二千円あれば一日春の道     植村 博明

二千円あれば一日春の道     植村 博明 『この一句』  意表を突く句である。「二千円あれば」と謎をかけ、「一日」とぶっきらぼうに答えを投げ出したうえで、春の道に続ける。最後まで読んでやっと句意が掴める。すると情景が浮かび、思わずニヤリとする愉快な句である。  春の陽気に誘われて外出したのは、おそらく元気な年寄りであろう。気軽な服装で、草花を愛でながらの散歩だろうか。途中で冷たい飲み物を買い、いつもより足が延びる。お腹が減ったら蕎麦屋で何か食べる。ビールの一本も付けようか。歩き疲れたらバスに乗って帰ってもいい。二千円あれば春の一日を結構満喫できる。元気に老後を楽しむ昭和生まれの年金生活者の姿が浮かんで来る。  団塊の世代が75歳の後期高齢者入りし、年金財政はひっ迫の度合いを増すと言われる。平成生まれの若い世代は年金支給開始年齢がさらに引き上げられ、支給額も抑制されるのではないかと懸念している。  この句を採ったのは年金受給世代で、「理想的な暮し」と同感している。ただ若い世代は複雑な感慨を抱くかもしれない。20代、30代の感想を聞いてみたいものだ。(迷)

続きを読む

春光や北の大地に鶴の舞     吉田 正義

春光や北の大地に鶴の舞     吉田 正義 『この一句』  鶴は秋に中国大陸やシベリアから日本に飛来して越冬し、春に帰って行くのが多いのだが、釧路湿原では昔から丹頂鶴が居着いて特別天然記念物になっている。ここの鶴たちの一年のスケジュールからすると、春は伴侶を決め、交尾、産卵、孵化、子育てと続く最も忙しい時期である。求愛のダンスも大空の飛翔もすべてが鶴たちにとって自然の摂理に基づく行為である。  この句は「春の訪れ、ツルが悠然と飛んでいる。北の大地と鶴の様子が印象的です」(諭)、「ツルの叫んでいる姿が映像として浮かんできました」(敦子)、「鶴の舞にスポットを当てて春らしさを表現した」(尚弘)と、句会参加者の多くから称賛を浴びた。  ただ問題は「鶴」が冬の季語であり、「鶴来る」という秋の季語、「鶴帰る」という春の季語が定まっていることである。鶴の舞に「春光」という春の季語を被せてしまうのはいかがなものかという疑問が呈されるかも知れない。しかし春の遅い北海道で、待ち望んだ明るい陽光に翼を輝かせて舞う鶴のインパクトは強い。ちまちまとした「季重ね論」は吹き飛んでしまうだろう。(水)

続きを読む

涙目で笑ふあざらし花粉症     谷川 水馬

涙目で笑ふあざらし花粉症     谷川 水馬 『合評会から』(酔吟会) 光迷 花粉症の句はいくつもありますが、「あざらし」を持ってきたところに俳味を感じました。 鷹洋 花粉症は私自身の問題です。大変なんだ。涙目の状態をこんな風に表現したユーモアに感心します。 春陽子 「嘘の効用」でしょうか。あざらしはいつも涙目なんですよ。これを花粉症と結びつけたところが大成功です。 睦子 あざらしの目はいつもウルウルとしているんですよね。それを、花粉症にもっていったところはうまく作られていると思います。 誰か この句の季語は何ですか? 双歩 花粉症でしょう。日経俳句会では花粉症を春の季語に認定したような・・・。           *       *       *  「花粉症」はもう立派な春の季語であろう。とにかく、とんでもない現代病である。これをアザラシの涙目に結び付けたのにはびっくりした。目も鼻もくしゃくしゃして滅入っていたのが、この句に大笑いして気が晴れた。(水)

続きを読む

心地よくワインに溶ける花疲れ     斉山 満智

心地よくワインに溶ける花疲れ     斉山 満智 『この一句』  「花疲れ」という季語は、詠んでみると難しい。季語そのものが濃厚に意味を持っていて、ついつい季語の説明をして失敗してしまう。  そんな中で、掲句は「花疲れ」と「ワイン」をうまく取合せた句で好感が持て、高得点句となった。ただ、ある評者が「心地よく」は「ワインに溶ける」と重複するのではと指摘したことについて、薄々そう感じていたので首肯するところがあった。  それならどうするか、少々頭をひねってみた。ワインを飲んでいた場所を配するのはどうだろうか。たとえば「濠端のワインに溶ける花疲れ」。むかし千鳥ヶ淵に花見時になるとテラスの賑わう、洒落たホテルがあったのを思い出した。  作者に無断の勝手な思い込みである。やっぱり「心地よく」の素直さがいいかな、とも思い直す。俳句は難しい。(可)

続きを読む

人もなき里は辛夷の盛りなり     岩田 三代

人もなき里は辛夷の盛りなり     岩田 三代 『この一句』  駅から徒歩一時間といった山間の村であろうか。バスも通ってはいるのだが、午前と午後に一本ずつのJRのジーゼル列車に合わせて走るだけである。乗客はまばら。それも老人が多く、みんな顔見知りだ。この句を見てすぐにこんな情景が浮かんだ。  21世紀に入ろうとする頃から地方町村の過疎化、大都市への人口集中が目立ち始め「限界集落」という言葉が生まれた。65歳以上が集落人口の過半数を占め社会的共同生活を維持して行くのが困難な状態に陥っている集落を言う言葉だ。国土交通省による数年前の調査ではそれが全国に7878集落(全集落の約13%)あり、いずれ消滅する恐れ濃厚なものが2643集落あるという。  作者は仕事か秘境探訪か何かでこうした集落を訪れたのであろう。人の気配の希薄な集落は、家が残っているだけに無闇に寂しい。その中で、辛夷の大木が一斉に花開いていた。往時はその木の下を行き交う村人たちの笑顔があっただろう。満開の辛夷を仰ぐ作者の耳には何の物音も伝わらない。静けさを通り越して身震いする感覚である。(水)

続きを読む

春雨や元気湧き出るミモザの黄     池村 実千代

春雨や元気湧き出るミモザの黄     池村 実千代 『季のことば』  ミモザとはオーストラリア原産の銀葉アカシアのことで、春に球状の鮮やかな黄色の花を密集してつける。1770年に英国海軍士官ジェームズ・クックによってオーストラリア大陸東海岸が初めて正式に測量され、帯同した博物学者によって珍しい動植物が欧州にもたらされた。銀葉アカシアは欧州で大人気になった。ことにフランス人がこの花を好み、ミモザと名づけ春を告げる花として珍重した。明治になって欧州経由で日本に入り庭園樹になった。  本場豪州にはミモザをはじめアカシアが数百種類あり、ひっくるめてワトルと呼んでいる。9月1日を「ワトル・デー」と名づけ、ワトルの咲き誇る下で園遊会を開き、ビールやワインで乾杯。大木全体が金色に染まるのが実に見事で、色こそ違え、まさに日本のお花見である。  この句はしとしとと降る春雨の中、ミモザの鮮烈さに目を奪われ、力づけられたと言っている。あたり一面鼠色の中でのミモザは確かに映える。ミモザが季語の「春雨」のお株を奪ってしまったような句だが、両々相俟ってこの時期の雰囲気を醸し出している。(水)

続きを読む

開花待つ次も娘が生まれるの     大平 睦子

開花待つ次も娘が生まれるの     大平 睦子 『合評会から』(日経俳句会) てる夫 真面目な句なのか、あるいは三薬さん句のような・・・面白い句だ。 冷峰 次も女で喜び半分、諸手をあげて喜んでいないとも取れますが・・。 誰か それを言っちゃね。 水馬 「開花」が季語足り得るのかはなはだ疑問ですが、娘のところにまた娘ですか。将来、物入りだなとか余計なこと考えてしまいますが、これもまた嬉しいんですよね。 阿猿 覚悟と期待に満ちた句です。このお母さんはきっと、お姉ちゃんになる娘の手を引いて、桜の木を見上げているんじゃないでしょうか。三人の女性が目に浮かび、命を生みつないでいく女性の力強さを感じます。           *      *       *  現代医学の恐ろしさ。生まれて来る赤ん坊の性別が早くから分かってしまうのだ。いいような悪いような・・。それはともかく、この句の詠み方がとてもユニークで面白い。「次も娘が生まれるの」と会話調である上に「開花待つ」という新しい季語を作ってしまう強引なところが実に傑作。(水)

続きを読む

ぶらんこを漕ぎ東京へ飛んでいく     今泉 而云

ぶらんこを漕ぎ東京へ飛んでいく     今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 木葉 非常に面白い。発想が飛んでる句だなと思いました。 命水 子供の頃にはこんな思いを抱いていました。メルヘンだなと思っていただきました。 水馬 自分じゃこんな句は詠めないですね。メルヘン以上のなにか深いものも感じられます。 光迷 守屋浩の「僕の恋人東京へ行っちっち」を思い出したのと、昭和から平成へと時代が変わっても東京一極集中は変わらないなあ、とふたつの事を思っていただきました。           *       *       *  選句表を見て最初に注目したのがこの一句。類句ありとの指摘もあったが、私にはとても新鮮な句に思えた。こういう表現の仕方もあっていいんだ、と教えられた気がする。具体的な物は季語の「ぶらんこ」だけ。どうして飛んで行くのか?なぜ東京なのか?なにもわからないが、得も言われぬ爽快感がある。迷うことなく一票を投じた。作者のお名前を知って驚いた。その感性の若さよ!(可)

続きを読む

春雨や渡り廊下の軋む音     加藤 明生

春雨や渡り廊下の軋む音     加藤 明生 『この一句』  渡り廊下とは、二つの建物をつなぐ廊下である。すぐ思いつく場所と言えば学校、病院、それに旅館くらいのものだ。これに「軋む音」が加わると、一定の状況が生れ、具体的な状況が見えてくる。古びている。木造である。作者が歩いているのだ。ミシリ、ミシリと音が響いてくる。  季語の「春雨」によって、さらに雰囲気が限定される。春先の寒い日なのだろう。長い渡り廊下は両側に板張りの壁があり、窓が続いていて、庭を眺めることが出来る。ここまで想像を膨らませてきたら、私の頭の中にさらに具体的な映像が浮かんで来た。その廊下は下り坂なのだ。  母屋から河原の露天風呂に続く渡り廊下だった。途中で左に曲がるところに飾り台があり、水仙が一輪活けられていた。福島県の山中で泊まった温泉宿で・・・。この句の示す状況は僅かだが、人それぞれが映像を膨らませられる。私の場合、短編小説が書けるほどなのだ。(恂)

続きを読む

春光や太き大根直売所      石黒 賢一

春光や太き大根直売所      石黒 賢一 『季のことば』  句を見て春の光に輝く山積みの大根を心に描いた。ところが作者に聞くと「いや山積みじゃない。売り切れる数だけ並べているのだろう。数は少なかった」と言う。「そんなに正直に言わなくても」と私は思った。洗い上げたばかりの大根の山。その春の光は、季重なりなど、簡単に吹き飛ばしていく。  しかし作者は「本数は少ないが、一本の太さが凄い」と現場のありのままの姿を強調する。「作者を離れれば、句は読み手のもの」などと言われるが、作者の意図も尊重しなければならない。ところが私の頭には山積み大根の放つ春光が浮かんで来るのだ。この食い違いをどう調整すればいいのだろう。  私が大根の山を見たのは千葉県の冨里市だった。作者が句にしたのは東京・小金井市の道端に並べた数本の大根である。双方に敢えて折り合いをつける必要はないのかも知れない。作者は作者の、私は私の風景を思えばいいのだ。俳句は読み手のものでもあるが、やはり作者のものであるのだから。(恂)

続きを読む