秋草や仙石原に潜む武者     池内 的中

秋草や仙石原に潜む武者     池内 的中 『おかめはちもく』  とても面白い句なのに、句会では点が入らなかった。蕪村には名句が沢山あるが、歴史に思いを走らせ自らもその舞台の登場人物になって絵巻物を繰り広げる、こうした俳句は楽しい。いいなと思いながら取れず仕舞になって、どうしてなのか後になっていろいろ考えてみた。どうも「潜む武者」という物々しい感じの下五に、「秋草や」というしとやかな上五を載せたところが違和感の因のようである。  秋草というものは、葛や薄は別として、女郎花、桔梗、竜胆、藤袴、吾亦紅など概ね丈が低く、ひっそりと咲く。萩はかなりの大株になるが、武者が隠れるほどの繁みになるものかどうか。ともかく「花野」という季語があるように、秋草は人の膝丈くらいに野原を埋めて、可愛い地味な花を咲かせる。ここに武者を潜ませようとした作者のストーリーの組立てに、少々無理があった。  ここは薄を持って来たらどうか。それも秋風に穂が一斉になびく「旗薄」はいかがだろう。戦場の雰囲気があり、薄の名所仙石原にもぴったりである。   (添削例) 旗薄仙石原に潜む武者       (水)

続きを読む

時の音も鈍く響ける霧の街     流合 研士郎

時の音も鈍く響ける霧の街     流合 研士郎 『季のことば』  移動性高気圧におおわれて晴れた日の翌朝、霧が出やすい。夕方も、地表や海面の温度と上層の空気との気温差が大きくなれば霧が立つ。春にも夏にも出るのだが、秋が最もひんぱんであり印象的な雰囲気を醸し出すので、秋の季語とされるようになった。春の方は「霞」と呼ぶ。  市役所、区役所、村役場などが毎朝夕、時報代わりにチャイムや音楽を拡声器で流す。たとえば千代田区では夕方五時になると童謡「夕焼小焼け」のメロディが流がれる。これは大地震や大津波、台風などで停電になりテレビもラジオもストップといった状況下に避難指示などを広く伝えるための防災無線で、のんびりと童謡を流すのが本来の目的ではない。それに大手町や神田、霞ヶ関など都心の午後五時はまだあくせく仕事中で、そんなものに気づく人はほとんどいない。しかしたまに表に出ている時にこれにぶつかると、場違いだが何となく懐かしい気分になる。ましてや霧が深く立ちこめた夕方ともなればなおさらである。  さりげない都会風景の一コマをさりげなく詠んで、ふっと一息という感じを抱かせる句である。(水)

続きを読む

朝霧に九十九の谷均されし     向井 ゆり

朝霧に九十九の谷均されし     向井 ゆり 『この一句』  九十九の谷が朝霧に覆われ、「均され」てしまったという言い方がとても面白い。山と谷が幾重にも折り重なり連なる地形を古来「九十九谷」と称した。「くじゅうくたに」と読むこともあり、「つくもだに」と言うこともある。「つくも」はあと一つで百という「次ぐ百」のことである。  この句は千葉県君津市鹿野山の九十九谷展望台公園で詠まれたものではなかろうか。数十年前鹿野山の観光牧場に招かれ、一泊して翌早朝此所に案内されて感激したことを思い出し、そうに違いないと思い込んでしまったのである。朝霧が麓の谷を埋め尽くし、雲海のようになって朝陽に燦めく。なんとも幻想的な雰囲気に包まれた。  うっすらと肌寒さを感じた覚えがあるから10月中下旬だっただろうか。やがて太陽が上がって来るにつれて霧が晴れ、眼下の谷と丘陵が陰影を作って、その遥か向こうに海が広がっている。雄大な景観に見とれて小一時間も坐っていた。この句は、もしかしたら全く違う九十九谷を詠んだものかも知れないが、まあ句意は同じであろう。(水)

続きを読む

つれづれに眺むる庭や秋の声     吉田 正義

つれづれに眺むる庭や秋の声     吉田 正義 『合評会から』(三四郎句会) 諭 ゆったりと詠んで雰囲気がある。語調を含めて伝わってくるものが多い。 進 素直に詠んでいて、同感ですね。 尚弘 「つれづれなるままに」なのですね。秋が来たのだ、という感じが伝わってくる。           *       *       *  まさにこの句は尚弘さんが言うように、「つれづれなるままに日暮し硯にむかひて心にうつるよしなしごとを・・」という兼好法師の身になって詠んだような句である。先人の名歌名句を踏まえ、それに唱和しながら自分の思いを述べる「本歌取り」という手法があるが、この句も一種の本歌取りと言えよう。  しかし、この句は単に言葉を借りたというのではなく、自分の「今」をそのまま詠んだところがいい。手入れを怠り何の風情も無い庭などろくに見る事も無かったのだが、何をするでもない夕方、何の気なしに目を遣った。雑草が花穂を伸ばし風に揺れている。もう既に種を飛ばしきってすがれているのもある。つくづくと、年を追うごとに時の過ぎるのが早くなっていくようだと思う。(水)

続きを読む

街灯の光膨らむ霧の橋     高橋 ヲブラダ

街灯の光膨らむ霧の橋     高橋 ヲブラダ 『この一句』  霧の中の街灯の光は乱反射し、ぼーっと大きく見える。川霧のかかりやすい橋の街灯ともなればなおさらである。それをただそのまま詠んだだけのように見えるが、この句からはいろいろな事を思い描くことができる。  それにこの句は舞台装置だけ見せて、登場人物はじめ、その橋や街灯にまつわる曰く因縁、その場で起こる出来事等々すべてを「読者の皆さん、お好きなように想像なさって、それぞれ素敵な物語をお作り下さい」と放り出している。面白い作り方とも言えるし、これほど横着な俳句は無いとも言える。しかし考えてみると、名句と言われる句の中には、こうした作り方のものがかなりある。ということはこの句は、いわゆる写生句の真髄を究めたものかも知れない。  私は一読うーんと唸った途端、浮かんで来たのがヴィヴィアン・リー、ロバート・テーラーの名画『哀愁』の霧のウォータールー橋とビリケン人形だった。六十八年前、不良中学生が授業をサボって見に行って、大泣きに泣いたことを懐かしく思い出す。つまり私にとってこの句は、思い出喚起の触媒というわけだ。(水)

続きを読む