汚れ猫尾垂れて行きぬ春浅し     斉藤 早苗

汚れ猫尾垂れて行きぬ春浅し     斉藤 早苗 『この一句』  云うまでもなく恋の猫であろう。それも恋の闘争に敗れ、尾羽打ち枯らした雄猫。もう意地も張りも失せ、すごすごと早朝の庭先を横切って行く。我が家の近所にも以前、私が勝手にタメゴローと名づけたどら猫が君臨していた。ところが寄る年波か、数年前の早朝、犬の散歩の途中に一敗地に塗れたタメゴローに出くわした。その後いつとはなく姿を見なくなってしまった。この野良猫もそんなところなのだろう、可哀想だが、なんとも滑稽味の漂う句である。  この句からいろいろなストーリーが描けそうだ。ただ、こうした句を詠む場合、どうしても作者の感情移入が過多となり、滑稽味を打ち出そうとする欲気が勝って、表現がくどくなりがちである。喩えて言えば、下手な落語家がこれでもかとばかりに連発するくすぐりのようなものだ。その点、この句は見たままをさらりと詠んでいるために、滑稽味がじんわりと伝わって来る佳句になった。  恐らくかなりの手練れの句だろうと思ったら、俳句をほとんど詠んだことのない新入会員の作品だった。「見たまま・感じたまま」を詠んだ句の強さを改めて知らされた。(水)

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春浅し猫背が野良と語らひて     金田 青水

春浅し猫背が野良と語らひて     金田 青水 『この一句』  「野良」という言葉の意味は本来は「野原」「田や畑」である。それがいつの間にか飼主の居ない野犬を「野良犬」、縮めて野良と言うようになり、戦前戦中は「のらくろ」(野良犬のクロ)漫画が一世を風靡した。戦後、狂犬病対策などから徹底的に野犬狩りが行われ、野良犬は姿を消した。それに変わって今では「野良」と言えばノラネコのことになっている。  この句の「野良」も句会では問題無く通用し、「猫背と野良の組み合わせがほほえましい」(早苗)、「猫背はなんとなく冬の感じだが、野良と語らっているのが春っぽい。正に春浅し」(ヲブラダ)、「早春の寒さで猫背になる年輩者と野良猫の語らいが目に浮かびます」(芳之)と、好評を博した。  確かに、背が曲がって来る老人はひがむわけではないのだが、何となく世の中の片隅に寄って行く。野良猫は極めて警戒心が強く常に身構えているのだが、もう攻撃するような気力も失せた年寄は安全無害と見做すのか、あるいは寂しそうな様子を見て身内のように感じるのか。散歩老人を見て逃げもせず、じいっと日向ぼっこしている。(水)

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浅春の石打ち当てし鍬の先     今泉 而云

浅春の石打ち当てし鍬の先     今泉 而云 『合評会から』(日経俳句会) 反平 春がまだ浅いという季語に沿っている。 ゆり 春と言うとぼんやりしているという句が多い中、これは自分から身を動かして働いている。そんな雰囲気がいい。 鷹洋 春浅い実感が出ている。 木葉 「打ち当てし」で予期しない出来事が上手く表現されている。 てる夫 まだよく耕されていない硬い感じ。浅春の雰囲気がよく出ている。 青水 どこかで出遭った気がするほど完成度が高い。季語が立ち上がってくる。 綾子 畑仕事をされる方の実感からの句。 水馬 畑に出るのが嬉しくて、鍬が石に当たろうが機嫌は良いようです。 三薬 畑を耕していて鍬に石が当たるのは当たり前。全然面白いと思わなかった(大笑い)。           *       *       *  ほんの小さな石でも打ち当てると意外に大きな音を立てる。まだ肌寒い空気の中で、硬質な響きが浅い春の気分を際立たせる。(水)

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暁光に浮びし稜線春浅し     高橋ヲブラダ

暁光に浮びし稜線春浅し     高橋ヲブラダ 「おかめはちもく」  早朝の五時半ごろだろうか。空は暗く、明け切るのはまだ三十分以上も先。しかし東の方を見ると、山々の稜線が暁の光で、うっすらと浮かび上がっている。寝起きのパジャマだけでは肩をすぼめたくなる時期だが、遥かな稜線が明けて行く様子を見ると、目を離すことが出来ないのだ。  浅春の雰囲気をよく伝えていると思う。枕草子の冒頭「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際」が浮かんでくる。こんな風景を見たいと思うが、私の場合、二階の窓から外を眺めても、黒々とした街の家並が続いているだけだ。布団の中で明け方の空を夢想するくらいのものか。  一つだけ注文をつけたい。「浮かびし稜線」にほんの少し手を入れたいと思う。原句の場合は既に浮かんでいる状況なので、やや締まりに欠ける。「浮かぶ稜線」とすれば「いま、実際に見ている」という臨場感が生れるのではないだろうか。これなら「中七」にもぴたりと収まっている。(恂)

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