竿あまた並ぶ運河のうらうらと     廣田 可升

竿あまた並ぶ運河のうらうらと    廣田 可升 『合評会から』(酔吟会) 木葉 「うらうらと」を下五に持ってきたところに巧みさを感じます。上五、中七には実景の強さがありますしね。 睦子 情景が目に浮かびます。「麗か」にぴったりだと思いました。 涸魚 そうですね。春の長閑な情景です。 水馬 これと言って発想の素晴らしさはないのだが、実景の強さと季語のマッチングがしっかりしています。 鷹洋 潮来あたりの風景でしょうか。釣り糸の先に行く船。いい光景です。 双歩 普通は「うららけし」とするのを「うらうらと」としたところがいいですね。竿の先の浮きが「うらうら」とたゆたっている、そんな感じですね。 反平 だけど、運河や川の春の釣りは木葉さんはじめいろんな人が詠んでいるからなあ。 木葉 まぁ「運が」良かったのでしょう(笑)。           *       *       *  確かに見たような気もするが、何と言っても気分のいい句だ、ということで最高点を獲得。(水)

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子をあやすゆらゆらゆらり蝌蚪の紐     田村 豊生

子をあやすゆらゆらゆらり蝌蚪の紐     田村 豊生 『おかめはちもく』  「蝌蚪(かと)」とは何か。一般の人にこう訊ねて、何割の人が「おたまじゃくし」と答えられるだろうか。虚子が使い出して広まったとされ、山本健吉は「(その)大勢は如何とも抗し難い」と嘆いている(日本大歳時記)。とは言え、たったの二音とは有難い。俳句語として使って行こう、ということになる。  そしてもう一つ「蝌蚪の紐」。紐状のおたまじゃくしの卵を見たことのない人はこれも「?」となるだろう。しかしこれらを使って俳句を作ると、新たな知識を増やすことになる。そんな効用を述べて句会の兼題としたら、続々と「蝌蚪」の句が登場した。「便利だからねぇ」という言葉があちこちから聞こえていた。  そして掲句、「ゆらゆらゆらり」が好評だった。私も同感だが、「子をあやす」は、どうかな、と首を傾げた。波が蝌蚪になる前の卵をあやしているという、擬人法がやや気にかかる。句を選んだ一人が「ハンモックのようだ」と感想述べていた。その案を頂き、「蝌蚪の紐ゆらゆらゆらりハンモック」としてみたい。(恂)

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雛祭妻と二人のちらし寿司     石丸 雅博

雛祭妻と二人のちらし寿司     石丸 雅博 『季のことば』  「二月は逃げる」というが、三月の逃げ足も速い。雛祭はほんのこの前のことなのに桜の開花が話題になり出すと、もう遠い日のように思えてくる。俳句会でこの句を見たのは雛祭の一週間ほど後だ。それを今、ブログに載せたのは早業のように思っていたが、読み直すと時期遅れの感もある。  時の流れは速いのか、遅いのか。年齢を重ねるに従って早く感じるようになると言われているが、人それぞれの違いもあるようだ。ある人は忙しければ早く過ぎると言い、それは逆だ、と主張する人もいる。さてこの日、ご夫妻二人で過ごした時間は、どのように過ぎて行ったのだろうか。  お子さんはみな独立し、二人だけの生活になっている。雛の日がやってきたので、娘さんから預かっているお雛様を飾り、奥さんの作ったちらし寿司を二人で味わったのだ。夜であれば、いや昼間でも作者は好きな酒を飲んだのではないか。夫婦の時間はゆったりと流れていったと思われる。(恂)

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春光に笑み浮かび出て摩崖仏     河村 有弘

春光に笑み浮かび出て摩崖仏     河村 有弘 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 春になった、という感じですね。想像力を掻き立てられました。 久敬 「摩崖仏」という言葉を初めて知った。摩崖仏、ああそういう仏像なんだ、と思った。興味深い風景ですね。 諭 スケールの大きさを感じます。仏像が笑みを浮かべている。春が来たという感じで、ユーモアも感じる。 照芳 春光という光線で笑みが浮かぶのかな。そんな物理的な疑問もあるが・・・。 有弘(作者) 粗削りの仏像に光が当たって、微笑が浮き出てくるという感じです *                *         *        *  摩崖仏と言えばまず国宝の臼杵の石仏群だが、この句を見て奈良県宇陀市、室生寺に近い大野寺の石仏を思い浮かべた。高さ十四叩1陀川とその両側の河原を挟んで、かなり遠い所にあるのに、「大きいなぁ」と嘆声を挙げたほどの存在感があった。あの石仏に春の陽が当たれば、笑みが浮かんで来そうである。  念のため宇陀の摩崖仏をネットで調べてみたのだが、どの写真も顔がはっきり写っていない。なぜだろうか。思い出せば、私が見た時は燦燦と陽が輝いていた。あの時、摩崖仏様は笑っておられたのだろう。(恂)

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春光や天龍の鮎高く跳び     宇野木敦子

春光や天龍の鮎高く跳び     宇野木敦子 『季のことば』  天竜川は長野県の真ん中にある諏訪湖から流れ出す。初めは「これが天龍か」と驚くほど川幅が狭く、冗談でなく本当に飛び越せるほどなのだ。ところが伊那谷を南へ下るうちに、中央アルプス、南アルプスから流れ出る水をどんどん取り入れ、たちまちのうちに急流の大河に化していく。  作者は毎日、天竜川を見ながら少女期を過ごした。戦時中、東京から親族の住む喬木村に疎開し、中学生の時に東京へ戻ったが、今でも伊那へちょくちょく出かけて行くそうだ。この季節の天龍は、若鮎の遡る季節でもある。急流を跳ね飛ぶ鮎を、岸辺からも見ることが出来るのだろう。  「春光」は句会の兼題であった。この季語によって、天龍川の鮎の姿が作者の脳裏に浮かんで来たのではないか。歳時記によっては春光の傍題として、春景色、春色、春容、春景などを掲げている。しかし何と言っても魅力的なのが「春光」だ。特に鮎に配した時、春光はさらに輝いてくる。(恂)

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船走る投げ餌に鴎春の色     竹居 照芳

船走る投げ餌に鴎春の色     竹居 照芳 『合評会から』(三四郎句会) 久敬 走る船、投げ餌を追う鴎、波に広がる春の光など情景が眼に見えるようです。 信 鴎は餌を投げてもらえるのを知っていて、必ず船について来る。春真っ盛りの情景ですね。 雅博 春の色を上手く表現している。色彩感のある句と思いました。 諭 乗客が餌を撒くと、鴎が獲物を狙って頭上から舞い降りてくる。そんな風景を爽快に描写しており、春らしい躍動感が伝ってくる。 基靖 素直な句です。船が走り、投げ餌に鴎・・・。躍動感もあります。色彩感が豊かですね。 尚弘 春らしいムードだ。鴎の声が聞こえてくるような句です。                       *       *       *  この句は「船走る」で切れる。「投げ餌に鴎」でも、「春の色」でも切れる。いわゆる三段切れだから、このタイプの句はよくない、とされる。私はそんな先入観に捉われていたのだが、最高点を得た掲句を見直し、呟いてみた。三段切れなのに爽快なリズムが感じられた。波を一つ二つと越えて行く客船の動きも見えてくるではないか。  「や・かな」はダメ。季重なりは避けよ。字余り、字足らず、無季、破調も・・・。俳句は一筋縄ではいかない。(恂)

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彼岸過ぎ最後となりぬ勤め道     池内 的中

彼岸過ぎ最後となりぬ勤め道     池内 的中 『おかめはちもく』  日本の官庁や学校は4月が年度初めだから、それにならって3月を決算期とする会社が多い。従って人事異動も3月に行われる。サラリーマンの「卒業」である定年退職。定年に達した人が毎月退職して行く会社もあるが、前年4月以降、今年3月迄に定年誕生日を迎えた人が、この時期にまとめて退社することとしている企業や団体もある。  とにもかくにも3月は官庁も企業も、そして個人にとっても節目の月である。長年勤めた職場ともお別れ。この句は、その気持が「彼岸過ぎ」という季語に込められている。学校を卒業して就職して以来ざっと40年、倦まずたゆまず勤務し続けた職場から離れるのは辛いし、寂しい。転職して今の職場に移ってきた人でも、現役最後となる勤め先との別れには深い感慨を抱くことであろう。  とてもいい句なのだが、「勤め道」という言葉がどうだろうか。あれこれ考えた末に据えた造語なのだろうが、ちょっとこなれない感じがする。単純かつ素直に「通勤路」とした方がいいように思う。(水)

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人違ひしてもされてもうららけし     嵐田 双歩

人違ひしてもされてもうららけし     嵐田 双歩 『合評会から』(酔吟会) 反平 春のゆったりした空気は、万事許してしまう心境になりますね。いいところに目を付けた新鮮な句です。 春陽子 間違えた方も、間違えられた方も互いに笑っている。「麗か」の雰囲気をよく表しています。 木葉 「麗か」は何をやって許されてしまうんですんねぇ(笑)。それでいただきました。           *       *       *  膝を悪くしている連れ合いに代わって、時々スーパーに買物に出かける。先日も一寸離れた所の大きなスーパーで品物を物色していたら、知らないオバサンが私のカートに商品をぽんぽん入れる。びっくりして顔を見つめたら、はっと気がついて、「あらやだ」と頓狂な声を発した。そのオバサンのご亭主らしき人が私の前でカートを押していた。この句の作者もデパートに行って、奥さんと間違え別の人に声を掛けてしまったらしい。雑踏の中ではしょっちゅう起こることだが、罪の無い取り違え、いかにものどかな春らしい感じがする。(水)

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亡き友と昼酒を酌む彼岸かな     中村 迷哲

亡き友と昼酒を酌む彼岸かな     中村 迷哲 『季のことば』  肝胆相照らす友が亡くなれば、たとえ十分に生きたと言える年齢であろうと「もう少し生きていてほしかった」と悔やむ。その一方で、お互い古稀を越えた年頃であれば、日を経るに従って「仕方がない、どちらかが先に逝くのだから」と思うようになる。これは別に不人情ということではなくて、自然に備わった忘却作用なのだろう。やがて、哀しみが徐々に薄れて来るに従って、生前の互いの付き合いのシーンがあれこれ甦ってきて、それを懐かしむことが出来るようになる。  「年齢とともにこういう光景の現実感が強くなります」(的中)、「私は小さい頃から同じ場所に住んでいるので、同級生がまた減ったよみたいなことがだんだん多くなってきました」(光迷)といった感想が寄せられたが、まさにそういうことであろう。  うららかな彼岸の午後、静かに酒を飲む。傍目には一人で昼酒をやっているように見えるが、そうではない。彼岸と此岸との会話が始まっているのだ。しみじみとした感じではあるが、少しも湿っぽくない。むしろのどかな彼岸風景である。(水)

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春浅し時刻通りに朝ぼらけ     鈴木 好夫

春浅し時刻通りに朝ぼらけ     鈴木 好夫 『季のことば』  朝早く手洗いに起きたら、もうあたりが薄明るくなっている。夜明けがだいぶ早まったなあ、まだとても寒いけれど春になったのだなあなどとクシャミしながら思ったりする。この句はそうした気分をうまく表している。  「時刻通りに朝ぼらけ」という言い方がとても面白い。当たり前じゃないかと言ってしまえばそれまでだけど、まさに暦の時刻通りに朝日が昇ることが嬉しいのだ。  東京近辺の冬至の日の出は午前六時四十六分頃だが、春分の日になると五時四十四分と一時間早まっている。単純に平均すると、冬至から春分まで1日40秒ほどずつ夜明けが早まることになる。一日二日ではその違いはあまり気づかないが、一週間、十日ともなればはっきりと分かる。  日沒を比べるとそれがもっと鮮明になる。冬至の日没は四時半、春分の日没は五時五十分頃。日暮れが遅くなったことが誰にでも分かる。「日永」が春の季語になったのも頷ける。とにかく朝ぼらけの早さと日永には、心を浮き立たせる働きがあるようだ。(水)

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