ほんのりと甘き切り干し母の味      竹居 照芳

ほんのりと甘き切り干し母の味      竹居 照芳 『この一句』  大根の切干、料理の仕方は? と家内に聞いたら「母から習ったものだけれど」と次のように話してくれた。ボールに水、その中に切干を入れてもみ洗い、ゴミなどを落としたら水気を絞る。小鍋に入れてヒタヒタの水につけ数分。軽く絞って纏まったところを三つ、四つの適当な大きさに切る。  あとは油揚げとか、いま人気のサバ缶などとともに煮たり、サラダにしたり――、料理の種類は多いようだが、あとは省略。切干は子供の時から食べていたが、人生八十年にして、そのように作るのか、と初めて知った。切干の料理のような総菜類は、間違いなく母系によって引き継がれていく。  さほど美味いものではないが、年ごとに「ほんのりと甘い」切干料理が懐かしい。家内も作ってくれるが、なぜか母の味だと思ってしまう。掲句は、ごくあっさりと詠んでいるが、そこがいいのだろう。合評会では「賛同」の言葉が幾つか出て、作者は「そこまで考えて頂けるとは」と驚いていた。(恂)

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切干や那須三山に日が沈む      印南 進

切干や那須三山に日が沈む      印南 進 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 説明のしようのない句だ。陽が沈む、沈んで行くんだ、那須三山に。 而云 切干が美味しいとか、そういう句ではない。そこがいいとも言える。 崇 省略の効いた二句一章の句です。 進(作者) 二句一章の句を作りたいと思いましてね。 有弘 私も二句一章を作ってみたが、点が入らなかった。                 *          *         *  この句会、二句一章の句が少ないと感じていた。勉強会の時、「試しに作ってみたら」と話したところ、何人かの人が応えてくれた。掲句はその中の一例。那須三山(茶臼岳、朝日岳、三本槍岳)を背景に兼題の「切干」を懐かし気に詠んでいる。第二次大戦中、作者が疎開していた栃木県の農村風景だと思う。  切干は四五日ほど干すという。雨が降り出したら取り込まなければならない。その日は晴れていて、「やれやれ」という気持ちで夕方を迎えたのだろう。夕暮れの山々と相俟って、優れた句になった、と評価したい。 (恂)

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帰らざるおもひかさねし冬茜     深瀬 久敬

帰らざるおもひかさねし冬茜     深瀬 久敬 『合評会から』(三四郎句会) 敦子 帰らざる思い、私にもありまして。この句に魅かれました。 諭 冬茜の真っ赤な色が浮かんで来て、印象的です。 雅博 冬茜に「おもひかさねし」ですからね。私も、いい句だなと思いました。 基靖 私にある情景が目に浮かびますが、読む人によって異なる感慨を生む句だと思いました。 進 私もいろいろ想像させられました。 而云 帰らざる思い。失恋したことなども含めて、人生はそういうものか、と。「冬茜」で句が生きた。 有弘 抽象的過ぎると思いましたが。 久敬(作者) 「夕茜」には「帰らざる」という言葉がいいな、と思い、それから句づくりを始めました。                   *        *        *  有弘氏の「抽象的過ぎる」との評。これを聞いた時は心の中で「その通り」と反応したのだが、不意に懐かしい一つの情景が浮かんできた。抽象的な語が具体的な思いを蘇らせる。これまた俳句なのだろう。(恂)

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足指を手指でまわす冬の風呂     金田 青水

足指を手指でまわす冬の風呂     金田 青水 『おかめはちもく』  句会でとても評判が良かった句である。「私も冬になると毎晩やっています」「老人の楽しみ」「ついつい長風呂になったりしてね」「とにかく目の付け所がいいね」等々、次々に褒め言葉が出てきた。  しかし、「手指という言葉は無いんじゃないだろうか。ちょっと表現に無理がある」という意見が出され、それに数人が同調した。確かに、「指」と言えば誰しも手の指を思い浮かべ、わざわざ「手」を付けたりしないようだ。そして、足の場合は「足の指」とか「足指」と「足」を付ける。  この句は「足指を」に合わせて「手指」としたのだろう。口調も良く、そのまますっと読めば何の違和感も抱かないのだが、一旦、「手指とは?」と疑問が頭をもたげると、途端に引っ掛かってしまう。誰かが「足指を手の指で揉む冬の風呂」はどうか、と助け舟を出した。「の」を入れたことで違和感は薄まったが、原句の調子の良さは失われ、しかも不要な「手」が残ったままである。  あれこれ考えたのだが、原句の語調を生かしての添削は無理で、「足指をゆっくりと揉む冬の風呂」と素直に詠んでおくのが一番との結論になった。(水)

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街中に電飾あふれ十二月     嵐田 双歩

街中に電飾あふれ十二月      嵐田 双歩 『合評会から』(番町喜楽会) 幻水 「街じゅう」と読みました。けやき坂やミッドタウンなど私もいろんな場所の電飾を見に行きました。 可升 私も「街なか」ではなく「街じゅう」と読みました。非常にシンプルな句ですが、そのとおりだなあと思っていただきました。必ずしも作者が電飾を喜んでいるとも思えず、ありのままを詠んだのがいいと思います。 命水 最近は家庭でも電飾をするところがあって、私自身は辟易しているところもあるのですが、上手く詠んでいると思います。 而云 「十二月」にしたのがいいと思います。「クリスマス」じゃつまらない。           *       *       *  ほんとうに、而云さんの言う通り「十二月」としたのでこの句は生きた。「クリスマス」ではいわゆる「付過ぎ」になってしまう。それはともかく、どうして夜中をこれほど照らさなければいけないのだろう。京都の寺々のライトアップ、都会の汚らしい町の電飾、「止めてくれー」と叫びたい。(水)

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冴ゆる夜の影くっきりと我を引く     池内 的中

冴ゆる夜の影くっきりと我を引く     池内 的中 『季のことば』  なかなか凝った句だ。一見、何を詠んだのか分かり難いところがあるが、じっくり読んで句意を掴むと、深い味わいが湧いてくる。  背後に月光を浴びて、歩む方向に我が影が落ちている。影を踏むように一歩踏み出せば、影は一歩先んずる。「私はあたかもその影に引きずられて行くようだ」というのだ。「冴ゆる夜」の感じを実によく表している。  「冴ゆ」「冴える」は寒さが厳しくなって大気が澄み渡り、時として耳の奥がキーンとなるような状況を表す季語で、概ね一月の寒中の気分を言う。「寒し」を感覚的、視覚的に表現したい場合によく用いられる。例えば厳寒の空は月や星が輝くように見えるから「月冴ゆ」「星冴ゆ」、澄んだ大気に音がよく通るから「音冴ゆ」「鐘冴ゆ」などと使われる。  この句はそうした「冴ゆ」という季語の本意を十分に踏まえている。近ごろは住宅地にも街路灯が完備し、「月明かり」の存在感が薄れてしまったが、冬満月に映し出された我が影を踏んで歩けば、人は自ずと哲学的になる。(水)

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石蕗咲けり明日も洗濯日和とか     須藤 光迷

石蕗咲けり明日も洗濯日和とか     須藤 光迷 『この一句』  十月末頃から一月にかけて、長い花茎の天辺に黄色い菊のような花をいくつも咲かせる。団扇形の葉はつやつやした緑色で、厳冬にも元気が良い。それほど目立つ草花ではないのだが、他に咲くものが無い冬場に健気に咲くから、昔の人たちは好んで庭に植えた。  ところが昨今はパンジー、シクラメンなど、冬場にも派手な色彩で花咲かせる園芸植物が手軽に手に入るようになったせいか、石蕗の花はすっかり忘れられた存在になっている。しかし、温室育ちの花のとってつけたような華やかさやよそよそしさとは対照的に、いかにも素朴で、冬の寒々しい気分を和らげてくれる。庭の片隅や散歩途中の石段の踊場など、枯れ色の中に鮮やかな黄の花をつけているのを発見すると、思わぬ拾い物をしたような感じになる。  この句はそうした石蕗の花の感じと、小春の雰囲気を伝えてくれる。気象予報士のオネエサンが「明日も洗濯日和でしょう」と言っているのを小耳に、庭を眺めているのだろうか。「安穏」という言葉が浮かんでくる。(水)

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木枯やイヤリングより冷え初むる     大下 綾子

木枯やイヤリングより冷え初むる     大下 綾子 『合評会から』(日経俳句会) 弥生 イヤリングから冷えるとは女性ならではの実感。 而云 これは男ではできませんね。 三薬 そうか、そういうものかと・・。今日一番の句と思った。 てる夫 知らない世界の感覚を教えてくれた。 博明 確かにイヤリングは金属が多いから、冷たいでしょうね。 庄一郎 女性でなくては経験できない寒さです。 万歩 耳たぶの金属のひんやりした感覚が想像できる。 正市 イヤリングと少し外したところが上手。 鷹洋 意外だったのは男性の方が採ったのが多かったことだ。 水兎 (女性の)イヤリングをしない派の人が採らなかったからでは。           *       *       *  「『冷え初むる』と『木枯』に重複感」、「説明っぽい」「当たり前」といった批判もあったのだが、句会では最高点を得た。木枯をイヤリングに感じた、という新鮮味に惹かれた人が多かったのだ。(水)

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老人の顔とはこれか冬帽子     今泉 而云

老人の顔とはこれか冬帽子     今泉 而云 『合評会から』(番町喜楽会) 命水 帽子を新調する時に鏡を見て、自分の顔に愕然とされたんでしょうね。 可升 はっとした瞬間。そうは思っても余り認めたくないし、句にしたくもないものですが、そのまま句にされた率直さがいいですね。 哲 防寒のための冬帽子はややダサいものが多いように思います。そんな冬帽子をかぶった自分の顔を詠んだこの句に、たいへんユーモアを感じました。 白山 冬帽子をかぶって若返ろうと思ったら、やっぱり年寄りであることは隠せない。なかなか面白い句です。 木葉 「これか」の措辞が効いています。冬帽子をかぶって鏡を見た瞬間の印象を「これか」で切り取ったところがいいですね。 てる夫 いやあ、つくづく嫌なことを詠んだ句だなあと思います(笑)。           *       *       *  寒いチェコに赴任していた時に帽子が必需品になり、爾来半世紀近く帽子をかぶっている。四季折々のものをあれこれ30ばかり持っており、新しいのを被る時には鏡を見る。近ごろはまさにこの句の通りを実感する。(水)

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冬夕焼異邦人西方に伏す     河村有弘

冬夕焼異邦人西方に伏す     河村有弘 『おかめはちもく』  句を見てまず、久保田早紀の歌「異邦人」ではなさそうだと思い、カミュの小説「異邦人」でもない、と見当をつけた。間もなくイスラムの人々の礼拝を詠んでいるのだ、と理解したが、俳句の場合、僅かであっても思考の迂回は好ましくない。スパッと理解できるような語や語順を選びたかった。  イスラム教の礼拝は日に五回行われ、その四回目が日没の頃だという。さらに礼拝はメッカに向かってだから、日本からはまさに夕日の沈んで行く方角である。句会の兼題「冬夕焼」の題材として、とてもユニークで興味深い情景を詠んでいるのだが、句の構築の面で難しさを選んでしまったと思う。  添削はすっきりと分かり易く、を心掛けることにした。季語の「冬夕焼」は原句通りとして、さてその後のこと。「異邦人西方に伏す」の破調は意識的と思われるが、読み易さを優先し「イスラム人(びと)は西へ伏す」とさせて頂く。即ち添削例は『冬夕焼イスラム人は西へ伏す』となった。(恂)

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