨が今にもやって来そうな、不安定な天気を鶫の所作に託して詠んだものである。鶫の特徴を遺憾なくうたい挙げているが、この場合は「春の雨」の呼出し役である。  現代俳句では特に昭和以降、「季重なり」を誡める風潮が際立つようになった。季語同士が干渉しあって、主題が何だかはっきりせず、印象の薄い句になりがちというのがその理由。しかし、この句のように春先の変わりやすい天気を詠んだものとはっきり分かれば、たとえ季重なりであっても問題は無い。(水)

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春の雨来るらし鶫せはしなし     高井 百子

春の雨来るらし鶫せはしなし     高井 百子 『季のことば』  北へ帰る日が間近に迫ったツグミ。長距離飛行に備えて体力をつけようと懸命に餌をついばんでいる。ちょんちょんちょんと跳ね回り地面をつつき、周囲を見回し、また、ちょんちょんと。本当に忙しないねえ、でも雨が来る前にせいぜい食べておかないと・・。作者の温かい眼差しが感じられる。  この句について句会合評会では「鶫は秋の季語じゃありませんか」という声が上がった。その通りで、鶫は秋十月、大陸から大群を成して渡って来る印象が強いので秋の季語になっている。しかしこの句は春の雨が今にもやって来そうな、不安定な天気を鶫の所作に託して詠んだものである。鶫の特徴を遺憾なくうたい挙げているが、この場合は「春の雨」の呼出し役である。  現代俳句では特に昭和以降、「季重なり」を誡める風潮が際立つようになった。季語同士が干渉しあって、主題が何だかはっきりせず、印象の薄い句になりがちというのがその理由。しかし、この句のように春先の変わりやすい天気を詠んだものとはっきり分かれば、たとえ季重なりであっても問題は無い。(水)

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