廃田の果てて枯野や主逝く     大沢 反平

廃田の果てて枯野や主逝く     大沢 反平 『おかめはちもく』  1970年代に入るとコメがだぶつき始め、政府はそれまでの増産奨励から一転して生産調整・減反政策を採り、これによって農村地帯に「休耕田」が見られるようになった。  今や休耕田どころか耕作放棄の「廃田」が続々出現するようになっている。農家は働き手が皆サラリーマンになってしまい、田畑を耕す人たちは年寄りばかり。老人たちの足腰が立たなくなってしまえば耕作放棄は必定だ。耕作放棄地にはたちまち雑草が茂り、冬になれば一望枯野となる。そして、その元田圃の枯野の地主も次々にあの世に旅立ってしまう。  「廃田、果てて、枯野、主逝く、なんとも寂し過ぎですね」(睦子)という感想通りの句だ。まさに田園荒れて亡国の兆しすら感じる。  今現在の実相をそのまま詠んだ時事句として重みがある。ただ措辞にもう一工夫が必要ではなかろうか。「廃田の果てて」というのがどうかと思う。「廃田の枯野と果てて主逝く」とすればすっきりするのではなかろうか。(水)

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トンネルに葡萄酒眠る小春かな     水口 弥生

トンネルに葡萄酒眠る小春かな     水口 弥生 『合評会から』(日経俳句会) 而云 いかにも「小春」という句だ。ワインは温度の変わらない所に置いておくといい。うまいところを見つけた。 木葉 今、廃トンネルにチーズとか生ハムとか置いて熟成させるのがはやっている。そのトンネルにワインを置くという、気持のよい句だ。 万歩 酒の貯蔵に廃トンネルを利用することがあるそうだ。「小春」と「葡萄酒眠る」が心地よく響き合う。 操 廃線となったトンネルに葡萄酒を貯蔵。小春日和に浮かぶロマン。           *       *       *  ワイン産地の山梨や長野は元々は養蚕地で、蚕の種紙(産卵紙)を保存するのに自然の洞穴やトンネルを掘っていた。養蚕が廃れてからはそれらはワイン、日本酒、野菜などの貯蔵庫になった。今ではJRが不採算路線を切り捨てる合理化で無用になったトンネルを貸し出すようになり、トンネル貯蔵庫が脚光を浴びている。面白いところに目を付けたものだ。作者によればテレビで見たという。テレビでの句材捜しとはこれまた面白い。(水)

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口衝くはふるさとの歌詞鴨来る     和泉田 守

口衝くはふるさとの歌詞鴨来る     和泉田 守 『季のことば』  「鴨」と言えば冬の季語とされているが、「鴨渡る」「鴨来る(かもきたる)」となると、歳時記では「初鴨」という季語とともに秋に組み入れられている。東北地方では早い年には8月末から9月初めに鴨が渡って来る。俳人は総じて初物好きだから、人より少しでも早く詠もうというせっかちな人が多いのだ。  しかしまあ鴨の季感といえばどうしたって冬である。キーンと冷えた12月の朝方、靄の上がる湖沼や内湾を忙しげに動き回る鴨の群れ、それを眺める人たちの息も白い。そんな景色がまず浮かんで来る。  この句の「ふるさとの歌詞」というのは、あの有名な小学唱歌「兎追し彼の山小鮒釣りし彼の川・・」(高野辰之)であろう。  北朝鮮による日本人拉致事件の被害者家族を支援する人たちが開く集会では、必ずこの歌が歌われるという。鴨が通り過ぎて来る半島は今や厳冬。無法に連れ去られた人たちは一体どうしているのだろう。日本へ渡ってゆく鴨たちを眺めて、もう涙も涸れ果てているのではなかろうか。(水)

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一湾の暮れてかすかに鴨の声     高石 昌魚

一湾の暮れてかすかに鴨の声     髙石 昌魚 『この一句』  シベリアや中国東北部から渡って来た鴨の集う、初冬の内湾の雰囲気が実によく表れている。水平線の彼方に日が沈み、シルエットになっていた鴨の群れがいつの間にか見えなくなり、海は急速に暗くなる。その中に鴨の声だけが響く。句形整然、古の名句を見るようである。芭蕉の「海くれて鴨のこゑほのかに白し」を思い出させる。  鴨には陸地の湖沼河川を越冬地にする真鴨(青首とも)、小鴨、尾長鴨、嘴広鴨(ハシビロガモ)などと、鈴鴨、黒鴨、秋沙(アイサ)など海(湾内)を住み処にする種類がある。キンクロハジロ、ミコアイサなど、淡水でも海水でもいい鴨もある。寒いとは言っても、鴨たちにとって日本の冬は温暖で、餌も豊富な天国なのだろう。冬の間、ここでたっぷり栄養を摂って、伴侶捜しをする。そして春になると相携えて北方大陸へ帰り、産卵し雛を育て、一人前に飛べるようになった晩秋、その若鳥を連れてまた日本に戻って来る。  何を好き好んでこんな長距離移動をしなければいけないのか、などというのは人間の浅知恵である。鴨は天然自然の理に従っているだけである。(水)

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堅焼きの煎餅かりつと冬日和     久保田 操

堅焼きの煎餅かりつと冬日和     久保田 操 『合評会から』(酔吟会) 水馬 固焼きのせんべいの「かりっと」と「冬日和」が合っています。冬の乾燥した感じと「煎餅」の堅い感じがよく合っていると思います。 睦子 「逆回り奥の細道」の旅で草加へ行った時、どなたかがお煎餅を買って下さって、みんなでいただきましたね。それを思い出しました。あの時も冬日和でした。 涸魚 かーと晴れ上がった冬の感じと堅焼煎餅のかりっとした感じをスッと句にしたところが上手いなぁといただきました。           *       *       *  三人が指摘するように、堅焼煎餅を囓ったことと冬日和がとても良く合っている。一見突拍子も無い取り合わせだが、煎餅がいい。これがクッキーやウエファースでは気取った感じになってしまう。睦子さんが指摘しているように、この句は吟行での嘱目か。読者にも、ちょっと寒いが真っ青に晴れた空まで見える、気持の良い句だ。(水)

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婦長にも私服の日あり黒セータ     玉田 春陽子

婦長にも私服の日あり黒セータ     玉田 春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 哲 いつも白衣を着ている婦長さん。外で会ったら黒のセーターを着ていた。いや驚いた、という感じをうまく表していますね。 白山 うまく作ったなぁ。でもちょっとやりすぎの感も・・・(笑)。 命水 この婦長さんセンスいいですね。自由な日は黒づくめ。黒色を選ぶという婦長さん、会ってみたいな(爆笑)。 綾子 制服姿しか知らない人が私服でいると、別人のように思えます。婦長さんともなればなおさらでしょう。場所柄、私服でも地味な装いなのでしょうか。 可升 いつもは白い制服の上に淡い色のセーターを合わせているのでしょう。非番の日の黒いセーターに、別人のような印象を受けたのでしょうね。目の付け所がいい。           *       *       *  合評会では口々に「うまく作ったなあ」との評判。しかし、作者によると「本とのことですよ、つい先日、街で偶然出会って、びっくりしたんです」という。とにかくこういうところをすかさず抑えるとは、句作のセンスもいい。(水)

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木枯らしや一族郎党連れ去りぬ     野田 冷峰

木枯らしや一族郎党連れ去りぬ     野田 冷峰 『おかめはちもく』  「挙家離村」という言葉がある。一家そろって村を離れるということだが、この句の場合は、家長を初めその係累がことごとく姿を消してしまったのだ。農村から都会への人口流動の勢いから見れば、当然あり得ることで、人気の絶えた山村に木枯しが吹き抜ける情景は身に沁みる以外の何物でもない。  ただし句の作り方にはちょっと問題がある。中七と下五は、木枯しが一族郎党を連れ去った、と受け取れるのだが、切字の「や」がそれを許さず、一族が“何者かに”連れ去られた、となってしまうのだ。そこで解決法の一つを提案したい。「や」を生かし、下五の「連れ去りぬ」を変えたらどうだろう。  ある山村に木枯らしが吹きすさぶ。その地域に住んでいた一族が次々に郷里を出て、ついに一人もいなくなってしまった、という感慨を詠めば、「や」の問題は解決するはずである。即ち『木枯しや一族郎党散り散りに』で、どうだろうか。実は私にも思い当たる一族があり、人ごとと思えなかった。(恂)

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冬の日や客一組の観覧車     大澤 水牛

冬の日や客一組の観覧車     大澤 水牛 『合評会から』(酔吟会) 春陽子 冬の日、寒いのだろう。観覧車にたった一組でしょう。うらやましい風景でもありますが。 涸魚 客の少ない日があるんですね。冬の情景にぴったりで、閑散とした観光地の模様が描けている。 操 若いカップルでしょうか。眼下の大きな風景を独り占めしている。 反平 冬の日に感じは合っているが、観覧車は句になりやすい。ちょっと安易かな、とも思いましたが。 而云 横浜の赤レンガ倉庫近くで、句のような風景を見た。寒い日だったが、妙に味わい深かった。 水牛(作者) この句はその「みなとみらい」です。私が見た時は吹き晒しの中、観覧車の客はたった一組。係のお兄さんは「一組でも動かさねばならない。当然、赤字ですよ」と苦笑していた。                 *         *         *  私は観覧車が好きなようで、いつもしばらく眺めてしまう。道路、列車、海釣りの舟など、どこから見ていても視線を簡単に外せない。三国志の古戦場(中国河南省)の枯野から遥かな洛陽の町の観覧車を見ていたこともある。なぜなのだろう。幼い頃の体験に関わるような気もするが、そのことは思い出せない。(恂)

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七五三頭押されて畏まる       工藤 静舟

七五三頭押されて畏まる       工藤 静舟 『合評会から』(酔吟会) 涸魚 子供が親に頭を押さえられて畏(かしこ)まる。神社での瞬間的な情景を面白く捉えた。 鷹洋 七五三で着飾っても、子供は何のことだか分からない。親はともかく頭を下げなさい、と。 てる夫 最近、五歳の孫にお付き合いしたが、七五三は何につけ親の気持ちばかりが表に出てきますね。祈祷の際、子供は結構、動いていて、親はそわそわしている。 水牛 やんちゃ坊主の実に迷惑そうな顔が浮かんできます。 而云 この句は、社殿に上がっている時かな。はやく頭下げなさいと押さえつけられている。 静舟(作者) 大相撲の九州場所はちょうどこの時期です。福岡へ行くと(作者は相撲記者OB)、向こうの神社でよく句のような風景を見掛けます。                 *         *        *  娘の七五三の時、やんちゃな男の子を見た。句と同じように親に頭を下げさせられていたが、負けん気を満面に横目で睨み返していた。あの子はどんな大人に成長したのだろうか、と今も思い出す。(恂)

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昼の月目指す歩荷や大枯野     谷川 水馬

昼の月目指す歩荷や大枯野     谷川 水馬 『この一句』  歩荷(ぼっか)とは重い荷を背負い、山小屋などに運ぶ人のこと。背中の荷を頭よりもずっと高く積み、休息の時も下ろさない。百舛らいは楽々だそうで、尾瀬に行ったとき、「ここにはタクシーは来ないから、動けなくなったら歩荷に背負われ、下まで運んでもらうことになる」と聞いた。  掲句は何といっても「昼の月目指す」がいい。歩荷はみな黙々と歩き続けるのだ。尾瀬の屈強な歩荷の中に、やせて背が高く、眼鏡を掛けた若者を見かけた。彼は休息の際、背の荷物はもちろんそのままに、ベンチに座り文庫本を読んでいた。やがて立ち上がり、またゆっくりと木道を歩き始める。  句の「大枯野」は尾瀬を置いて他にない、と思う。新潟、群馬の三県にまたがる盆地状の高原である。見渡す限りの草原は秋が深まると枯れ尽くし、晴れた日は黄金色に輝く大枯野となる。小屋は今年も十一月初めには閉じられたという。歩荷の若者は今も何処かを目指し、歩み続けているのだろう。(恂)

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