煮しめ盛る見た目上出来年明ける     大平 睦子

煮しめ盛る見た目上出来年明ける     大平 睦子 『この一句』  一家の主婦や家事の働き手が最も活躍する日は大晦日ではないだろうか。門松や神棚の飾りつけ、家の内外の片づけを終え、新年に向かっての最後の仕事に取り掛かる。屠蘇の道具を出し、テレビの「紅白」を横目に晦日蕎麦の用意。これらの中で最も気合を入れるのが煮しめであるらしい。  お節の煮物は各家の伝来型が多い。だしは昆布か鰹節か干し椎茸か、それらのミックスか。調味料の配合も複雑のようえで、三日はもたすのだから量も多い。秘伝はいろいろ、男なんぞは覚えきれない。主人や子供らがぞろぞろとが居間に顔を出し、蕎麦をすする頃になると、もう年明けが迫っている。  作者は煮しめを重箱に詰め終えた。「見た目上出来」の詠み方が何とも微笑ましい。味も上出来に決まっているが、ちょっと不安もあるのだろう。近所の寺からか、テレビからか、除夜の鐘の音が聞こえてきた。会社勤務に定年はあっても家事に定年はない。年末年始にはよく、そんなことを思う。(恂)

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枯野吹く神祇釈教恋無情        藤野十三妹

枯野吹く神祇釈教恋無情        藤野十三妹 『この一句』  一読、凄いね、と思った。神と仏と恋、そして無常はこの場合、「死」を意味するらしい。人間の情念をまとめて並べた、と言えるのだろう。句会ではその程度を考え、次の句に目を移してしまった。本欄を書くにあたって、メール送信の会報を読み直したところ、この句は無得点に終わっていた。  再度目を通し、句会では読み過ごしていたことに気付いた。上五は「枯野“吹く”」であった。痩身の女性(作者)が枯野に立ち、寒風を浴びているのだ。その風が神、仏、恋、死なのだと言う。本年の最終と言うべき当欄掲載句を考慮中であった。ブルっと身震いしながら「これにしよう」と決めた。  神祇釈教恋無常。これは連句の出だし、歌仙(三十六句)で言えば表(最初)六句には詠んではいけない題材である。スタートはなるべく差し障りのない形を守り、やがて本音を出して行く、ということなのだろう。ワグナーの研究者である作者、本音を出し始めたのかな、などと考えている。(恂)

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枯れ蓮の黒きはちすに種光る     澤井 二堂

枯れ蓮の黒きはちすに種光る     澤井 二堂 『おかめはちもく』  大きな葉が黒褐色になって無惨に破れ朽ち、それを捧げていた茎も折れてしまった。真ん中からすっくと立ち上がった花茎の頂上に清純無垢、しかも華やかな極楽浄土の花を咲かせていた蓮だが、真冬ともなると、否応なしに「悽愴」とか「末期」といった言葉を思い出させる姿になる。  その中にあって、唯一の救いが蓮の実である。秋も深まると、お椀形の花托の蜂の巣状の穴には種子が熟し、やがて転げ出し、飛び散る。しかしこの句の蓮の実は真冬になっても転げ出さない異端児のようだ。一度に飛び散ると何らかの天変地異に遭って全滅ということがある。それを避けるための種族保存の本能で散り残るのかも知れない。蓮はこうして何万年も生きてきたのだ。  枯れ蓮をじっと見つめて句案している作者の姿が浮かび上がって来る。この律儀さには思わず「いいなあ」とつぶやく。しかし、「はちす」とは蓮の古名であり、「蓮」と書いて「はちす」と読ませる例も多い。作者は「蜂の巣」を言いたかったのだろうが、やはりこの重複感は避けた方が良さそうだ。   (添削例)  枯蓮の黒き花托に黒き種子  (水)

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ひとめぐりして気がつきし冬桜     星川 水兎

ひとめぐりして気がつきし冬桜     星川 水兎 『この一句』  ひっそりと咲く冬桜の風情を真によく表している。11月末に行った本郷の吉祥寺には、山門を潜ってちょっと行った左側に冬桜があるのだが、本堂へ行く時には見過ごしてしまい、帰りに気が付いた。まさにこの句の通りであった。派手なソメイヨシノなどと違って、ほんのりと薄紅を差した白い小さな花を葉隠れに数輪ずつ咲かせているから、気づかずに通り過ぎてしまう人も多い。  日本を象徴する花である桜にはヤマザクラ、エドヒガンなど基本となる10種の野生種があり、それらが自然交配して固定した変種がざっと100種類、さらにそれらを人工的に交配して生み出した園芸品種が600種類以上もある。「冬桜」は基本種のオオシマザクラとマメザクラが自然交配して生まれた品種で、4月に咲き、10月末から12月にかけてもう一度咲く。江戸時代から盛んに植えられるようになったが、成長力があまり旺盛でなく、大木にならない。花も一重の楚々としたもので、そこがまた愛され珍重される所以でもある。  「ひとめぐりして気がつく」とは実に上手いなあと思う。花に限らず、しばらくしてからその人となりに気づく、そうした奥床しい人がごくまれにいる。そんなことも考えさせられて面白い。(水)

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卓囲む家族増えたりクリスマス     和泉田 守

卓囲む家族増えたりクリスマス     和泉田 守 『この一句』  クリスマスのテーブルに、今年新しく家族となった新婦、あるいは赤ん坊が加わったとはまことにお目出度い。その喜びが素直に出ている。  最初この句を見た時には、こういうことを詠むのなら「クリスマス」ではなく、日本人らしく「新年」「雑煮」「お節」などと絡ませた方がいいのではないかなと思った。しかし、何度も読み返しているうちにクリスマスも面白いなと思うようになった。  キリスト教徒ではない日本人のクリスマスイブは宗教色が全く無いから、単なる「御馳走の晩」。丸焼き七面鳥とまで行かなくても、フライドチキンや大きなピザや派手な飾り付けのサラダなど賑やかな食卓となる。あるいはスキヤキ鍋を囲んでにこやかに「乾杯」ということもあろう。  子供たちは「お願い」を書いた靴下をベッドの裾やツリーの下に置いてワクワクしている。これが済むと間もなく「お正月」。お正月となればもちろん「お年玉」。日本の子供たちにとっての年末年始は「興奮の一週間」である。そのお相手をするジイチャンバアチャンの?茲もほころぶ。(水)

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風邪篭り座敷障子の白さかな     片野 涸魚

風邪篭り座敷障子の白さかな     片野 涸魚 『合評会から』(日経俳句会平成三十年年末合同句会) 可升 類句がありそうな気もしますが、風邪で臥せている時のとりとめのなさを上手く表現していると思います。 守 小さい頃田舎でこんな体験をしたような記憶があります。 弥生 元気で忙しい時は目が届かない障子の白さに心和む「風邪篭り」でしょうか。 水馬 風邪だと大げさに言って学校を休んだ小学生の頃を思い出しました。座敷の障子明かりが嬉しいような、でもちょっぴり罪悪感があって・・・。           *       *       *  日本間の座敷に敷かれた蒲団に横たわっていると、廊下側の障子に射す朝の光が目覚ましとなる。風邪で寝込んでいるとなれば、視線が低くなっているだけに尚更印象的である。普段、立ったり座ったりしている時は、ほとんど気にも留めない「障子の白さ」にはっと気がつく。この細やかな叙情を詠んだところが素晴らしい。(水)

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聖夜とて不断と同じ老夫婦     井上 庄一郎

聖夜とて不断と同じ老夫婦     井上 庄一郎 『季のことば』  近ごろのクリスマスは一時のジングルベルの狂騒が鳴りを静めて、まことに結構なことだ。しかしその一方で、繁華街の電飾が年を追う毎にけばけばしくなっていくことと、子供たちのプレゼント要求が露骨に、しかもエスカレートしているというのが気になる。大人も子供も金の亡者になったような感じがして興醒めしてしまう。  昔は家の中の小さなクリスマスツリーの下には、靴下の中にチョコレートやクッキー、張り込んでもささやかな玩具、人形などが置かれていた。今や1万円の買物券がぶら下げられていることも珍しく無いという。そうまでしても子の歓心を得たい、孫の笑顔を見たいという親やジジババの心根を思うと、なんともシラケた気分になってしまう。  この句、そういうものとは全く無縁。「シンプルな句ですが味があります。老夫婦の寂しさではなく、安らぎを感じます」(可升)という句評が寄せられたが、まさにそのとおり。「静謐」という聖夜の本質を思い出させてくれる句とも言えるだろう。(水)

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一年が散らかっている十二月     嵐田 双歩

一年が散らかっている十二月     嵐田 双歩 『合評会から』(日経俳句会平成三十年年末合同句会) 「十二月をこれほど上手く表した句はない」(実千代)、「私の部屋もまさにこの通り」(てる夫)、「『散らかっている』をどう解釈するか、意味が深い」(定利)、「文句付けようが無い」(三薬)、「この一年色んなことがあったなという気持も出ている」(二堂)、「私は頭の中が散らかっている方と取りました」(三代)、「私は日本の政治を考えた。法案なんか散らかったまま一年が過ぎようとしていますしね・・」(而云)、「読む人に考えさせる句で、心臓にズバッと来る」(春陽子)、「心情の部分と、災害の復旧が遅れているという時事句の側面もありそうだ」(哲)、「お前もちゃんと片付けろと言われたようで・・」(光迷)、「部屋の散らかり具合も、災害や政治など時事句の側面もあるでしょう。心の中の整理がつかない状況を詠んで、ものすごく上手い」(木葉)、「十二月を『一年が散らかっている』なんてよくぞ思い付いた」(明男)、「まさにその通りという実感」(万歩)、「あれもこれもと焦る十二月のドタバタ感がよくでている」(阿猿)・・・。  何しろ参加者の半数以上が採った空前絶後の人気句。このコラムの字数制限から割愛せざるを得ない句評がいくつも出たほどである。(水)

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冬夕焼け娘のためのカレーかな      石黒賢一

冬夕焼け娘のためのカレーかな      石黒賢一 『おかめはちもく』  作者は自他ともに許す料理の名人。イタリア在住の頃に腕を磨いたパスタ料理が何より自慢だが、和食、洋食もなかなか美味しいとの評判だ。本業は引退し、悠々自適の毎日だから、キャリアウーマンの娘さんのために夕食に腕を振ることが多いらししい。この日はカレーライスに腕を振るっていたようである。  窓の外は夕焼けの空。娘さんの帰宅時間に合せて仕上げようとしているが、ついでに次週の句会のために一句を捻っていたようだ。そのために集中力が欠けたのだろうか、ちょっと注文を付けたい出来になってしまった。「冬夕焼け」で切れ、下五の「カレーかな」も「かな」で切れるので口調が悪くなっているのだ。  この句は、下五を「カレー煮る」とすれば、すべてがすっきりと収まるだろう。添削例はすなわち「冬夕焼け娘のためのカレー煮る」となる。この句会(三四郎句会)の勉強会では「二句一章」を勧めていたのだが、掲句の仕上がりは残念ながらイマイチ。カレーの出来は見事であったはずだが・・・。(恂)

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なにげなく冬の夕日に手を合せ      吉田 正義

なにげなく冬の夕日に手を合せ      吉田 正義 『合評会から』(三四郎句会) 賢一 元日の朝、太陽が昇る時、手を合わせるでしょう。夕日にも「今日一日、有難う」という気持ちですね。 而云 かたじけなさに手を合わせる、という感じかな。 尚弘 冬だからいいのかな。夏の夕日や夕焼けはあんまり感じない。 豊生 平生、いろんな恨みつらみ、情けなさがあっても、一切忘れて冬の夕焼けを拝む。共感を覚えました。 正義(作者) 手を合わせたくなるもの、世の中にいろいろあります。感謝し、有難うございましたと・・・。 誰か 退院する時、病院に手を合わせたりしますよ。           *          *         *  真夏の炎天は恨みたくもなるが、秋から冬へと太陽の有難さが身に沁みる頃になる。そして春。草木を初め万物が成長を始め、太陽こそが命の元であることを、人間はごく自然に感得しているのではないだろうか。  毎年の歳末、神棚を綺麗にし、天照大神の御札を納める。この神の名「アマテラスオオミカミ」は、子供の頃に教わっていたが、太陽神であり、日本人の総氏神と知ったのは、成人してさらに後のことであった。(恂)

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