ひれ酒にマッチ擦る手の容よき      廣田可升

ひれ酒にマッチ擦る手の容よき      廣田可升 『合評会から』(番町喜楽会) 反平 この女性、色っぽいですね。以上です。 而云 今どきマッチするのは仏壇の線香つけるのと、ひれ酒のときくらいかな。ライターじゃだめだ。 静舟 寺山修司の「マッチ擦るつかの間の海に霧ふかし――」。あの短歌、とても格好がいいと思いますが、この句はあの短歌と別の意味で、格好がいい。まさに「容(かたち)よき」ですね。 水馬 その下五の「容よき」は「よし」の方がいいかな、とも思いましたが。 水牛 「よき」の方が余韻が生れますね。 可升(作者) 「容よさ」「よき」「よし」。いろいろやってみて、これで行こう、となりました。             *         *         *  河豚のひれ酒になぜマッチを擦るのか。アルコールの匂を飛ばし、ひれ酒の香ばしさを際立たせるためだという。なるほど、とは思うが、女性のたおやかな白い手を目にする方に価値があるのかも知れない。  最近は大衆的な河豚料理屋も目につくが、そういう店で「ひれ酒」を頼んでも目の前で火を点けてくれたりしない。もう一段も二段もクラスの高い店でなければ・・・。じゃ、オレには無理か、の声(恂)

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夜寒し湯沸かすガスに手をかざす     岩田 三代

夜寒し湯沸かすガスに手をかざす     岩田 三代 『おかめはちもく』  何かの用事があって帰宅がかなり遅くなったのだろう、台所も居間もすっかり冷え込んでいる。とにかく湯を沸かそうとガスコンロをつけた。その炎の暖かさに誘われて、思わず手をかざした。  12月から1月の厳寒の候ならば、最初から寒さへの覚悟というものが出来ているが、10月末から11月半ば、晩秋から初冬にかけての夜分急に冷え込んで来る頃に感じる寒さには、時としてびっくりする。ついこの間まで汗ばむほどの陽気だったのが嘘みたいである。この句は、そんな晩秋の気温変化を表す「夜寒」という季語の感じをとても上手に抑えている。  ただ、詠み方の順序にもう一工夫あって然るべきではないか。「夜寒し」と決めつけて、ガスに「手をかざす」となっているために、原因と結果がストレートにつながっている印象である。読者は「ごもっとも」と頷きはするものの、それで終わってしまう。つまり、「余韻」に乏しい。  『湯を沸かすガスに手かざす夜寒かな』としたらどうだろう。語順を入れ換えただけだが、季語の「夜寒」がしみじみとしてくるように思うのだが。(水)

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風吹けば紅葉の私語の聞こえ来る     水口 弥生

風吹けば紅葉の私語の聞こえ来る     水口 弥生 『この一句』  京都大原・三千院、嵯峨・祇王寺、あるいは日光・いろは坂といった名だたる紅葉の名所ではなく、ひっそりとした紅葉山であろう。観光客がどっと押し寄せる名所では、ちょっとした風にさやぎ散る紅葉の葉擦れの音など聞こえるはずもない。これは作者一人か、ごく少人数の紅葉狩りの一コマに違いない。  この句を見た時、「紅葉の私語の聞こえ来る」というフレーズが、あまりにも作り過ぎ、技巧の凝らし過ぎではないかと思った。しかし、この句が投じられた句会から三週間たった今、あらためて見直してみると、とても奥深い情趣を感じる。  紅葉は落葉樹が活動期を終え、休眠期に入るに当たって葉を散らす前段階の一コマである。紅葉黄葉は実に美しく華やかではあるが、それは最後の一幕を彩る吐息のようなものである。赤に黄色に色づき、最高潮に染め上がったものから順に散ってゆく。「それじゃね」「お先にね」と言い交わしながら。オー・ヘンリーの短編を思い出させるような味合いがある。(水)

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足の甲こそこそ擦る夜寒かな     大平 睦子

足の甲こそこそ擦る夜寒かな     大平 睦子 『この一句』  実に面白いことを詠んだなあと感心した。それなのに句会では採らなかった。「こそこそ」にちょっと違和感を抱いたからである。オノマトペというものは、ワンワン、ニャアニャア、ぴょんぴょんなど、一般に定着しているものは別として、すこぶる主観的な表現である。  この句の足の甲を擦る「こそこそ」もそうである。作者には「こそこそ」なのだろうが、ある読者に言わせれば「かさこそ」かも知れないし、「すりすり」の方がいいと言う人もあるかも知れない。  私の場合はどうかなあと自問した。晩秋から冬の深夜、寝入りばなの冷たい足をこすり合わせることをしょっちゅうやっているので、この句には共感を持つ。ただ私の場合はもう少し荒っぽくて、「ごしごし」かなあと思う。オノマトペはこのように十人十色である。  それよりも、この句はオノマトペは用いずに、「足の甲しきりに擦る夜寒かな」とした方がすんなり納まるかなあと思ったりもする。まあそれはともかく、夜寒の感じを実にうまく表したものである。(水)

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その中に水路貫徹山粧ふ     鈴木 好夫

その中に水路貫徹山粧ふ     鈴木 好夫 『この一句』  これは琵琶湖疎水を詠んだものであろう。明治21年、大津から京都まで山並を縫って運河が貫通した。南禅寺の境内を突っ切る赤レンガ造りの水路橋によって蹴上まで運ばれてきた琵琶湖の水が急傾斜を一気に流れ下る。それを利用して日本最初の水力発電所が生まれ、市電が走った。  南禅寺には「水路閣」という堂々たるアーチ型の水道橋があり、境内から背後の東山連峰の木々に囲まれて独特の雰囲気を醸し出している。新緑の頃には赤レンガと緑のコントラスト、晩秋には紅葉黄葉とのハーモニー。とにかく素晴らしい情景である。  この句は「その中に」という上五によって少々気取った感じを与える。色づき始めた山を貫いて「その中に」特異な水道橋が通っている、ということを強調するための措辞であろう。高浜虚子には「その中にちいさき神や壷菫」(明9)、「其中に境垣あり冬木立」(昭14)があり、「かっこいい」というので現代俳句でしばしば用いられるようになった。  こうした小手先細工は概ね失敗に終わるのだが、この句は「水路貫徹」という硬質な言葉が置かれたことで救われ、シャンとした。(水)

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また一枚毛布重ねる夜寒かな     深田 森太郎

また一枚毛布重ねる夜寒かな     深田 森太郎 『季のことば』  「夜寒」は秋の季語である。晩秋になると朝晩急に冷えて来て、ああ冬ももうずぐだなあと思う。それを「夜寒」「朝寒」で詠む。この句を見て、夜寒の気分をよく表しているなと思った。夜半、トイレに起きて戻って来て、毛布を一枚掛けたというのである。この時期、誰もがやることで、共感を抱く。  しかし、問題は「毛布」がれっきとした冬の季語であることだ。こういう句に出会うと、鬼の首でも取ったように「季重なりです」と言う人がいる。結社の主宰者クラスにも「絶対にだめ」と頑なな人もいる。しかし、なぜ「季重なりはいけない」のか。あれこれ理屈がつけられているが、代表的なものが、「句の中心となる大切な季のことばが複数あっては、句がばらばらになってしまう」である。これは確かに一理ある。  とすれば、二つの季語が互いに突っ張り合わなければいいはずだ。この句のように「夜寒」という主題の情趣をより良く伝える道具として「毛布」が使われている場合、毛布はそれ自体何ら自己主張せず、句の中にすっぽり納まって何の違和感も与えない。こうした「季重なり」は何ら気にする必要は無いだろう。(水)

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豊洲へとターレの車列秋深む     杉山 三薬

豊洲へとターレの車列秋深む     杉山 三薬 『合評会から』(日経俳句会) 三代 ついこないだ見た、めったにない引っ越しを上手く詠んだ。 双歩 きっと誰かターレを詠むんじゃないかと思っていた。私も考えたけど出来ず。敬意を表していただいた。 定利 早速、ターレを詠んでいる。ただ、「秋深む」がどうかな。 反平 「秋高し」ではどうか。 木葉 あれは夜明け前の引っ越しだから、ちょっと。 哲 「秋深む」には、もっと早く出来たのにこんなに遅くなって、という意味があるのではないかな。           *       *       *  2018年10月11日、東京湾内埋め立て地の一角に豊洲市場が開かれ、83年間都民の胃袋をまかなってきた築地市場から集団引っ越しが行われた。そこで一躍有名になったのが「ターレ」と呼ばれる市場内運搬車。自由自在に方向転換できる荷物運搬車で、これが築地・豊洲間二・三キロを何百台も連なって走るのがテレビに写された。その歴史的シーンを素早く詠み止めた。(水)

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クルーズやロングドレスで霧笛聞き     池村実千代

クルーズやロングドレスで霧笛聞き     池村実千代 『おかめはちもく』  クルーズは日本人にとって今なお異次元の別世界であるはずだ。特に客船の上に「豪華」が冠されていたら、文字通り夢の時間を過ごせるに違いない。船長主催のダンスパーティとかナイトクラブといった場に、ロングドレスの作者がいる。そんな非日常の場で突然、胸の奥に響くような霧笛が鳴る。  俳句に詠まれた情景として非常に珍しく、少なくとも私はこのような句に出会ったことがない。選句表の中に掲句を見つけて「オッ」と目を見張ったのだが、黙読を何度か繰り返すうちに、どこかしっくりしないものを感じた。「ロングドレスで」の“で”と「霧笛聞き」の“聞き”が気になるのだ。  直そうにも「クルーズ」「ロングドレス」「霧笛」は外せない。残りは僅か四音ばかり。字余りも破調もOKと条件を緩め、次のように作ってみた。『クルーズの霧笛ロングドレスの私』。俳句の懐の広さを考えると、このような二行詩風も許されるはずだ。代案が出てくるかな・・・、とも思っている。(恂)

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山粧ふ横一列の膝小僧     加藤 明男

山粧ふ横一列の膝小僧     加藤 明男 『合評会から』(日経俳句会) 木葉 ほほえましい光景だ。園児か小学生が横一列に並んで、膝小僧を出しているのか抱えているのか、紅葉の山を眺めている。目に浮かびます。 而云 足湯のようですね。膝小僧だけを詠み、足湯を省略しているのが興味深い。 水牛 足湯でしょう。箱根の宮の下とか鳴子とか、いろんな場所でこの句のような足湯風景を見ました。秋ののんびりとした温泉場の風景が見えてきます。 三薬 紅葉の山を眺めながらの足湯でしょう。若い子の膝小僧を眺めてオヤジはニヤニヤ、かな。              *      *       *  念のため辞書で「足湯」を調べてみたら、⇒「きゃくとう」と出て来たのでびっくりした。かつてはそう呼ばれ、「脚湯」と書かかれていたようだ。別の辞書では「中国人が脚湯をよく好む」と説明していた。足湯は中国由来か? そんなことはあるまい。古くから日本に存在し、ある時期(これがはっきりしない)、温泉場に出現し、全国に広まったのだ。今では「横一列の膝小僧」と詠むだけで、足湯と分かるようになった。(恂)

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山粧ふ薪たかだかと軒に積み    大倉悌志郎

山粧ふ薪たかだかと軒に積み    大倉悌志郎 『季のことば』  「山粧ふ」は言うまでもなく紅葉に彩られた山の様子。ある歳時記では独立した季語になっているが、別の歳時記では「秋の山」の傍題とされていた。春の「山笑う」、夏の「山滴る」、冬の「山眠る」に対応する季語ではある。綺麗な季語ではあるが、味わいに欠けているのが残念。  この季語に続く中七と下五は、よくよく見れば「山粧ふ」との取り合せの形に詠まれている。すらすら読めて違和感がないのは、同じ舞台、同時季を詠んだ並列型だからだろう。前句「とろろ汁」の句が前衛手法の二物衝撃型だとすれば、こちらは伝統的、常識的な取合せである。  薪はかつて煙公害の原因などとされたが、今では「再生可能エネルギー」の中の「バイオマス」に分類される。山荘の主が胸を張って薪ストーブを使えるような時代になったのだ。この句はすべてが具象画の世界。一冬の暖房用に「これで十分」という山荘の主の笑顔も見えてくる。(恂)

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