春浅きあったか便座につい長居     杉山 三薬

春浅きあったか便座につい長居     杉山 三薬 『この一句』  温水洗浄便座の普及で、冬場のトイレが実に楽になった。トイレの時代ごとの変わりようはかなりドラマチックである。江戸時代から明治時代の下町は棟続きの長屋が多く、十軒くらいが囲む中庭の中心に共同の井戸端があり、奥の隅に共同便所があった。昭和時代になっても相変わらず便所は共用というアパートが多かった。もちろんその頃の庶民住宅には風呂場は無く、住人はすべて銭湯に通った。  「内風呂(うちぶろ)」と言って、自宅に風呂があり、ちゃんとした便所のある一戸建て住宅を構えるのが下層から中流へ這い上がる「しるし」ともなっていた。もちろんその当時の便所は全て「汲み取り式」で、銀座から日本橋、青山通りにも特異な香りを振り撒きながら糞尿運搬車が走っていた。  1964年の東京オリンピック開催に当たって下水道が整備され、一挙に水洗便所が普及した。その後の日本のトイレ革命は劇的。今では腰を下ろした途端に換気装置が動き出し、便座は心地良い温みをもたらす。新聞などを持ち込んで坐ろうものなら、お父さんいつまでたっても出て来ない。(水)

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噺家の羽織すべらし春の色     田中 白山

噺家の羽織すべらし春の色     田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 噺家がよくやる仕草ですね。作者は春になって寄席にでも行ったのでしょうか。楽しい感じ、明るい感じがよく出ています。 春陽子 まくらをしゃべりながら羽織を脱ぐ光景ですね。「春の色」は何の色だろう。鶯だろうか、浅葱だろうか、などと想像して読みました。 迷哲 面白い句だが、「春の色」は羽織の色なのか、それとも着物の色なのか、どちらかよく分からないなと思いました。           *       *       *  これはたぶん羽織の裏の色だろう。近ごろの若手は色盲かと疑われるような、派手々々しい色の着物や羽織で高座に上がるのが居るが、芸も良く落ち着いた噺家は羽織裏に凝った色合いの裏地を見せてくれる。この句、やはり「春の色」と言い止めたところがいい。桜色かも知れない。  さりげなく羽織をすべらす一瞬をうまく詠んだものだなあと思う。その時、ちらりと桜色の裏地が見えた。「師匠、やるねえ」。(水)

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春光や天使のはしご駆け下る      宇佐美 諭

春光や天使のはしご駆け下る      宇佐美 諭 『おかめはちもく』  雲の切れ間から地上に射し込む光の筋を「天使のはしご」とは。私はとても感心し、合評会で「うまい表現を思いついたものだ」と話した。すると作者の答えは「いや、そういう言葉が元々あるんですよ」とまことに正直なもの。周囲の「黙っていればいいのに」の声に笑いが起こった。  ごく普通に見ることがあり、誰もが「ああ、あれか」とうなずける自然現象である。旧約聖書にある言葉で、イスラエル民族の祖・ヤコブが夢の中で「天使たちの上り下りするはしご」を見たことに由来するだという。そう聞くと、急に有難味が増してきて、神々しい風景と思えてくる。  ただし「春光や」はどうだろうか。「や」で切れたのだとすると、誰が、何が「天使のはしご」を駆け下って来るのか。作者は「“春光の”かとも思ったが、言葉の調子が・・・」と言う。ならば春光の傍題「春の色」を使ったらどうか。いかにも春らしい色彩が雲の間から駆け下りてくるのだ。(恂)   添削例  「春の色天使のはしご駆け下る」

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春浅しこの先緩やかな上り     中嶋 阿猿

春浅しこの先緩やかな上り     中嶋 阿猿 『季のことば』  変わった句である。面白い句だとも思った。道を歩いていることは確かなのだが、町中の道なのか、大通りなのか、散歩道なのか、山道なのか、さっぱり分からない。なぜこの道を歩いているのか、についても思い描く手掛かりがない。そのようなことを敢えて意識して作った句なのだろうか。  抽象と具象について、こんな説明を聞いたことがある。「黄色いものがある」と言われて、漠然と黄色いものを思い浮かべられる人がいる。一方、卵の黄身を思い描く人がいる。前者は抽象派で、後者は具象派なのだという。私は後者である。物ごとはおおよそ、具象的に思い描かざるを得ないのだ。  句の作者はともかく歩いていている。そう思うだけで、想像はどんどん膨らんで行く。「この先緩やかな」とあるから、何度も歩いていて、よく知っている道なのだ。芽吹きの近い雑木林が浮かんできた。道は林に入っていく。まさに春浅き頃。汗のにじむ首筋に、風の心地よい季節でもある。(恂)

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旅芸人しゃぼんの玉に入りけり     塩田 命水

旅芸人しゃぼんの玉に入りけり     塩田 命水 『合評会から』 迷哲 大きなシャボン玉が作れるようになりました。見た通りの句でしょうが、春の雰囲気が出ています。 可升 自分の作ったシャボン玉に自分が入るという芸は、あまり記憶にありません。ありのままの光景をありのままに詠んだのでしょうが、ユーモアを醸し出しているように思います。 幻水 シャボン玉の中に入る旅芸人、春らしい雰囲気です。ペーソスも感じますね。 而云 子供たちが吹くというイメージのシャボン玉ですが・・・。このような句が出来るとは、驚きました。 水牛 春の麗らかさに加え、哀切さもある。見世物のシャボン玉は合成樹脂を使うので、とても大きくなります。 木葉 「しゃぼん玉に入りけり」は素晴らしいが、「旅芸人」はいかにも古臭い。別の表現はなかったかな。 水牛 外国からも来ている人もいるので、「旅芸人」でもいいかな。(笑)。               *         *          *  大道芸人が自分の吹くシャボン玉に入り、風に乗って飛んで行った・・・まさかね。しかしシャボン玉に人が入るまでは現実だ。シャボン玉は子供の遊びと思っていたが、季語も時代とともに随分、変わっていくものだ。(恂)

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親戚はつかず離れず彼岸過ぎ     星川 佳子

『この一句』  彼岸過ぎの思いに同感した。私の場合を言えば、菩提寺に親戚や一族の墓が三つほどあり、墓参りの度にそれらの墓にも手を合せている。彼岸の終る頃に行ったら、我が家の墓に花が数本、供えられていたことがあった。ああ、親戚の誰かが、ウチの墓に花を恵んでくれたのだ、と思う。  従兄弟、甥、姪など親戚との関係は年ごとに薄らいで行く。子供の頃は兄弟のようなもので、互いの家に勝手に入っていき、キャッキャと騒いでいた。十代の終わりごろまでは、電話で話し合うこともあった。ところが社会人になってからは関係が遠くなり、年賀状だけの付き合いになっていく。  老境に入った今、彼らは元気かな、と思うことはあるが、メールをやり取りするほどではない。たまに顔を合わせれば、けっこう盛り上がり、「じゃ、また」と言い合っても次に会うまでの段取りが億劫だ。一族とは、人間とは、人生とは、こういうものか、と彼岸過ぎに思うのである。(恂)

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彼岸過ぐ心は冬に置いたまま    斉山満智

彼岸過ぐ心は冬に置いたまま    斉山満智 『合評会から』 的中 彼岸は過ぎたけれど、心は冬の季節のままで、なかなか春にはならない、というところでしょう。 白山 こんなことも確かにあるなぁ、と思っていただきました。 斗詩子 彼岸過ぎまで寒さが残り、身体の動きはぎくしゃく。日によって気持ちが重苦しくなったりして、なかなか明るい気持ちになれない。「心は冬に置いたまま」に、そんな心のありようが表されています。              *          *         *  この時期、「早春賦」を口ずさみたくなる。「♪春は名のみの風の寒さや」。谷の鶯は、まだその時期ではないと、歌を歌わない。そして春待人の心は、冬と春との間を行ったり来たりしながら、曲の最後で「いかにせよとのこの頃か」と悩むのだ。そんな微妙な季節感をこの句は、上手く詠んでいるなぁ、と感心した。  実は作者は句会会場に到着寸前、急に体調を崩し、電話で「欠席」を伝えてきた。句会の開始の頃で、仲間は「大丈夫かな?」と心配しきり。お宅はエアコン完備なのだろうが、炬燵で暖まる作者の姿を、何となく想像してしまった。ちょっと注文の一言。下五「置いたまま」は「置きしまま」がいいかな、と思う(恂)

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からからの地を分け芽吹く時を告ぐ     大平 睦子

からからの地を分け芽吹く時を告ぐ     大平 睦子 『おかめはちもく』  春先は雨が少なく大気も地面も乾燥状態になるのだが、今年の二月は特にそれが激しかった。散歩の道端などはかちかちだった。「でも時が来ればそんな土を割って、草の芽が生えて来る。凄いものだなあ」と、雑草の底力に感心している作者の眼差しがうかがえる。とてもいいところに目を付けたなあと感心した。  しかし詠み方に少々難がある。最初は、「からからの地を分け芽吹く」で切れ、「時を告ぐ」という句だと思った。でもそれでは「春が来たよー」という「時を告ぐ」が取って付けたようになる。もう一度読み直してみると、これは「からからの地を分け」、「芽吹く時を告ぐ」なのだと思った。だがこれだと最初から最後まで切れ目無く続いてだらだらした印象だ。  さらに、俳句では「芽吹く」は「木の芽」を指す。草の芽吹きは「草の芽」「下萌」「草萌」である。だからここは「芽生え」と普通名詞化して、別に早春の季語を据えたらどうだろう。  (添削例) からからの地を割る芽生え浅き春    (水)

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春浅し黒々並ぶ土竜塚     大熊 万歩

春浅し黒々並ぶ土竜塚     大熊 万歩 『合評会から』(日経俳句会) 好夫 「春浅し」ですから、まだ周りの木々も緑になっていない頃。日射しで湯気が上がっている地面に土竜塚がある。絵としていいなと思った。 二堂 この間、ゴルフ場の木の下に土竜塚がありました。早くも頑張っているなと思ったものです。 睦子 春の声を聞くと庭に土竜塚がやたら目立ち、可哀そうと思いながらも見つけるとつい踏んでしまいます。 正市 映像がよく見える。 百子 土竜塚が「並ぶ」と言うのがちょっと分からない。そんなには並ばないのではないか。ぼこぼこ出てくるが一列ではないと思う。 二堂 土竜は地下に一本の道を堀りその両側に居間、食堂、便所とかを作っていくそうです。そうして掘った泥を上げるので塚が並ぶように見えるんでしょう。           *       *       *  土竜のトンネルに居間や便所があるとは知らなかった。「黒々続く」ぐらいの方がいいのではないかとも思ったが、とにかく面白い情景だ。(水)

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春浅し駅前花壇植栽中     向井 ゆり

春浅し駅前花壇植栽中     向井 ゆり 『季のことば』  この句の季語はもちろん「春浅し」で、二月から三月初めをうたっているのだが、その中身を駅前花壇の植栽作業としたところがいい。これによっていかにも「早春」の感じのする新鮮な句になった。  近ごろ、東京近辺だけでなく全国どこへ行っても駅前広場が綺麗になったことに驚く。日本の玄関である東京駅丸の内口も去年までは工事中だったり、いろいろな夾雑物があってゴチャゴチャしていたのがすっかり整備され、皇居前広場まで見通せるようになってすっきりした。私の住んでいる横浜も、横浜駅こそ相変わらずごたごたしているが、桜木町駅や関内駅は汚らしいばかりだったのが、花壇や植え込みなどが出来て見栄え良くなっている。日本経済は図体が大きくなるに従って動きが鈍くなり、景気停滞の印象が尾を引いているけれど、こうした"腹の足しにならない"ような所にも改善の手が伸びているのは、国力がついてきた証しとも言えよう。  花の種蒔く、球根を植える、苗植える等々は全て春の季語。「さあいよいよこれからだ」という気分がふくらんで来る。(水)

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