春一番顔真卿の墨の跳ね     澤井 二堂

春一番顔真卿の墨の跳ね     澤井 二堂 『合評会から』 反平 顔真卿の書は跳ねが素晴らしいと聞いている。この句、季語に「春風や」とやるとだめで、「春一番」だから合っている。上手いもんだと思った。 冷峰 この「顔真卿」の展覧会は二度も見に行きました。彼の字のすごさは書の原則の厳守ですね。入り、止め、跳ね、その墨跡がいずれも書の原点のような感じで、「春一番」にも合っています 定利 顔真卿展を見て外へ出たら、春の強風に髪の毛が揺れたのでしょう。春一番が効いると思った。 木葉 「墨の跳ね」と「春一番」が呼応しています。                *         *         *  顔真卿(がん・しんけい)は中国唐代に活躍した官僚・武人。安禄山の乱で玄宗皇帝が楊貴妃とともに蜀に逃れる中、大奮戦の末、平原の戦いに勝利し、政府軍を救った。王義之と並び称される書は気力に満ちて、見るものを圧倒する。同展(東京国立博物館)は2月24日に終了したが、書の展覧会にこれほどの人が集るのか、と驚かされるほどの人気。どの作品の前でも中国語が聞えていたのが印象的だった。(恂)

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残雪や苔あおあおと三千院     旛山 芳之

残雪や苔あおあおと三千院     旛山 芳之 『この一句』  作者は日経俳句会に入会したばかり。この句はもしかしたら最初に作った句の一つかも知れない。作者が判明して、初めてにしたら、実にしっかりと形の整っている句だ、と感じた。三千院の苔庭に初春の季語「残雪」を配している。「景の色合いが浮かんでくる」(研士郎)という評は全く同感である。  京都市街の北東に位置する三千院。ここの庭は有名な西芳寺の苔の庭よりもすっきりと整えられている感じで、その中に石造りの童児が寝転んだり、頬杖をついたりしていた。そんな記憶は夏の頃に訪れた時のものだけに、句の緑と白の対比に「なるほどねぇ、残雪はいいなぁ」とつぶやいていた。  三千院ですぐ浮かぶのが永六輔作詞の「♪京都大原三千院~」。この二番に「栂尾高山寺」、三番には「嵐山大覚寺」が出てくるが、もし三千院が二番以下になっていたら、誰もがぱっと思い描ける寺になっていたかどうか。だからこそ永さんは、何を措いても三千院を一番先に、と考えていたのだろう。(恂)

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語りたき本ありバレンタインの日      大下 綾子

語りたき本ありバレンタインの日      大下 綾子 『合評会から』(日経俳句会) 実千代 いい句だと思いました。心の中のドキドキ感が伝わってきます。語りたい相手とはチョコレートには関係なく、もっと深いところでつながっていたい、という感じが出ています。 而云 高尚な雰囲気が感じられる。バレンタインデーにこういう句があっていい。男の人の句かな。 水牛 スペインのカタルーニア地方には親しい人に本を贈る「サン・ジョルディーの日」がある。バレンタインの日にもそんな雰囲気もあるので、想いを寄せる人と好きな本の話が出来たら、とこの人は願っているのかな。とてもいい句だ。 双歩 こんな事を言われてみたいなと思って、選びました。 万歩 商魂に踊らされることなく本質を見つめよという警世の句ですね。 阿猿 チョコと一緒に本も送ったのでしょうか、いろいろな光景が浮かびます。                   *         *        *  バレンタインデーは「本の日」にしたらどうか。義理チョコばかり貰ってきた男は心からそう思うのだ。(恂)

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防人の往きし横山春浅し     大倉悌志郎

防人の往きし横山春浅し     大倉悌志郎 『この一句』  東京・多摩市の丘陵地帯に「よこやまの道」という遊歩道がある。古代(七世紀)、九州防衛のために東国から徴用された防人(さきもり)たちが西へ向かった道だという。十舛傍擇嵳景眛擦砲蓮嵋豹邑返りの峠」などもあり、故郷を出て遥かな九州まで歩いて行った東国の男たちの苦労を思わずにいられない。  この徴用に旅費は出なかった。それどころか支配者層への税金も免除されなかった。旅に出る男たちにも、その後を守る農家の家族たちにも、大変な苦労がのしかかっていたはずだ。往路は道案内人が先導したが、帰路は「自由に帰れ」ということで、道に迷っての行倒れも少なくなかったという。  春浅い一日、作者はこの道をゆっくりと歩いたのだろう。私はまだ行ったことがないので、地図を広げて見た。「さくらの広場」「もみじの広場」「展望広場」。そして「鎌倉街道」「奥州古道」などを横切って行く・・・。ふと作者の後ろ姿が浮かんできた。この道は一人で歩くのが似合いそうである。(恂)

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ストーブに載せし弁当温もりて     工藤 静舟

ストーブに載せし弁当温もりて     工藤 静舟 『おかめはちもく』  おそらく作者の小中学生時代、半世紀以上前の思い出を詠んだものであろう。エアコン暖房など想像も出来ない時代である。教室の真ん中やや後ろに置かれた金網に囲まれたダルマストーブ。生徒たちは持って来た弁当箱を金網の上やストーブの回りに置く。置く場所にもクラス内の力関係が働く。炎の真っ直ぐ当たるストーブの上蓋に置いたら焦げてしまうから論外。さりとて裾の方の床に置いたのでは温まらない。最高の場所は級長やガキ大将が分捕る。そういう懐かしい思い出が次々に湧き上がって来る句である。  しかし、この下五の「温もりて」が問題だ。ストーブに載せた弁当が温まるのは当然で、こうした無くてもいい言葉が入ると句が緩んでしまう。下五を次のステップに移すと面白くなりそうだ。いくつもの弁当がだんだんと温まるにつれ、良い匂いがそこはかと漂って来るのではないか。  というわけで「ストーブに載せし弁当香りたつ」と直してみた。もう昼も近い。美味そうな香りに育ち盛りのお腹がぐうぐう鳴る。(水)

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あら汁に寒の弱りを癒しけり     徳永 木葉

あら汁に寒の弱りを癒しけり     徳永 木葉 『この一句』  魚を三枚に下ろし、身を取った後に残った頭や骨の部分が「あら」である。鯛や鰤など大型の魚のアラは捨ててしまうのが勿体ないような気になる。それを野菜と一緒に汁物に仕立てたのが「あら汁」。大昔は料理人が自分たち用に作っていた、いわゆる「まかない料理」だったのが江戸末期一般に広まった。今ではデパートの地下食品売場でさえ、鯛や鰤のアラが売られるようになり、こまめな料理好きの主婦がせっせと拵えるようになった。  あら汁が美味く仕上がるかどうかは下ごしらえが物を言う。まずアラを流水でさっと洗い、塩をまぶして10分から15分ほど置く。それを鍋に湧かした熱湯に入れて3,40秒、霜降りになったのを冷水に取り、全体がばらばらにならぬよう優しく、付いているウロコや血合いを除く。これとあらかじめさっと下茹でしておいた銀杏切りの大根と人参を一緒に、酒を5勺ばかり入れた出汁を張った鍋に入れ、斜めに切った長ネギも入れて煮る。煮立ったら味噌を入れて出来上がり。味噌ではなく、生姜を少し入れた醤油仕立てでも良い。あら汁と熱燗で大概の風邪は雲散霧消する。(水)

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端然と坐るが如く独楽回る     高石 昌魚

端然と坐るが如く独楽回る     高石 昌魚 『この一句』  独楽が回ると動いていないように見えるのは誰もが知っている。それを改めてこう詠まれると、なるほどそうだなあと思ってしまう。「いい大人が独楽の回るのをじっくり観察するというのは、一体どういう場面か見当がつきませんでした。その場面を想像する楽しさがある句です」(ヲブラダ)という面白い句評があった。まさにその通りで、一心不乱に独楽の澄んでいるところを見つめる作者の姿が浮かんできて、実に愉快である。  「如く」とか「様に」などという言葉はあまり用いない方がいいということは作者も十分承知の上だったようである。しかし、「動いているのに動かないように見える。ヴィヴィッドでなおかつ泰然としている様子をなんとか詠みたいと」思った作者は、まず「端然」という言葉を考えついたのだという。「端然と坐っているようだ」ということになれば、自ずから「端然と坐るが如く」というフレーズが生まれて来るであろう。  作者の自句自解を聞いて、写生句の作り方と場に応じた言葉遣いの要諦をおさらいさせてもらった。(水)

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地の起伏あらはにみせて野火走る     玉田 春陽子

地の起伏あらはにみせて野火走る    玉田 春陽子 『季のことば』  草の芽生えを促すと共に病害虫駆除のために、田畑や野原、家畜を放牧する丘などの枯草を焼く「野焼」の火が「野火」。早春の季語である。首都圏では三月に箱根仙石原で行われる薄原の野焼が豪勢だ。めらめらと立ち上がる炎の走る景色を眺めると、原始時代の人間になったかのように、血が騒ぐ。  しかし、昨今は地方の中小都市まで都会化が進み、野焼・野火を見る機会がずいぶん減ってしまった。大都市近郊の農村で野焼きすると、119番通報されたりすることがあるという。煙が迷惑だと言うのである。元来、人が住むべきではない所まで開発してしまったのに、野火の煙に難癖をつけるのは噴飯ものだが、まあこれも時代の趨勢であろうか。  この句は昔ながらの豪勢な野焼風景である。枯草は一旦燃え上がると物凄い勢いで広がって行く。「野焼の様子をよく十七文字に盛り込んだなぁと感心します。『地の起伏』に沿って野火が走るというのが実にいい」(白山)という句評を始め、句会では最高点を集める人気だった。野火が焼き尽くした真っ黒な地肌は、それまで隠れていた丘の起伏が鮮やかに浮き上がる。(水)

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満身で冬至南瓜を真っ二つ     山口 斗詩子

満身で冬至南瓜を真っ二つ     山口 斗詩子 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 この情景よく分かります。南瓜は固いですものねぇ。「満身で」じゃなく、「渾身で」かな。 哲 いや「満身で」でいいんじゃないかな。年代なりの気持が入っているような気がします。体重をかけて切っているんでしょう。私は料理教室で、そんな切り方は危ないからだめといわれましたが(笑)。 春陽子 やはり「満身で」がいいかなぁ。「全身で」という表現もあるけれど。「満身で~真っ二つ」という方が調べがいいですね。 可升 良い句だなと思いましたが、「冬至南瓜」は、一月の句会ならともかく、二月の句会には季節が合わないのじゃないかなということでいただけませんでした。           *       *       *  全体重をかけて、カボチャを真っ二つにと力んでいる姿が浮かんで来る。生き生きとしている。確かに可升さんの言うように二月句会では時期を失しているのだが、今年は一月例会が無かったので、目をつぶることにしよう。(水)

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ともかくも休みのうれし建国日     前島 幻水

ともかくも休みのうれし建国日     前島 幻水 『合評会から』(番町喜楽会) 百子 「建国記念日」は胡散臭い匂いもあって、私なんか、まるで興味がありません。そんな中で、この句が一番私の心境に合っているかなと思っていただきました。 春陽子 いま、「建国日」というアンケートを取ると、「休みが嬉しい」ということになるのでしょうね。 斗詩子 近所の子供にこの日に会ったので聞いたのですが、あまり知らないようで、知りたいとも思っていない、休めて嬉しい、そんな感じ。まさにこの句の通りです。           *       *       *  建国の日をめぐってのあれこれうるさいゴタクはさておき、「なにはとももあれ、休みというのが嬉しいね」という洒落っ気が面白い。今どきの人たちの建国日に対する思いはこんなものなのだろう。  ただし、戦前の忌まわしい軍国主義による「紀元節神話」は論外だが、建国の日を素直に祝えないのは淋しい。神話は「おはなし」と受け止めて、日本という国の成り立ちに思いを馳せる記念日があってもいいような気がする。(水)

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