ただの風邪医者の処方は三日分     堤 てる夫

ただの風邪医者の処方は三日分 堤 てる夫 『合評会から』(日経俳句会) 春陽子 「風邪かどうかはオレが決める」と医者にこないだ言われたばかり。リアリティのある句です。 双歩 私は七日分もらったけど、風邪なんか三日もあれば治るんだし、こういう細かい所に気づいたのがいいですねえ。 明男 本人は結構重い風邪だと思ったのに、医者からは「ただの風邪」と言われ、処方されたのはたった三日分。私も似た経験があり笑えるような笑えない句。 反平 作者の憮然とした表情が見えるけど、風邪を引いたくらいで医者に行くからこうなる。もっとも高齢になると肺炎が怖いから小生も行きましたがね。           *          *          *  今日は寒の入り。私の住む横浜は、昨日は日中14℃にもなるバカ陽気だったが、今朝はさすがに冷え込み、日中でも8℃にしかならない。暖房の部屋から庭に出るとぶるっと震えが来る。この温度差が風邪の一つのきっかけ。それに年寄ると一寸した風邪でもつい悪い方へ考えが傾きがちで、医者に行く。「ただの風邪」と鼻の先であしらわれると却って喜んでいる。(水)

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山並へ向かうカラスに冬夕焼      小泉 基靖

山並へ向かうカラスに冬夕焼      小泉 基靖 『おかめはちもく』  冬の暮方、山に帰って行く烏の群れに夕焼けが反映している、と私は掲句を解釈した。「カラスに冬夕焼」を素直に受け取ればそうなるはずだが、それよりずっと大きな画面を心に描いた人もいたようだ。即ち、夕焼けの広がる空を背景に、烏の群れが山並に向かって飛んでいく、というような情景である。  句会の後、私はこの句のことを結構長く考えた。烏の群れ“に”冬夕焼を配する、という見方もあり得るかも知れない。しかし素直に解釈すれば、“に”の持つ役割を重く見ることになるだろう。直しは「山並へ向かうカラス“や”冬夕焼」にすればいいのだが、今度は「作者にどう伝えるか」と腕組むことになった。  作者は俳句未経験で昨年途中の入会。句会への出席はまだ三回ほどか。俳句のセンスはありそうで、何より熱心さが目立つ。俳句の本を何冊も買い込み、社会人対象の講座にも出ているらしい。やる気をそがないことを第一にすべきだろう。彼に対する注意は「“カラス”の表記を漢字に」くらいかな、と考えている。(恂)

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大吉の出るまで引くや福詣     高井 百子

大吉の出るまで引くや福詣     高井 百子 『この一句』  前欄の作者は御神籤を引いたら「中吉」が出て「まあ、この程度でいいかな」という恬淡とした態度を見せた。ところが次に登場の作者は、大吉が出るまで引き続けるという。「この人根性あるねえ」(杉山三薬)というコメントがあった。では筆者は、と白状しよう。その昔、神籤の二度引きをした。  大学生の頃で、冗談めかして友人に「初めのは、どうなるのかな」と聞いた。友人は「気にしなければいいんじゃないの」と言った。神籤の言葉を信ずるかどうかは人次第。ならば大吉の確率は? とネットで調べると「29%」。そんなに当たるものか、と別の項を開いたら「16%」だった。  吉、凶などの分別も「大大吉、吉凶交々」なども含め、まことにさまざまで、「吉」と「中吉」の並べ方なども一定ではないという。では人間は神籤とどのような関係を持つべきか。リーダーであれば大吉が出るまで引いて「これでよし」と構える大らかさが欲しい。例えば句の作者のような・・・。(恂)

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中吉の神籤程よし去年今年     岡田 鷹洋

中吉の神籤程よし去年今年     岡田 鷹洋 『季のことば』  まず「去年今年」から。四、五十年前まで、「こぞことし」と読める人は多くなかった。相当な教養人が「虚子の“きょねん今年貫く棒の如きもの”はいい句ですなぁ」と語っていたことを思い出す。この季語が一般語化しつつあるのは俳句の力、虚子の句の力によるものではないだろうか。  古い歳時記だと「去年」や「今年」が主たる季語で「去年今年」はその傍題とする例が多いが、今や立場は逆転、年の変わり目を表すようになった。掲句はその瞬間ではなく、緩やかな時の移り変わりを詠んでいるようだ。今年も去年と同じように、という、新春の大らかさが感じられよう。  当欄は出来たての句の掲載が得意技だが、新年の句だけはままならない。実はこの句、一年前の作である。その際の句評欄に「何事も変化がなく平穏無事が一番」(高瀬大虫)を見つけた。発言者は昨年三月に急逝。目瞑れば穏やかな笑顔が蘇ってくる。去年今年だなぁ、と思わざるを得ない。(恂)

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