鎮魂の旅の終りや竹の秋     中嶋 阿猿

鎮魂の旅の終りや竹の秋    中嶋 阿猿 『この一句』  天皇陛下の生前退位に伴う改元で、時代は平成から令和に移る。日経俳句会の四月例会にも、時事に敏感なこの会らしく関連句が十句ほど並んだ。その中で特に心に残ったのがこの句だ。  現天皇は象徴としての務めを何より大事にされ、そのひとつとして先の大戦の激戦地を訪れて戦陣に散った人々の冥福を祈り、災害があれば現地に足を運び被災者に寄り添って慰めてこられた。  沖縄や南海の島々への慰霊の旅での祈りの姿、地震や台風の被災者の脇で膝をついて話しかけられる両陛下の姿、いずれも国民の心に深く刻まれている。  元号や改元などの言葉を使わずに、「鎮魂の旅」という天皇が誠心誠意取り組んできた務めが終わるのだと詠むことで、平成という時代の終りを表現する。  配する季語は「竹の秋」である。春に竹が黄色くなり落葉するのは、蓄えた養分を地下の筍に送り成長させるためだという。いわば親から子への継承、次代の繁栄を願うという意味が込められている。平成の務めを果たし終え、令和の時代へつなぐ。まさに代替わりに相応しい季語、結語である。  (迷)

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春の灯やとなりに若き一家来る     金田 青水

春の灯やとなりに若き一家来る     金田 青水 『合評会から』(日経俳句会) 反平 温かい雰囲気で、灯のともる家の幸せを感じさせる。 三代 春の灯の雰囲気と若き一家がマッチングしている。 水馬 タイミングがいい。四月は引っ越しの季節。周りは年寄りばかりで、若い人が引っ越してくると嬉しい。 好夫 明るいなと思った。取って付けた感じがしないところがいい。 而云 小さな子供がいて、その後も近所の人と仲良くしていくのではと思う。 明生 過疎の村に待ち望まれていた若い家族がやっとくるのでしょう。 正市 空き家が一気に華やいだ。海外からの帰任か、子育て世代の転居か。 定利 高齢化時代、若い家族が来ると灯りまでも春めく。           *       *       *  似た顔ぶれが参加している番町喜楽会に「過疎の村若き家族と小鳥来る」(迷哲)という同じような句があった。「おや」と思ったのだが、水馬さんが「4月は引っ越しの季節」というのを聞いて、なるほどと納得した。春灯の頃も小鳥来る秋も、転勤・引っ越しと重なって賑やかな気分が伝わってくる。(水)

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花散らし風は嘯くまた逢おう     藤野 十三妹

花散らし風は嘯くまた逢おう  藤野 十三妹 『この一句』  「嘯く(うそぶく)」は、「平然と言い放つ」とか「そらっとぼけて言う」などの意味で使うことが多い。例えば、政治家の「子供たちの未来のために」とか「美しい日本」だとかの巧言を聞いたとき、「また嘯いてる」と評したりする。要するにあまり良い意味では使われない。ところが、『広辞苑』には「口をつぼめて息を大きく強く出す」、「鳥などが鳴き声を上げる」、「詩歌をくちずさむ」の意味の方が先に載っている。随分意味合いが違うが、掲句はもちろん前者の使い方だ。  「ヤクザっぽい所がいい。よく句にしてくれた」(三薬)、「花と風の仲がいい関係を詠ったいい句だ」(好夫)、「勘太郎月夜唄からヒントを得たような句で面白いと思った」(鷹洋)などと句会では好評だった。  「嘯く」を織り込んだ俳句は珍しい。一行詩という舞台に生々しい言葉はそぐわないのだが、作者はコピーライターとあって言葉遣いはユニークだ。時に過激に走ることもあるものの、この句の場合はぶっきらぼうな物言いが効果的だと感じ、筆者も一票を投じた。(双)

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風やわらか慣らし保育の涙跡     向井 ゆり

風やわらか慣らし保育の涙跡  向井 ゆり 『季のことば』  「慣らし保育」とは保育園の入園前に、団体生活に慣れるため一週間ほど体験通園をすることで、お試し保育という園もある。  育児休業制度が整ってきたとはいえ、働くママはあまり長くは休めず、一歳や二歳になってから保育園に通う子供は多い。それまで父母の庇護に包まれて育った子が、いきなり集団に放り込まれる訳で、ショックは大きい。  朝、ママと分かれる時に泣き、玩具を取り合っては泣き、迎えが遅いと泣く。涙の乾く間がない。新しい環境に奮闘する園児の涙の残る頬を、春風が励ますように優しくなでて行く。しかし泣いてばかりの子も、一週間もすると園での生活に慣れ、涙も次第に乾いて「涙跡」となってくる。  「風やわらか」という季語はあまり例句を見ないが、歳時記によっては「風光る」の傍題として掲げている。春風駘蕩という言葉があるように、暖かく優しく吹く風のイメージであろう。「風やはらか」と旧かなにすればさらに春らしさが漂う。今後定着させたい季語のひとつであり、子供の成長を見守る親心を春風に託した掲句は、格好の作例となろう。 (迷)

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父が漕ぐボートが切り裂く花筏     中澤 豆乳

父が漕ぐボートが切り裂く花筏     中澤 豆乳 『おかめはちもく』  公園の池で父と息子がボートに乗っている。初め、子供に漕がせていたが、左右に揺れたり、スピードが出なかったりと不安定だ。後ろにいた父親が「代ろうか」と声を掛ける。子供は前に移り、父が漕ぎ手になった。ボートはスムーズに進み出し、前方の水面を見つめる息子の目が輝いてきた。  桜は早くも満開を過ぎて、花吹雪の頃。池の面に浮ぶ花びらはあちこちに固まり、花筏(はないかだ)を成している。そこへ父の漕ぐボートがぐんぐんと乗り込んでいく。花筏は二つに切り裂かれ・・・。「お父さん、凄いな」。息子はいつか超えていくべき、父のパワーを目の当たりにしている。  素晴らしい場面を詠んでいるが、掲句に存在する二個所の「が」に注文をつけたい。発音の場合、「が行の剥き出し型」を避け、鼻濁音を用いて柔らか味を出そうとする手法は、すでにご存じだろう。俳句も同様で、「が」の荒っぽさを避けるための工夫が存在している。一つは「が」を「の」に代えること。もう一つは「が」を省いてしまうことだ。掲句もその定跡に従おうではないか。(恂)  添削例   父の漕ぐボート切り裂く花筏

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風嵯峨野長岡京へ竹の秋     鈴木 好夫

風嵯峨野長岡京へ竹の秋     鈴木 好夫   『季のことば』  嵯峨野から長岡京へ? と首を傾げた。嵐山など嵯峨野には何度も訪れているが、長岡京には行ったことがない。平城京から平安京へ遷都する途中の一時的な都が長岡京、くらいの知識はあったが、その間の距離的な実感がない。句の根幹である「風嵯峨野」の意味がぼんやりしていたのだ。  地図によると嵯峨野から南十舛曚匹膨慌京があった。案外近い、と気付いた時、「風の吹く嵯峨野」が実感として浮かび上がってきた。かの有名な嵯峨野の竹林に風が渡るのである。作者は「あの辺はずっと竹林」と話していた。バスから見た嵯峨野から長岡京までは「竹だらけだった」という。  句会前の数日、東京に春の寒い北風が吹き渡っていた。気圧配置からしてあの頃、京都の嵯峨野でも同じような北風が吹いていたと思われる。あたかも竹の秋の頃。黄ばんだ竹の葉は嵯峨野の竹林から舞い上がり、長岡京に向かって行ったのだ。さらにその先は・・・もちろん平城京が広がっている。(恂)

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てっぺんにたどりつかぬに花疲れ   大澤水牛

てっぺんにたどりつかぬに花疲れ   大澤水牛 「この一句」  一読してすぐの感想は「なんと無精な、もっと我慢を」だった。花見に出掛けた以上、初志貫徹、いかに人波にもまれようとも、それが吉野の山であろうが、箱根の山であろうが、山桜に紅枝垂、また染井吉野など、しかと花を見、心に留めるべきだと。それができないのは体力の衰え、気力の衰えの為せる業。この一句は、そういう老人の作品、高齢社会の産物ではないか、と。  しかし、再読、三読するうちに、味わいが変わってきた。「花疲れ」とは、首を曲げたり、目を細めたりして様々な花を見て歩くことによる体の疲れ、人々と行き交うことなどによる気の疲れをいうのだろう。作者は、それらと同時に頭の中の花に疲れたのではないか、と気付かされたのである。桜を見たことで、それまでの桜の記憶が一気に甦り、動く気が失せたのでは…、と。  「さまざまのこと思ひ出す桜かな」という芭蕉の句が作者の脳裏を掠めたかどうかは不明。ただ、桜の花がなければ春の世はさぞ長閑だろうとか、容姿の衰える嘆きを花の色に託してとか、桜は様々に詠まれてきた。となると、桜の楽しみ方も様々でいい。必ずしも天辺まで行く必要はあるまい。中腹で一服、天上・眼下の花を眺めつつゆるり一献というのも一興ではないか。(光)

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胎内の記憶語る子春ともし     徳永 木葉

胎内の記憶語る子春ともし     徳永 木葉 『この一句』  句会終了後、エレベーターで一階に降りた後、鈴木好夫氏(医師)と句の作者のやり取りが興味深かった。「胎児に胎内の記憶はないでしょう」(鈴)、「いや、本当に記憶を話す人がいますよ」(徳)、「実際に証明されたら大変なことだ」(鈴)、「親の言葉は胎児に聞えているそうですし」(徳)  幼児の頃の記憶は人によってさまざまだ。私は三歳当時、母方の祖父の通夜を覚えている。それ以前の記憶も当然あるはずだが、忘れてしまうのだろう。そうなのだ、忘れるのだ、と私は気づいた。記憶のいい子なら二歳時、一歳時のことは覚えているはずだし、さらに胎内のことも・・・。  子供が話し始めるのは一歳過ぎからだという。その頃、胎内の記憶を語っているのかも知れない。しかしやがてこの世の記憶が積み重なり、胎内のことは忘れ行く。私はとても面白い句だと思っていたが、以上の会話に口を挟むことなく、酒場に向うお二人と別れた。神田の春燈が瞬いていた。(恂)

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花の下昭和息づく写真館    杉山 三薬

花の下昭和息づく写真館   杉山 三薬 『この一句』  花冷えの中、日経俳句会の創設者故村田英尾先生のお墓参りを八王子霊園で終え、武蔵野に明るい作者の計らいで小金井公園に足を運んだときの吟行句だ。  この公園には、「江戸東京たてもの園」という昔の様々な建築物を保存している施設がある。目玉は移築された高橋是清邸で、吟行に参加した何人かは惨劇の現場に触発された句を詠んだ。  作者は熱心に吟行に参加するが、集団で歩くことを潔しとせず単独行動を好む。いつぞやは一人、貸し自転車で浅草を疾駆したこともあった。この句も誰も取り上げなかった昭和の写真館「常盤台写真場」での詠だ。  「カメラマンなら、じっくり見たいポイントでした」とはてる夫さんの選評。その通りで筆者(双)は、昔の写真館の二階に設えられた写場に魅入った。採光のための大きな窓、いくつも並んだライト、ホリゾントという背景の幕などなど、正に「昭和が息づいて」いるようだった。今やほとんどの人がスマホなどで気軽に写真を撮る時代に、レトロな香り。なんだか自分の想いを代弁してくれたような句で、嬉しかった。 (双)

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陣馬山遠く遠くに春ともし     野田 冷峰

陣馬山遠く遠くに春ともし     野田 冷峰 『この一句』  山好きの先生が遠くを指さして言った。「この先に景信山があり、その先に陣馬山がある」。小学生の頃、いま人気の高尾山に遠足で登った時のことだ。その陣馬山に高校時代、一度登った。近くの青年団の登山に誘われたのだが、楽な高尾山に比べて「これが本物の山なのかな」と思ったものだ。  高尾山からは遥かな新宿方面を初め、下界の民家などが見えていた。ところが陣馬山からの風景は、山また山の記憶しか残っていない。標高は八五五叩D耕遒篁獲釮涼羆犾ζ逎▲襯廛垢箸枠羈咾砲覆蕕覆い、高尾山よりかなり高く、人里からずっと遠いところという印象が残っている。  あの陣馬山で日が暮れたら、まさに掲句のような風景を目にすることだろう。「遠く遠くに」と重ねた表現が胸に応え、六十年以上も前の記憶が甦ってきた。この句会では井上庄一郎さんの「山峡に春燈ぽつり無人駅」が票を集めた。人は山に登って里を恋い、里に戻って山を恋うのである。(恂)

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