何一つ楽器が駄目でとろろ汁    横井 定利

何一つ楽器が駄目でとろろ汁    横井 定利 『この一句』  後藤比奈夫さんが俳句界最高の賞「蛇笏賞」を得た時、「私は取合せの句は上手く詠めない。これから勉強しなければ」と受賞の弁を語っておられた。今から十二年前。当時、九十歳近くの著名俳人の言葉に粛然となり、「よし、私も」と取合せに何度も挑戦したが、うまくいかなかった。  取合せとは、掲句で言えば「何一つ楽器がだめで」に季語「とろろ汁」を配するようなことだ。私には、このような取合せは絶対に浮かんでこない。句を見ても「何でとろろ汁なのか」と考え込んでしまうのだ。奇抜な取合せを作るには独特の才能が必要なのだ、と思うようになっている。  不器用な男ととろろ汁。気になる句ではある。うまく説明は出来ないが、取合せの“何か”が存在している。その辺りが琴線に触れるかどうか。私はこの句を選べなかったが、三人が選んだ。上記の「取合せ」に感応する人が確かに存在する。取合せとは、そういうものでもあるらしい。(恂)

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保母の膝ひとり占めして待つ夜寒    向井 ゆり

保母の膝ひとり占めして待つ夜寒    向井 ゆり 『合評会から』(日経俳句会) 冷峰 「ひとり占めして」のフレーズが気に入った。保母さんにまとわりつく幼児、まさに夜寒の雰囲気だ。子どもの心理をうまく詠んでいる。 哲 保育園でさびしく迎えに来るママを待っている。保母さんの膝の中にひとりで座っているけれど、心細く思っているのでしょう。季語の「夜寒」とよく合っている。 而云 よくこういう場面を思い付いたものだ。迎えを待つ最後の一人になって「ひとり占め」になった。 双歩 他の園児には順々に迎えが来て、一人だけ残された子どもが、保母さんと二人きりでいる。秋の夜の「夜寒」が独立しているようで上手い。 三薬 自分の迎えが遅くなって待っている我が子、哀感の「夜寒」ですね。                 *         *         *  園児、保母さん、そして夜寒の道を急ぐ若いお母さん。三者三様の思いが浮かび上がる。「母親しか詠めない句」と感想を述べたら「父親だって迎えに行く」の声。しかしこの句は絶対に母親の作だと思った。(恂)

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空高し卯建の語る海野宿     堤 てる夫

空高し卯建の語る海野宿     堤 てる夫 『おかめはちもく』  「卯建の語る海野宿」というフレーズがとてもいい。海野宿は北国街道の小諸から上田に至る中間の宿場町で、江戸時代には非常に栄えた。火除け障壁の「卯建」を備えた大店が並び、昔の賑わいを偲ばせる。この句には、「あの卯建は本当に立派でした。それだけに、かつての栄華と現在の忘れられたような風景との落差に考え込まざるを得ませんでした」(光迷)という句評が寄せられた。  まさに海野宿は不思議な空間であった。我々吟行仲間以外ほとんど人通りが無いのだ。「下に居ろう、下に居ろう」という静謐の声が掛かって、みんな奥に引っ込んでしまい、間もなく大名行列がやって来るシーンとした感じ。タイムスリップして場違いな所に出た我々だけがうろうろといった気分に襲われた。  とにかく物語性に富んだ句だが、「空高し」の季語がどうだろうか。海野宿はいかにも淋しい。それに対してこの季語は明るすぎる感じがするのだ。実際に我々が吟行した日も秋霖の合間で薄暗く沈んでいた。さりながら「秋霖や」ではあまりにも暗すぎる。明るいけれど少し寂しさを感じさせる「秋深し」を置いたらどうであろう。『秋深し卯建の語る海野宿 てる夫』  (水)

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小鳥来る沼に朝日の満ち満ちて     廣田 可升

小鳥来る沼に朝日の満ち満ちて     廣田 可升 『季のことば』  「小鳥来る」という季語は、「渡り鳥」の言い換え季語。10月半ばを過ぎると大陸から日本海を越えて続々やって来る。鶴をはじめ雁、鴨、白鳥などの大きく目立つ渡り鳥は「鶴来る」「雁渡る」「鴨渡る」というように、それぞれの名前を冠した独立の季語に立てられている。これに対して、鶫(つぐみ)、常鶲(じょうびたき)、連雀(れんじゃく)など小さな渡り鳥はひとまとめにして「小鳥来る」という季語になっている。さらに、一年中日本に棲んでいるのだが、夏場は山地に居て秋深まると平地に降りて来る百舌鳥(もず)、椋鳥(むくどり)、鵯(ひよどり)などの漂鳥も「小鳥来る」に加えられている。  この「小鳥来る」を10月句会の兼題として出したら、「難しい」という声があちこちから上がった。「渡り鳥なんて見たことがない」と言うのである。確かにそうだ。昭和40年代までは東京近辺にも渡り鳥が大挙してやって来たが、近ごろはよほど注意していないと渡り鳥のやって来る様は見えない。  この句は郊外の早朝散歩か。沼のほとりに見慣れない小鳥が来ているのに気が付いた。とても感じの良い清新の気が漲っている句だ。(水)

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