松明けぬ豆腐屋店をたたみしと     須藤 光迷

松明けぬ豆腐屋店をたたみしと     須藤 光迷 『合評会から』(酔吟会) 冷峰 豆腐は大量生産で安く売られている。手作りの豆腐は美味しくても値段がね。身に沁みますなぁ。 鷹洋 「お正月が終わった」と思ったら「豆腐屋さんは店じまい」なんですね。時代に乗れずに店じまいする悲しさが「松明けぬ」という言葉に集約されています。 百子 正月の松が取れて、普段の生活に戻る。近くのお豆腐屋さんの店に行ってみたら「閉店」の貼紙が・・・。お正月の間、「店じまい」のことはお得意さんには伏せていたのでしょう。                   *        *        *  我が家の近くに百値召蠅両ε抗垢かつてあった。入り口の電柱には今も「〇〇商盛会」の看板が残っているが、商店ゼロになってから久しい。最後まで残ったのは、もしかしたら豆腐屋さんだったかも知れない。  昭和年代あたりまでだったと思うが、大人も子供もそれぞれ店を「八百屋さん」「お米屋さん」などと呼んでいた。幼児が「パーヤマ(パーマ屋)さん」と呼ぶ店もあった。近くの人々にとって親戚に近く、掲句のお豆腐屋さんも同じのはずだ。「閉店」のお知らせを松明けまで待ったのは“親戚”への心遣いだったと思われる。(恂)

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ひよどりも烏も鳴かず雪催     大澤 水牛

ひよどりも烏も鳴かず雪催     大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) 百子 年末から年始は体調を崩し、ずっと窓の外を眺めていました。空が曇り、雪がちらつき始めると、鳥たちがばたっと来なくなる。しーんとした「雪催(ゆきもよい)」の感じが浮かんできます。 可升 雪が降ってくる前の静かな雰囲気が伝わってくる。烏なども見えなくなるのでしょう。 反平 これはたぶん水牛さんの句ですよ。手帳を忘れてしまったそうで、雪催(ゆきもよい)などの句をさっき作ったばかりというから・・・。東京でもチラチラら雪が舞っていたのかな。 水牛(作者) その通り。さきほど作りました。家の庭には一羽烏が住み着いていて、猫の餌を横取りするんですよ。「カァーカァー」とよく鳴いてね。でも雪の日には来ない。              *         *        *  電車に乗ってから作者はハッと気づいた。俳句手帳を家に置いてきてしまった。若い頃と違って句を思い出せない。しかしそこからが底力の見せ所である。車窓の風景などを次々に句にして、句会ではまずまずの成績を収めてしまったのだ。「さすが」と私は唸り、ふと思った。あれは連句で鍛えた手練の技に違いない。(恂)

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賀状読む友が周りに居る心地     澤井 二堂

賀状読む友が周りに居る心地     澤井 二堂 『季のことば』  八十歳になっていた一昨年の暮、私(筆者)はもう賀状を出すのは止めよう、と決めた。ところが元旦に賀状が到着すると、あの人、この人と顔が浮かび、返事を出さざるを得なくなった。そして昨年暮、どうしようか、と悩んだ末、悩むくらいなら出しちゃえ、三十枚ほどの賀状を書いた。  掲句を見て「そだねぇ」と呟いた。賀状を頂く人たちの多くは、生半可な付き合いではない。企業や団体などからのものは無視してよさそうだが、親友も心友も句会に入ってきたばかりの新友も、みな大切な人ばかりだ。賀状を机上に並べれば、まさにそこに友が居るような気持になる。  何年も前から、賀状をメールで送ったら随分楽になる、と考えていて、実際に試したことがあった。送るべきものは賀状の裏だけ、「謹賀新年」に挨拶の一行を添えていた。あのメール賀状を受け取った人は、私が周りに居るように思っただろうか。思うはずはないなぁ、と反省している。(恂)

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頑張らない一年の計初雀     久保田 操

頑張らない一年の計初雀     久保田 操 『合評会から』(酔吟会) 春陽子 この人、「頑張らないこと」を一年の計として誓ったのですね。一年の計として「頑張る」より、「頑張らない」方が今の世の中受けるんでしょう(笑)。 而云 「初雀」がとてもよく合っている。この句のように意表を突くと、得点を稼ぐことになる。 可升 私の心情とよく合致している句です。この人は今までずいぶん頑張ってきたのですね。もう頑張らなくてもいいよと言ってあげたい。いい句だと思います。 双歩 「初雀」がいいですね。雀は雀なりにけなげに生きているんでしょう。でも、ちゃらちゃら生きているような気もする。頑張らない一年の計とよく合っています。 操(作者) この年末年始は、もういやというほど頑張りすぎて・・・。もう頑張りません(笑い)。             *        *         *  「この暮は疲れた。もう年だ。今年は頑張らない」と作者は言う。年配者には同感の声が多いと思うが、俳句作りにはその後のことが問題である。掲句のようにユーモラスに詠むのは、けっこう難しいですよ。(恂)

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廃堂や忘れ去られた冬帽子     流合 研士郎

廃堂や忘れ去られた冬帽子     流合 研士郎 『おかめはちもく』  これも池上七福神吟行で詠まれた句。大黒天が祀られていた馬頭観音堂なのだが、管理者が居なくなったとか、建て替えるためとか言われて、閉鎖されてしまった。門には錠が下り、それも壊れ、庭は生い茂った草が枯れ果て無惨な姿。重い荷車を引き、戦に駆り出され、大いに働いた昔、馬は非常に大切にされ馬頭観音堂も大いに栄えたのだが、今やこのありさま。大黒様は恵比寿神が祀られている養源寺に居候になっている。  「細かな点に目をつけたところがいいですね。『さられし』の方が良いような気もしますが」(双歩)、「冬ざれの風情がよく出ている」(涸魚)、「吟行句といえども、参加していない人にも感動を与えるものであるべきだと思うのですが、これは正しくそうした句です」(反平)と、大いに評価された。  しかし、双歩さんご指摘の通り「忘れさられた」の「た」が問題だ。それにもう一つ。「廃堂や」と大きな切字で切っているが、あまり効果を顕しているとも思えない。むしろ「に」として、忘れ去れた冬帽子に焦点を絞った一物仕立ての方が良いように思う。   (添削例) 廃堂に忘れ去られし冬帽子    (水)

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慶長の塔に冬日のやはらかに     須藤 光迷

慶長の塔に冬日のやはらかに     須藤 光迷 『この一句』  「池上本門寺の五重塔は、麗らかな新春の初吟行を寿ぐ良いシンボルですね。やはらかにが、効いています」(水兎)という句評が寄せられているがまさにその通りだろう。  「慶長の塔」とすぱっと言ったところがいい。都内関東近県に現存する五重塔の中では屈指の古さで、国の重要文化財。慶長13年(1608)、二代将軍秀忠の病気平癒を祈る乳母岡部局の発願により幕府が建立した。高さ31.8メートル、一層から五層まで屋根の大きさがあまり変わらないのがこの塔の特徴で、外側の紅殻塗りとも相俟って質朴かつ親しみやすい温もりを感じる。  幕末から明治にかけて外国人向けに作られた写真絵葉書などを見ると、当時、この五重塔の周囲は鬱蒼たる杉木立に囲まれていた。それらが伐られたり、第二次大戦の空襲で焼かれたりして、今は五重塔が墓場を見下ろして屹立している。本門寺も戦時中の爆撃でかなりの堂宇を失っているが、この五重塔は奇跡的に無事だった。柔らかな冬日を浴びて悠然と立つ五重塔の下に佇むと、なんとも穏やかな気分になる。(水)

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福詣はりきって押す井戸ポンプ     星川 水兎

福詣はりきって押す井戸ポンプ     星川 水兎 『この一句』  池上七福神吟行での一句。この辺一帯の住宅街にはあちこちにまだ現役の井戸ポンプがある。植木に水をやったり、夏場は家の周りや道路に撒水するのに利用しているようだ。吟行に参加した人たち誰もが懐かしがって、この作者など把手を握って上げたり下げたり子供に還ったようだった。そんなこともあって、吟行句会には同じ素材を詠んだ句がいくつか並んだ。その中でこの句は「『はりきって』が福詣にもかかっているようで、勢いがある」(綾子)といった評を得て人気を呼んだ。  「福詣」という季語に、「井戸ポンプを押す」というのはちょっとかけ離れた取り合わせと取る人がいるかも知れない。あるいは考えた挙げ句、社寺の御手洗(みたらし、手水所)あたりの井戸だと思った人もいるかも知れない。  実際は吟行途中に見つけた手押し井戸ポンプをぎこぎこ動かして喜んだ情景なのだが、この一句だけをすっと差し出されるといろいろ考えてしまう。吟行は書斎に居てはとても詠めない句がふっと出て来て面白い。(水)

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冬晴れの空や法華の声に張り     廣田 可升

冬晴れの空や法華の声に張り     廣田 可升 『合評会から』(池上七福神吟行) 命水 雲ひとつ無い空にしっかりとした読経の声が響いていました。 綾子 まさにこの通りでした。 冷峰 日蓮宗は経文、御題目とも元気が良いのが取り得ですね。           *       *       *  句会の仲間連れ立ち都内近県の七福神を巡拝して句作する「新春恒例七福神吟行」。平成15年1月「谷中七福神」を第1回として、いつの間にか16年も続けてきた。都内のめぼしい七福神はほとんど回ってしまい、今年は池上七福神ということになった。  池上と言えば何と言っても日蓮宗大本山本門寺。この日(1月5日)は松の内の土曜日とあって和服に華やいだ姿も、ガイジンさんも混じって大賑わい。新年を賀す南無妙法蓮華経の唱和が大伽藍に鳴り響いていた。冷峰さんじゃないが何と言っても日蓮宗のお経は元気がいい。平成最後のお正月は、内外情勢厳しく景気も下降気味。ともすれば湿りがちな気配を、この日の雲一つ無き抜けるような青空とお題目が吹っ飛ばしてくれた。(水)

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また元の二人に戻り七日粥     嵐田 双歩

また元の二人に戻り七日粥     嵐田 双歩 『季のことば』  松の内はあれやこれやあり、来客もそれなりにあって賑やかに過ごしたが、七草粥の今日はまた老夫婦二人だけのひっそり閑とした住まいに戻ったなあという感懐。  この句は何と言っても「七日粥」が利いている。静かで慎ましい年寄り二人の朝餉の雰囲気、それも健康と長寿を祈りつつ啜る七草粥で締めたのがいい。寒の朝の空気も伝わって来る。おそらく大して喋ることもないのだろう。別に喧嘩しているわけではないのだが、若い頃のように喋りちらすようなことがすっかり無くなっているのだ。あれこれ言わなくてもお互いの考えていることは大概分かる。  きのうの本欄に掲げた、子や孫が揃って賑やかな元日風景を詠んだ句の続編のような感じである。これからまた一年静かな暮らしが続くのだが、お互い何とか健康で行きたいなあと言わず語らずで伝え合っている。ダンナが黙って茶碗を差し出す、カミさんは七分目によそったのを差し出す。お代わりの塩梅もすっかり心得ているのだ。(水)

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元日や三代揃ふ小半日     井上 庄一郎

元日や三代揃ふ小半日     井上 庄一郎 『季のことば』  時の流れは切れ目無く続き、本来、折り目節目など無いはずなのだが、「元旦」だけは別物である。初日の出を仰ぎ、屠蘇を祝い、雑煮膳を囲むと、いかにも改まった気分になる。大晦日も元日も一続きの冬の日なのに、「おめでとうございます」と言い交わすと途端に清新の気に包まれる。  やはり「一月一日」という一年の始まりを告げる日付がいい。これで気分も引き締まる。中国のように新年の祝いを昔ながらの旧暦で行うと、福寿草も咲き草の芽もしっかり伸びて、季節的には「初春」「新春」になるのだが、日取りが毎年変わってしまい、今年は二月五日が旧正月の元旦ということになって、何となく中途半端な感じである。私たち日本人は明治以降もう150年も「真冬のお正月」に慣れてしまっている。  元日にはおじいちゃんおばあちゃんの家に子や孫が集まる。普段は静かな年寄り夫婦の家がわっと賑やかになる。しかしそれは小半日だけ、というのが面白い。お年玉をせしめた孫たちは早くも次のお目当てに移動せんと動き出すのだ。(水)

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