三囲の句碑のほとりや猫の恋     廣田 可升

三囲の句碑のほとりや猫の恋     廣田 可升  『おかめはちもく』  選句の際、「三囲」を「みかこい」と読む声が聞こえた。実は私もこの句を見た時、「?」と一瞬、考えたのだ。すぐに「みめぐり」と気付いたが、読みに少しでも滞りが起こるようでは句の作り方として好ましくない。作者が判明した時、名手の作にしては、ちょっと緩みがあるかな、と思った。  改めて句を見直す。「ほとり」があまり生きていないように思われた。代わりに「三囲神社」まで書けば、すんなりと読める人が多くなるだろうが、それでは芸がない。三囲神社は芭蕉の一番弟子・宝井其角の句碑があったはずだ。ネットで調べたら、「其角 雨ごいの句碑」を写真で確認出来た。  其角は当時、江戸一番の人気者だったという。干ばつの年、其角が三囲神社を詣でると、農民たちが集まってきて「雨乞いの句を」と懇願した。さればと其角は「夕立や田を見めぐりの神ならば」と詠んだ。「其角」の名を出せば「三囲神社」と気付き易いはず。なお其角の文に「翌日雨降る」とある。(恂)   添削句   「三囲の其角の句碑や猫の恋」

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用水の微かに流る根白草     高井 百子

用水の微かに流る根白草     高井 百子 『合評会から』(酔吟会) 而云 根白草、芹ですね。緩やかな流れの中に芹がひっそりと生えている感じがよく出ている。 水兎 美しい形の句だと思いました。水のきれいなところに住む人が羨ましいです。 水牛 早春の感じがよく出ていて、感心しました。芹は本当にけなげに生えてくるんですよ。 誰か 根白草が芹だとは知らなかった。 水牛 昔の俳句にはよく出てくるが、今はあまり使わない季語ですけれどね。 百子(作者) 淡々と詠みました(笑)。この時期、用水路の水は僅かですが、芹は伸び始めています。              *         *         *  芹は春の七草の一つ。田の畔や小さな流れの岸辺に生え、春の盛りになると、びっしりと辺りを埋め尽くすほどだ。秋田の郷土料理きりたんぽに欠かせないが、おひたしのほろ苦さが春の到来を知らせてくれる。  この時期、農業用水の水量は少なくなっている。句の水は流れているかどうかはっきりしないほどなのだろう。しかしよく目を凝らすと水はゆるゆるゆると動いているのが確認できる。おや、芹も少しずつではあるが、伸びてきたぞ・・・。農業地帯からもたらされた季節感である。都会にも春が近づいてきたぞ、と思う。(恂)

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神武綏靖後は続かず紀元節     田中 白山

神武綏靖後は続かず紀元節     田中 白山 『この一句』    「神武」は日本初代の天皇であることを多くの人が知っている。「綏靖」はどうだろうか? 神武の後だから、二代目の天皇か、と想像は出来ても、この漢字を読めない人が多数を占めそうである。読みは「すいぜい」だが、もう一つ質問がある。この漢字、あなたは書けますか?  戦前の小学校(国民学校)では歴代天皇の名を覚えさせられた。敗戦時が二年の私は暗記を免れたが、上級生が声を出して覚えるので、最初の方は自然に頭に入ってしまった。ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク・・・。記憶力のいい友だちは、明治、大正、そして最後の「今上」(昭和)まで言えたのだ。  まさに「さまざまなこと思い出す紀元節」だが、もう一つ気付いたことがあった。建国日になるとよく冗談で「今日は“きげんぶし”だな」と言う友人がいるのだ。若者や子供の中には、真面目にそう読んでしまう人がいるかも知れない。下五は「建国日」の方がよかったかな、と思っている。(恂)

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建国日このごろ聞かぬ日本晴      大下 綾子

建国日このごろ聞かぬ日本晴      大下 綾子 『この一句』  句を見て建国日は「晴れの特異日」だったような気がしたが、調べたらそうではなかった。文化の日や体育の日も最近の統計では晴れの特異日ではないらしく、天候の面では祝日も普通の日と考えた方がよさそうだ。ならば建国日と日本晴の関係は? この答えを出すのは、かなり難しそうである。  建国記念日の前身・紀元節は敗戦後に消滅している。その後、与党側の法案提出、野党側の反対による廃案を繰り返すなど、かなり強引な国会審議を経て、建国記念日が出来上がった。ところがその昔の紀元節と同じ日あることなどから、国民の間にも未だ、しっくりしないものが残っている。  再び掲句を見つめ直し、辞書で「日本晴」を調べた。その第一義は「雲一つない快晴」だが、第二義の「心にわだかまりが全くないこと」にはっとした。私の場合、建国日にも「日本晴」という語にも「わだかまり」を感じざるを得ないのだ。それは何故かと、この句は問うているのだと思う。(恂)

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水色の尾長群れ来る冬の庭     堤 てる夫

水色の尾長群れ来る冬の庭     堤 てる夫 合評会から(番町喜楽会) 百子 我が家にいろいろな鳥が飛んで来ますが、尾長は見たことがありませんでした。本当に水色なのでしょうか。だとすれば色のない冬の庭によく合っていますね。 幻水 私も実際に見たことがありませんが、確かに冬の庭に合っていそうな感じだ。 而云 尾長はねずみ色だと私は思っていた。でもこの句を見て、あれは確かに水色にも見える、と気付いた。声が悪いし、うるさいし、印象が悪かったけれど、よく見ればきれいな鳥ですよね。 光迷 群れてきて、ギャァギャァとうるさいですが・・・。あの鳥、水色に見えるときもありますよ。 てる夫(作者) 庭で見るのは初めてでしたが、事典で調べたら水色でした。               *         *         *  事典によると、おなが(尾長)の尾羽や翼の一部は「青灰色」だそうで、ねずみ色や青色に見えて不思議はない。「ギャァギャァ」と鳴いてうるさい奴だが、「水色」という表現によって印象が一変した。体長が40造發△襪里法他の鳥との勢力争いに負け、東京ではあまり見なくなったという。おなが頑張れ!(恂)

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建国の日列島箍が緩みだす     野田 冷峰

建国の日列島箍が緩みだす     野田 冷峰 『おかめはちもく』  平成最後の建国記念日、日本国は大いに揺らいでいる。厚生労働省の「毎月勤労統計」の不正問題もその一つ。国家運営の基本となる統計作成作業がデタラメだったということは、内閣総辞職すべき重大問題なのだが、その総責任者たる安倍晋三内閣総理大臣は国会で「重大な責任を感じております」と恐縮した体を装いながら、所管官庁の役人の首をすげ替えるくらいで、自身は全く責任を取ろうとしない。そして、最も不思議なのは、こうしたいい加減な政府のやり方を国民が怒らないことである。アメリカやフランスなら即座にデモ行進が始まるところである。  つまり、今の日本は作者が喝破したように「箍が緩んで」いるのだ。「建国記念日」の2月11日を前に、「無反応」な国民大多数を抱えた日本国は漂流し始めた。そこを鋭く衝いた社会性俳句である。  それなのに、ああ惜しいかな、この句は「建国の日」などと、全く意味のない「の」を挟んで無用の字余りを生み、鋭い警句を台無しにしてしまった。「の」を取り去れば問題一挙解決、そのまま通用する。(水)

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若者を追越し歩く息白し     和泉田 守

若者を追越し歩く息白し     和泉田 守 『季のことば』  外気温が冷たいと吐く息は白く見える。真冬なら当たり前のことなのだが、当たり前のことを捉えて、その季節をまざまざと感得させるのが俳句である。冬の季語「息白し」、「白息(しらいき)」と詠むこともある。  「近ごろの若い者は・・」とは、いつの時代でも老人特有のセリフであり、これを言うことが即ち年老いた証拠である。ということは重々わきまえているのだが、どうにもこうにも近ごろの若者の軟弱ぶりには業を煮やす。何しろ動作が鈍い。混雑する駅構内の通路などでものったりのったり歩いている。スマホをいじくりながら歩いていると自然に歩みが遅くなるが、それが身についてしまったのか、素手で歩いている時も遅い。時にはずり落ちそうにしたズボンの男の子と、パンティが見えるほどたくし上げたスカートの女の子が手を繋ぎ、肩を組み、階段の踊り場でいちゃついていたりする。  まあこういう弱い人種を育ててしまったのも我々大人の責任なのだが、それにしてもなあと思う。そして、急がずとも良いものを、息せき切ってのろまを追い越し、ぜいぜい白い息を吐いている。(水)

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夢破るお掃除ルンバ寝正月     谷川 水馬

夢破るお掃除ルンバ寝正月     谷川 水馬 『この一句』  「現代的で面白い句だ。こういう句を詠んでみたかった」(三代)、「寝ているところにルンバが動いて来たという、とてもユニークで愉快な句」(研士郎)、「実家で母がルンバを使っている。やはり寝ている隅へ隅へとやって来てうるさいと言っている」(義則)というように、この「自動掃除機」について経験談も交え、句会はひとしきり賑やかになった。  我が家も新し物好きで、初期の頃に使ってみたが、うるさいだけで役に立たない。日本家屋の部屋にはいろいろな小物がいっぱい置いてある。ぶつかると方向転換すると売場の説明だったが、しばしば止まってしまい、その都度持ち上げてやらねばならない。仕舞にはバカバカしくなって物置のこやしになった。  作者は暮れに病み、この正月は心ならずも寝正月となってしまった。このルンバは我が家にあった古いのと違って、ぐんと賢くなっているのだろうが、やはりそれなりに喧しいようだ。とろとろまどろんでいるベッドの足元にゴトゴトぶつかってきた。「なんじゃい、お前か。せっかくいい夢見てたのに・・」。いやいや、ルンバも「早く良くなってね」と言いに来たのだ。(水)

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父逝って炬燵が広し屠蘇を酌む     中沢 義則

父逝って炬燵が広し屠蘇を酌む     中沢 義則 『季のことば』  正月の「屠蘇」は中国唐時代(618~907)に始まった風習だが、今や日本だけに残っている。しかし日本でもこの奥床しい「屠蘇の祝い」を行う家が年々少なくなっているようで、その内に忘れられてしまうかも知れない。  暮れになると薬局が、山椒、細辛(さいしん)、肉桂、桔梗、乾姜(かんきょう)、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮(ちんぴ)など生薬を袋に入れた「屠蘇散」を売り出す。これを酒と味醂を混ぜた中に浸したものが屠蘇酒である。漆塗りの盆に載った三つ組みの盃と銚子を神棚の前や床の間、あるいは飾り棚に飾り、元旦、屠蘇散が染み出して芳香の漂う屠蘇を酒器に注ぎ、一番幼い者から順繰りに頂く。これで無病息災・不老長寿間違いなし、「お目出度うございます」となる。  この句は亡父の喪が明けた正月風景。炬燵でお屠蘇とはかなりくだけた様子だが、伝統をしっかり守っているところが立派だ。一昨年の正月には老父が坐っていたところがぽっかり空いて、目出度さの中に一抹の寂しさをもたらす。新年詠としては珍しい情景を詠んだ句で、ちょっとしんみりもする。(水)

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回廊へ日の射し込める淑気かな     大下 綾子

回廊へ日の射し込める淑気かな     大下 綾子 『季のことば』  「淑気」(しゅくき)とは、俳句か短歌を詠む人以外にはほとんど馴染みの無い言葉であろう。年が明けて四辺がなんとなく明るく改まった感じ、「清清しい空気の中にみなぎる瑞祥」といったところであろうか。「そんな、呪文みたいなこと言って、いいカッコしなくてもいいよ」と中学生の孫に茶化されてしまうかも知れない。要するに「お正月らしい気分」のことである。  とにかく、なんとも畏まった感じの季語なので、これを用いて句を作るのは難しい。だからだんだんと敬遠されるようになって、近ごろあまり見かけなくなった。その内に絶滅季語になってしまうかも知れない。しかし、一年に一遍、お正月くらい、こういう畏まった気持になって句作するのも悪くない。  この句は、「淑気」という季語の本意をとてもよく表していると感心した。初詣の社殿。回廊があるというから由緒ある神社だろう。参道には大きな神木が繁っているかも知れない。玉砂利を踏んで神前に向かうと、回廊に初日が射し込んでいる。まさに淑気を感ずる格調高い句だ。(水)

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