天辺に来れば秋意の観覧車     大沢 反平

天辺に来れば秋意の観覧車     大沢 反平 『季のことば』  「秋意」(しゅうい)とは普段あまり目にしたり聞いたりすることの無い言葉である。広辞苑には「秋のおもむき、秋の風情」とあり、秋の季語としてある。ところが、これを載せていない歳時記が意外に多い。これに対して、「秋思」という人気の高い季語がある。ものの哀れを感ずる秋、つい物思いに耽ってしまう秋ということを表す昭和初期に生まれた季語だが、近来作例が非常に多い。どうやら「秋意」は「秋思」に圧倒されてしまったらしい。  しかし、秋の気分や情趣、澄み切った青空に何となく寂しさを漂わせる空気などを言う「秋意」は、なかなか味わい深い季語だ。ただし、これを用いるのは難しい。見慣れない言葉だけに、季語の説明に終わってしまったり、感情移入過多の句になってしまいがちだ。その点、この句は実に良く出来ている。天高く晴れた空をゆるゆると昇って行く観覧車。さあ、此処がてっぺんだという時に「ああ、秋だなあ」と感じた。あっさりそれだけを言っているのがいい。後は陰鬱な冬へと下って行くばかり、という寓意までは汲み取らなくていいだろう。(水)

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なるようになるしかならぬ枯れ真葛     藤野 十三妹

なるようになるしかならぬ枯れ真葛     藤野 十三妹 『この一句』  句会でこの句を見たときは、奇妙な言葉遊びのようで、少々投げやりな感じもすると思ったが、「とてもいい」と推す人がいた。確かに晩秋から初冬にかけての無惨に枯れ果てた真葛原を前にすると、こんな感じになりそうだ。  真夏の葛の茂りようは物凄い。四方八方に蔓をどんどん伸ばし、あらゆる草木を覆い尽くし枯らしてしまう。秋になると、蔓の節々に花房をつけ、薄紫の可憐な花を咲かせる。いかにも可愛らしい花なのだが、その根っこは大の男が渾身込めても引き抜けない力強さ。しかし、この獰猛な葛が晩秋になると一気に萎えて、冬になると枯れてしまう。  掲句の第一印象は、勢威をふるった葛も時が経てば枯れてしまうという「もののあはれ」である。しかし、作者は「なるようになる」という昔からある楽観的なフレーズと、「なるようにしかならぬ」という諦観的な文句を混ぜて「なるようになるしかならぬ」という新しい面白いフレーズをこしらえている。また春が来れば、枯れ真葛は旧に倍する勢いで辺りを席巻する。一見しおらしく、その実、どっこい生きてるぜというド根性がこの句の真意なのではないか。(水)

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泥まみれ子ら稲刈りの学習日     岡田 鷹洋

泥まみれ子ら稲刈りの学習日 岡田 鷹洋 『この一句』 「児童の安全」とか「衛生」とかがうるさく言われる昨今、稲刈り体験学習などは絶滅したかと思っていたのだが、こういう句が出てきたところをみると、まだやっているようだ。真に結構なことだと思う。  ITだAIだと訳の分からない横文字略語が飛び交う世の中にはなったが、日本人は相変わらず米食民族であり、「米は宝」であることに間違いない。コンビニで若い男女に一番人気があるのは、オムスビとおでんだということからしても、日本人と米との縁はまだまだ続くに違いない。  稲刈りと言えば近ごろはコンバインでざざーっと刈り取りながら脱穀も済ませてしまうのが普通になった。鎌を振るって丁寧に刈り取り、稲架(はさ)に掛けて陽の光りで乾かしたお米は実に美味い。しかしそんな手間をかけるのは農家の自家消費分とキロ当たり千円以上の高級米だけなのだとか。  とにかく慣れない稲刈り体験で興奮状態の子供たちは泥まみれになって大喜び。こうした経験はこの子らの将来に大きな糧となる。子どもたちのはしゃぎようが伝わって来る楽しい句だ。(水)

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秋寒し石鹸痩せて夜半の風呂     中嶋 阿猿

秋寒し石鹸痩せて夜半の風呂  中嶋 阿猿 『合評会から』(日経俳句会) 好夫 どこがいいかと言われても分からないが、「秋寒し」「石鹸痩せて」「夜半の風呂」がいずれもそろって、なんとなく感じが出ているなと思った。 三薬 私もどうして採ったか説明がうまくつかないが、上手い作りに騙されて採ってしまった(笑い) 哲 『神田川』のイメージだ。「石鹸痩せて」で綺麗な人が夜中の風呂に入っている情景が浮ぶ綺麗な句だ。 庄一郎 秋更けて夜遅く帰り、独り入浴している姿が目に浮かぶ。 万歩 泡のたたないちびた石鹸を使う時の心はまさに秋寒しだ。 睦子 「痩せて」が「秋寒し」にとても効果的。           *       *       *  「どこがいいかと聞かれても答えるのが難しい」「なんとなくいいなと思ってしまう」──良い句とはそういうものなのかも知れない。ふと感じたことをそのまま詠む。それを読んだ人が共感を抱く。それが佳句の条件で、さしづめこの句はその見本のようだ。(水)

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をちこちに杉の尖りや霧の海     今泉 而云

をちこちに杉の尖りや霧の海     今泉 而云 『合評会から』(日経俳句会) 双歩 霧の中に杉の先だけが見える光景をとても上手く詠んでいる。 三代 どこから見ているのかなと想像した。山の中腹なのかな。「杉の尖り」がうまい。 木葉 どこから見ていてもいい。霧から出ている杉の先端を「尖り」と言ったのがいい。 阿猿 墨絵のような光景が浮んで来た。 哲 いかにも静かな様子を描いているのがいいと思う。 反平 実景かも知れないし、想像句かも知れないが、視点が新鮮だ。 正市 峠辺りから周囲の山を見ての景か。立ち位置がよくわかる。           *     *     *  まさに水墨画の景色である。作者によれば、「岐阜の千光寺に円空の彫った両面宿儺(りょうめんすくな)を見に行って山の中腹から見た光景」だそうである。立ちこめた霧によって自らも仙界に置かれたような気分になる。(水)

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青蜜柑乙女のごとく寡黙なり    宇佐美 諭

青蜜柑乙女のごとく寡黙なり    宇佐美 諭 『おかめはちもく』  今回は通常の添削の枠を超えて、俳句の構造にまで手を伸ばすことにした。作者の所属する三四郎句会の作品は、作句の基本形「一句一章」に留まる句が断然多く、句中に断切のある「二句一章」の句が少ない、と感じているからだ。「一つの概念」を二つに分割、という異例の添削ではある。  掲句は「青蜜柑」が「乙女のごとく寡黙である」と、一つの概念に詠み上げている。それを「青蜜柑」で切り、句を上下二つに切ってみよう。続いて「乙女は」と、別の主体を誕生させ、「青蜜柑乙女は笑みて寡黙なり」としてみる。青蜜柑と乙女という二つの存在が浮かび上がってくると思う。  以上が明治末から大正期に活躍した俳人・大須賀乙字の唱えた「二句一章論」の具体例である。そしてさらなる添削を許して頂きたい。「寡黙なり」の堅さを避け、「青蜜柑乙女は笑みて答へざる」としてみたいのだ。青蜜柑を挟んで乙女の向かい側に、一人の青年が見えてくるのではないだろうか。(恂)

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風読みて芒並べる花屋かな     谷川 水馬

風読みて芒並べる花屋かな     谷川 水馬 『この一句』  面白い場面だなぁ、と嬉しくなった。花屋の店の奥に店員がいて、時々外を眺めていたのだろう。すると、例えば道行く人の軽いコートが靡いている。風が吹いてきたのだ。そうだ、と店員は気づく。店の中に活けてあった芒(すすき)をよいしょ、よいしょと運び出し、外に並べてみたのである。  今年の「中秋の名月」は九月二十四日だった。満月は翌日の二十五日だったそうだが、どちらが重要な日か、なんて考える必要はない。中秋の名月と中秋の満月。二日にわたって月見を楽しめるかも知れないし、花屋さんにとっては、芒の売れるチャンスが一日増えたことになるではないか。  とは言え二日間のこと。ボーッとしていたら、時季物の芒は売れ残ってしまう・・・と思っていたら風が吹いてきた。店員さんは「これだ」と気付き・・・。やや作り過ぎか、とは感じたが、これも俳句の面白さだ。道行く人も「風の中の芒」に気付いて買い求め、我が家の月見を楽しんだに違いない。(恂)

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小鳥来るめだかの甕のみなぎわに    澤井 二堂

小鳥来るめだかの甕のみなぎわに    澤井 二堂 『季のことば』  小鳥がやってくる季節になった。二坪ほどの我が小庭でも、草や葉が動いていると思って見つめていたら、小鳥がつんつんと移動していた。隣家の同じような小さな庭からもやってくるようだ。もし屋根の庇が薄い木の板だったら、小鳥到来の小さな物音を嬉しく聞くことが出来るかも知れない。  小鳥は水たまりを好むようだ。古い火鉢を半分ほど地面に埋めて金魚を飼っていた頃、その周囲には確かに小鳥が来ていた。火鉢の中に飛び込んで、身震いしながら水浴びをしていたのを目撃したこともあった。作者がめだかを飼っている甕の周りにも小鳥たちが集まって来るのである。  ところで「みなぎわ」とは「水際」のこと。平仮名表記にして格好よくなった、と感心していたのだが、本欄のもう一人の筆者(水)氏から声があった。「みなぎわ、という古い言葉を使うなら“みなぎは”と書いてもらいたいなぁ」。そうでした。旧仮名を正しく使うべし、と私も肝に銘じた。(恂)

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二人ゐて一人ぼっちの夜長かな     田中 白山

二人ゐて一人ぼっちの夜長かな     田中 白山 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 想像を掻き立てられる句であり、いろんなストーリーが描ける句とも言えますね。タイトルが同じでも、導き出せる物語がいくつもあるように。 可升 二人は男女かなぁ、と思いますが、人それぞれ、いろんな状況があるはずですね。この句のようなことが往々にしてあるのでしょう。 満智 一人よりも一層寂しいかも知れません。 斗詩子 気持ちがすれ違って、ご夫婦が背を向け合って寝るのか、一人が別の部屋に行くとか。でもね、いつも仲のいい夫婦だから、こういう句もできるのでしょう。 白山(作者) 私はね、こうならなくちゃいけない、と思っている面があるんですが・・・。            *         *         *  作者のコメントの最後は聞き取れなかったが、敢えて問い直さなかった。高齢の、仲のいいご夫妻の来し方、行く末の、いくつかのストーリーが浮かんで来て、身の引き締まる思いが湧いてきたからである。(恂)

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仏壇の朱盆にふたつ青蜜柑      深瀬 久敬

仏壇の朱盆にふたつ青蜜柑      深瀬 久敬 『合評会から』(三四郎句会) 信 この句のポイントは朱塗りのお盆でしょう。青い蜜柑との取り合わせが印象的だ。 賢一 私も「朱盆」がいいと思いました。 進 秋の収穫と何らかの関係がありそうで。青蜜柑二つも印象的だ。 諭 色彩感覚を刺激される句ですね。二つの青蜜柑が何を表しているのかですが。 尚弘 一つだと寂しい、三つだと多すぎる。だから二つに・・・ (笑い) 久敬(作者) 「ふたつ」で「父母へ」の供えが分かるかな、と思いましたが。           *          *         *  「朱盆」とは? 仏壇に置く朱塗りの小さな盆、果物や菓子などを供える一本脚付きの器物、「高月」(高坏)のこと、と解釈すればいいのだろう。この句では、器の朱と青蜜柑の色の取合せが話題の中心になった。  一家の亡くなった人を仏として祀るのは、他の仏教国にない、日本仏教の特徴だという。生者は毎朝、先祖や家族の霊を拝み、念仏を唱え、心の中で会話を交わす。季節の果物が手に入れば、まず仏様へと捧げる。今朝は瑞々しい青蜜柑だった。仏壇という狭い空間が、人と仏様との交流の場になっている。(恂)

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