蓮枯れて五百羅漢の読経かな 野田 冷峰
蓮枯れて五百羅漢の読経かな 野田 冷峰
『この一句』
蓮は枯れるにつれて擬人化への道をたどるようだ。「枯蓮」を兼題とした番町喜楽会から拾うと、刀折れ矢尽きた彰義隊、なお意気壮んな軍勢、「支へ合ひもたれ合ひ」、あるいは「凛として」として存在感を失わず、枯蓮への「応援歌」もある。句会の最高点句は「老いの矜持」を詠んでいた。
その中で掲句は「五百羅漢」という大きな集団を見出した。羅漢さんは仏教修行の最高段階に達した人とされるが、その姿は世俗的だ。雑談、思索、泣いたり、笑ったり、酒を酌み交したり。十六羅漢、十八羅漢などから五百まで数を増やしたのは、人間一般の姿を表そうとしているからだろう。
五百羅漢は岩手遠野の、その名も五百羅漢寺、埼玉川越の喜多院など、全国に数多く存在するが、羅漢さんの多様性と枯蓮の配合には味がある。作者は何から読経を思いついたのか。枯蓮のざわめき・・・。ここに思い至って状況が忽然と浮かんできた。寺の蓮池に風が吹き渡っていたのだろう。(恂)