秋天に鴟尾輝ける興福寺     久保田 操

秋天に鴟尾輝ける興福寺     久保田 操 『合評会から』(日経俳句会) 庄一郎 これはもうこの通り。興福寺が新しくなったのをテレビ映像から詠んだのだろうが、「鴟尾輝ける」が上手い。 十三妹 なんの衒いもない、しかも光景がはっきり分かる。秋の晴れやかな光景がいい。 三代 「秋天に輝く」なんてのは、普通は採らないのですが、ニュースで新しい鴟尾が輝いているのを見たら採らざるをえない。           *       *       *  10月7日に興福寺の伽藍の中心を為す中金堂の落慶法要が行われ、雄大荘厳な建物が300年ぶりに姿を現した。天平時代の代表的な伽藍建築だが、7回も火災で焼尽した。今回完成したのは享保時代に焼け落ちて以降300年も失われていたものを、天平時代の資料を基に忠実に復元したという。ただ、太く長い巨大な丸柱が国産材では均質なものが揃わず、カメルーン産になったというのが、いかにも時代を表している。落慶法要のテレビ中継は迫力があった。特に巨大な金色に輝く鴟尾が印象的だった。いいところをパッと詠んでいる。(水)

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長き夜やリモコンを手に眠る妻     前島 幻水

長き夜やリモコンを手に眠る妻     前島 幻水 『この一句』  肉親、ことに妻と孫と母の句はどうしてもベタベタになりがちで、背中が痒くなるような、「勘弁してくれぇ」といったものが多い。だから作句暦を重ね経験上それがよく分かっている人は、妻孫俳句をあまり作らず、他人のはさっと通り過ぎてしまう。中には「妻と孫の句は絶対に採らない」などと言う人もいる。  しかし、妻や孫や、そして親(ことに母親)は、最も身近な存在なのだからせっせと詠むべきだと思う。しかし、難しい句材だから、それをいかにこなすかが腕の見せ所。とにかくさらっと事実だけを述べ、間違っても「可愛い」とか「不憫だ」とか形容詞をはじめとした飾り言葉を用いないことが大事だ。可愛い孫を見ればどうしたって「可愛い」と言いたくなり、苦労をかけた老妻には労りの言葉を捧げたくなるのが人情というものだが、それを生の形容詞でうたってしまうとぶち壊しになってしまう。  この句はその点、あるがままを描写し、しかも裏側に妻への思い(ああ、疲れているのだろうなといった思いやりなど)が込められていて、とてもいい。(水)

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茅葺の御堂の藥師秋気満つ     大下 綾子

茅葺の御堂の薬師秋気満つ     大下 綾子 『季のことば』  「茅葺の御堂の藥師」という上五中七の措辞と、下五に置いた「秋気満つ」という季語が微妙に響き合って、実に良い雰囲気を醸し出している。  この句も昨日の無言館の句と同じく、9月26日から27日にかけて吟行した長野県上田市での作品。塩田平の南側に連なる奇妙な形の独鈷山の麓に建つ名刹中禅寺の薬師堂を詠んでいる。この薬師堂は平安末期・鎌倉時代初期に作られた長野県最古の木造建築物で重要文化財。三間四方の御堂で、棟木が中心に向かって斜めに立ち上がり天辺の宝珠の下に集まる「宝形造り」という建物。茅葺屋根とも相俟って、素朴で実に温かい感じの薬師堂だ。  「秋気」とは字の通り、秋の気配、秋の空気、秋の気分を表す季語である。漢詩から出た季語で、「爽やか」「秋色(秋の色)」「秋の声」などが江戸時代から詠まれているのに対して、ぐっと新しく、昭和に入ってから用いられ始めた。しかし、この句のように鄙びた薬師堂に配されると、とても爽やかで清清しい秋の気配に包まれる感じになる。(水)

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遺る絵の無言の叫び虚栗(みなしぐり)     徳永 木葉

遺る絵の無言の叫び虚栗(みなしぐり)     徳永 木葉 『合評会から』(9月・日経俳句会番町喜楽会合同上田吟行) 鷹洋 戦没学徒の無言の絵画。戦争の空しさを告発して印象的。 哲  無言館の絵はどれも「もっと生きたかった」と叫んでいた。 光迷 まともに実を結ぶことができなかった虚栗と画学生の無念の想いの取り合わせには頷くほかありません。最近の世相に、その想いはさらに募ります。 てる夫 「無言の叫び」と「虚栗」のダブルの衝撃です。 二堂 無言館に遺る絵はみな充実した絵ですが、それを敢えて虚栗と言ったところが悲しみを誘います。           *       *       *  画家として、彫刻家として、これから第一線に羽ばたこうとしていた時に徴兵、出征。どんなにか心残りだったことか。恐らくこの人たちは、周囲の熱気と時代の勢いに煽られて、自らも意気軒昂「行って参ります」と敬礼し雄々しく出立したに違いない。しかし、祖国の為に一命を捨てる覚悟を持ちながらも、やはり後ろ髪を引かれる思いがあっただろう。「虚栗」が実によく利いている。今回吟行の秀作である。(水)

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洟かんで中を抜けたり秋の風      植村 博明

洟かんで中を抜けたり秋の風      植村 博明 『おかめはちもく』  掲句を見て芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」が浮かんだが、「洟」の字に共通点があるものの、句の構造や表現などは全くの別物だ。洟をかんだら、秋風が通り抜けて行った、という着想が実にユニークである。このような句は私にはとても作れない、とまず兜を脱いでおく。  ただ句を選んだ一人が「“洟かんで”は俳句の言葉として微妙」というコメントを寄せていた。冬の季語に「水洟」があるのだから「洟かむ」ももちろん許されるはずだが、洟をかむ音は聞きたくないし、その様子を見たくもないし・・・、と考えているうちに、それとは別の気になる個所を発見した。  「中を抜けたり」の「中」は何なのか。「中」が「洟の中」だとすると、微妙以上の感じになってしまう。ここははっきりと「鼻を抜けたり」とした方がいいのではないだろうか。合評会でそのような提案をしたところ、何人かから同意を頂いた。作者の推敲例にあったかも知れないが、一字添削させて頂く。(恂)   添削例  「洟かんで鼻を抜けたり秋の風」

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運のいい人生だなぁ秋の空     髙井 百子

運のいい人生だなぁ秋の空     髙井 百子 『合評会から』(番町喜楽会) 而云 俳句をやる人って大体、こうじゃないか(笑)。年をとると、同感の意が高まりますね。 命水 ハッピーライフがすっと心に入って来る句です。羨ましいなぁと思っていただきました。 冷峰 「運のいい人生」と言いきれる人は本当に幸せな人ですね。「秋の空」もよく合っています。 白山 句のようにスパッと言切るのは、なかなか難しいですね。僕もあと少したったらこう言えればいいな、と思っていただきました。 満智 羨ましいなぁ。素直な句だ、と思いました。                  *        *       *  句を選んだ全員が、いや選ばなかった人も、明るい気持ちに満たされていたのではないだろうか。人生いろいろあるはずだが、作者のプラス思考が、辛い記憶や嫌な思い出を消していったのだと思う。  ナポリ民謡「オー・ソレ・ミオ(私の太陽)」の明るいメロディが自然に浮かんできた。♪♪晴れ晴れと陽は輝 き・・・。句の下五が効いていて、秋の青空を見上げたくなった。オー、それ、見よ。(恂)

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お土産は何の種かな小鳥来る     須藤 光迷

お土産は何の種かな小鳥来る     須藤 光迷 『季のことば』  家の小庭に千両の苗を植えたのは十何年か前のことだ。年ごとに赤い実を地面に落としていたはずだが、芽生えることはなかった。ところがある年から、あちこちに芽を出すようになってきた。さらに我が家で見たことのない万両や南天も芽を出し、どちらも赤い実をつけている。  その理由はテレビの園芸番組で判明した。千両や万両などの実が落ちても、果肉がついたままだと芽を出さないのだ。小鳥が食べて果肉を消化し、残りをポトリ、というのが、芽生えのタネ明しであった。即ち我が庭は千両一本によって小鳥を招き、いろんなお土産を頂くようになったのだ。  作者は「何の種かな」とゆったりと構えている。以上のような実物(みもの)の芽生えのからくりをずっと前からご存知で、毎年、「小鳥来る」季節を楽しみながら過ごしているようだ。私の場合を言えば南天が大きくなり過ぎるので、切るか、残すか、さてどうするか、と悩んでいる。(恂)

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過疎の村若き家族と小鳥来る      中村 哲

過疎の村若き家族と小鳥来る      中村 哲 『合評会から』(番町喜楽会) てる夫 よくできた創作の句ですね。過疎の村にも小鳥は来るでしょうが、ついでに若い家族も連れて来てと、過疎を浮き彫りにしたのが気に入りました。「創作賞」を出したいですね(笑)。 冷峰 テレビで過疎の村に若い人が来るという番組を時々見ます。「小鳥来る」とうまく合っていると思う。 可升 喜ばしい来訪者として「若き家族」と「小鳥」を並べたのが上手いなと思います。もしかすると、来たのは定年退職者かもしれませんが、それでも十分若い(笑)。 水牛 てる夫さんの指摘されたように作った句かと思いますが、ほのぼのとして、とてもいい。 水馬 過疎の村は中央集権の弊害に負けず、頑張って欲しい。自然を守る小鳥たちも同様ですね。 斗詩子 晩秋の過疎の村へ若い一家が住み着き、渡り鳥たちも来て、賑わいが戻った。微笑ましい句です。 哲(作者) 過疎の村の若い人を呼び込む活動をテレビで見て詠みました。ご指摘の通り、創作です(笑)。               *         *       *  芭蕉や蕪村らはおおよそ頭の中で句を作っていたらしい。現代でも創作、空想大いに結構ではないか。(恂)

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窓々に人それぞれの夜長かな     玉田春陽子

窓々に人それぞれの夜長かな     玉田春陽子 『合評会から』(番町喜楽会) 冷峰 昔の映画「裏窓」を思い出した。夜中に家々の窓を眺めると、いろんな人生が浮かんでくる。 命水 窓の灯りがそれぞれの人生を反映している、という捉え方がいいですね。 幻水 私の近くに老人ホームがあって、夜ベランダから見ると、句のような感慨を抱きます。 水兎 電車から見るマンションの灯りは、人々の営みの安らかさと、切ない儚さを感じますね。 斗詩子 眠れずに窓から外をぼんやり眺めていると、深夜遅いのに灯りがぽつりぽつり。眠れないのか、夜なべをしているのか、赤子にお乳をやっているのか。いろんな想像が生れます。 水牛 都会は宵っ張りが多いので、灯りがたくさん点いているのだろう。いい句ですが、「窓々に」が口調的にちょっと。「窓ごとに」くらいにしたいなぁ。             *        *        *  家々の灯は子供頃、横一列だった。やがて四角く碁盤目に区切られ、超高層の縦長型も目につくようになった。今の子供たちが大人になったら、どんな窓の灯を眺め、何を考えるのだろうか。(恂)

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跳ね太鼓釣瓶落としの秋の暮れ     工藤 静舟

跳ね太鼓釣瓶落としの秋の暮れ     工藤 静舟 『おかめはちもく』  「釣瓶落とし」とは深い井戸の底に釣瓶を落とすように、真っ直ぐ素早く落ちて行く形容で、秋の夕日が見る見る落ちて行く様を言う決まり文句である。「平家物語」にも出て来るから、もう八百年も昔から使われてきた言葉である。  常套文句を使う利点は、誰にもすぐ分かってもらえることである。句の中にぴたっと嵌まれば非常な力を発揮する。読者に違和感を抱かせることなく納まり、わざとらしさやいやらしさが無ければ大成功である。  この句は秋場所の打出し後の両国界隈の雰囲気を表して、とてもいい。隅田川に夕靄がかかり、両国橋から西を眺めれば茜色の夕空、東の本所方面にはぽちぽちと呑屋の灯りも見え初める。テンテンバラバラ、ステテンテンテン、パラパラパラパラ、ステテンテンテン・・・、「初日二日目の今頃はまだ昼間の続きの塩梅だったのに、ずいぶん日が短くなりましたなあ」などという会話が聞こえる。  しかし、やはり「釣瓶落としの」と来て「秋」は安易である。思い切って変えた方がいい。「釣瓶落としの秋の暮れ」を自分の言葉に置き換えればいいのだ。「跳ね太鼓背(せな)に早足秋の暮れ」なども一例。(水)

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